第13話 誰も怒らせない選択
王宮の一日は、忙しさだけが増していった。
会議は増え、報告書は山積みになり、廊下を行き交う役人の足取りは速い。
――だが、結果だけが伴わない。
「市場の件ですが……」
財務官が、遠慮がちに切り出す。
「現状では、直接介入は難しいかと。
商会側の反発を招く恐れがあります」
「ならば、補助金を」
別の官僚が言う。
「ただし、額は抑えねばなりません。
前例を超えると、監査で問題になります」
「軍は?」
「現行契約の範囲内であれば……」
範囲内。
前例内。
想定内。
エドガー・ラインフェルトは、黙って聞いていた。
全員の意見が分かる。
全員の懸念も理解できる。
――だからこそ、否定できない。
「では……」
彼は慎重に言葉を選ぶ。
「市場への直接介入は見送り。
補助は最小限。
軍は現行体制を維持。
教会には、精神的支援をお願いする」
誰も反論しなかった。
だが、誰の顔にも安堵はない。
それは、誰もが“自分は守られた”と感じられなかったからだ。
商会は、不満を抱いた。
「結局、責任はこちらか」
軍は、不信を募らせた。
「有事に備える気はあるのか」
教会は、困惑した。
「祈りだけで済む話ではありません」
そして王宮は、それらすべてを「理解しているつもり」でいた。
エドガーは、自室に戻ると椅子に深く腰を下ろした。
机の上には、各所からの書簡。
抗議でも要求でもない。
――“様子を見る”という意思表示。
「……誰も、満足していない」
それでも、誰も怒ってはいない。
それが、彼の判断の成果だった。
だが同時に、それが限界でもある。
同じ頃、王都中央市場。
客足はある。
だが、滞在時間が短い。
人々は必要なものだけを買い、すぐに立ち去る。
会話は少なく、笑顔も少ない。
「今日は、売れないな」
商人が呟く。
「いや、売れてはいる。
ただ……」
その先を、誰も言わない。
“未来が売れていない”のだ。
王都南区の兵舎では、訓練が短縮されていた。
「消耗を抑えろ」
それが新しい指示だ。
「演習は控えめに。
物資は温存する」
兵たちは従う。
だが、士気は上がらない。
備える理由が、見えないからだ。
夜。
エドガーは、再び机に向かっていた。
書類を読み返し、数字を確認し、矛盾がないかを確かめる。
――すべて、整っている。
それでも、胸の奥に重いものが残る。
「……これで、本当に良かったのか」
彼は、自問する。
正しい判断をした。
誰も怒らせていない。
混乱も、まだ大きくはなっていない。
だが――。
扉がノックされる。
「入って」
現れたのは、若い文官フリーダ・ノルンだった。
「失礼します。
地方からの追加報告が……」
彼女の表情は硬い。
「……また、ですか」
「はい。
いくつかの町で、倉庫の閉鎖が始まりました」
「理由は?」
「資金不足です。
王都の判断を待っている、と」
待っている。
その言葉が、エドガーの胸を刺した。
「……分かりました。検討します」
フリーダは、一瞬だけ唇を噛んだ。
「……いつ、ですか」
問いは小さい。
だが、重い。
エドガーは答えられなかった。
フリーダは一礼し、部屋を出る。
扉が閉まった後、エドガーは天井を仰いだ。
誰も怒らせない。
誰も切り捨てない。
――それは、本当に“守る”ということなのか。
王都は今、静かに、確実に停滞している。
そしてその停滞は、
やがて取り返しのつかない形で、
誰かを怒らせることになる。
それに気づいている者は、
まだ、この部屋にはいなかった。




