第16話 聖女の提案
王宮の礼拝堂は、昼間でも薄暗かった。
高い天井から差し込む光は、色付きの窓を通って床に落ちる。
それは祈りの場にふさわしい、静謐な空気を作り出していた。
――だが今、この場所には、祈りとは別の緊張が漂っている。
「皆様……今こそ、心を一つにすべき時です」
白い法衣を纏った聖女エリス・ルミナリアは、集まった司祭と数名の貴族を前に、穏やかに語りかけていた。
その声は柔らかく、否定を許さない。
「人々が不安を抱いているのは、信仰が揺らいでいるから。
物や金の不足ではありません」
誰かが息を呑む。
その言葉は、半分だけ正しい。
だが、半分だけだ。
「ですから――」
エリスは、少しだけ声を強めた。
「王都を挙げて、大祈祷を行いましょう」
ざわめき。
「三日三晩、祈りを絶やさず、王国の安寧を神に捧げるのです。
そうすれば、民の心は落ち着き、混乱は自然と収まるでしょう」
善意だった。
疑いようもないほどに。
だが、その場にいた数名の官僚は、言葉を失った。
「……聖女様」
恐る恐る、年配の司祭が口を開く。
「大祈祷には、多くの人手と資金が……」
「承知しています」
エリスは即答した。
「ですから、教会の蓄えを使います。
人々のために使わずして、何のための蓄えでしょう」
それは、美しい言葉だった。
同時に、危険な言葉でもある。
教会の蓄えは、王都の最後の緩衝材だ。
そこに手を付ければ、戻る場所はなくなる。
「準備は、すぐに始めます」
エリスは、もう決めていた。
その知らせは、すぐに王宮へ届いた。
「……聖女が?」
王太子レオンハルトは、報告を聞き、目を見開いた。
「大祈祷を、ですか」
「はい。民心の安定を目的に」
補佐官の声は慎重だ。
レオンハルトは、椅子に深く腰掛けた。
止めるべきか。
それとも、任せるべきか。
聖女の提案を退ければ、信仰を軽んじたと受け取られる。
受け入れれば、現実的な資源が失われる。
「……調整官は、どう言っている」
「エドガー卿は……判断を保留しています」
レオンハルトは、目を閉じた。
また、保留。
結局、決断は彼の元へ戻ってくる。
「……許可する」
その一言が、次の歪みを生んだ。
王都では、大祈祷の準備が始まった。
人々は集められ、聖歌が響き、街路には祈りの旗が掲げられる。
表面上は、確かに落ち着きが戻った。
「聖女様が動いてくださった」
「これで、きっと大丈夫だ」
人々は、そう信じた。
だが、その裏で。
教会の蓄えは急速に減っていく。
人手は祈祷に取られ、物流はさらに鈍る。
市場の裏通りでは、商人が顔を曇らせていた。
「……祈って腹は満たされるか?」
その呟きは、小さく、だが確実に広がる。
一方、地方都市の宿。
アリシア・フォン・ヴァレンシュタインは、マティアスの報告を読み、静かに息を吐いた。
「聖女が動いたのね」
「はい。大祈祷です」
アリシアは、少しだけ目を伏せる。
「善意が、最も高くつく局面に入ったわ」
マティアスは、言葉を選びながら尋ねた。
「……止めなくて、よろしいのですか」
「止めれば、私が“悪”になる」
即答だった。
「彼女は、信じている。
だからこそ、誰も止められない」
アリシアは、窓の外を見る。
地方の空は静かだ。
だが、王都の歯車は確実に悲鳴を上げ始めている。
「次は、数字が崩れる」
祈りが終わった時、
王国に残るのは“信仰”ではない。
――請求書だ。
聖女の提案は、善意だった。
だからこそ、誰にも止められなかった。
王都は今、
**正しさによって、さらに深く追い込まれていく。**




