第10話 始められるわね
王宮の会議室に、沈黙が落ちていた。
誰も言葉を発しない。
机の上には、商会から届いた正式文書が置かれている。
――融資再開の条件。
そこに書かれている内容は簡潔で、冷酷だった。
・王宮は資金運用に関与しない
・監査は第三者機関が行う
・決定権は商会側に委ねる
それは援助ではない。
統治権の一部譲渡だった。
「……受け入れれば、王宮は何もできなくなる」
誰かが、絞り出すように言った。
「拒否すれば、国が止まる」
別の誰かが、続ける。
正解は分かっている。
だが、それを口にする勇気がない。
王太子レオンハルト・アルヴェインは、文書を見つめたまま、動かなかった。
指先が、わずかに震えている。
――なぜ、こうなった。
断罪裁判の場面が、脳裏に蘇る。
何も言わず、何も求めず、ただ立っていた女。
あの時、確かに思ったはずだ。
「これで終わった」と。
だが、終わったのは――
彼女ではなかった。
「……殿下」
補佐官が、恐る恐る声をかける。
「決断を」
レオンハルトは、目を閉じた。
正義のための決断。
民のための決断。
王国のための決断。
そのどれを選んでも、誰かを切り捨てる。
――それが、政治なのだと。
「……条件を、受け入れる」
その一言で、すべてが決まった。
誰も歓声を上げない。
誰も安堵しない。
ただ、静かに、王宮の権威が一段落ちた。
その知らせは、半日も経たずに王都中へ広がった。
「商会が動くらしい」
「でも、王宮は口を出せないんだって」
「それって……」
人々は言葉を濁す。
不安は消えない。
市場に物は戻り始めた。
軍への補給も再開される。
教会の寄付も、少しずつ回復する。
――だが、それは“王の力”によるものではなかった。
一方、地方都市の宿。
アリシア・フォン・ヴァレンシュタインは、マティアスからの最終報告を読み終え、静かに紙を畳んだ。
「……条件を、飲んだのね」
「はい」
マティアスは、短く答える。
「これで、王都は当面の安定を得ます」
「ええ。三ヶ月ほどは」
アリシアは、そう付け加えた。
「……その先は?」
マティアスが問う。
アリシアは、紅茶の湯気を見つめながら、少しだけ間を置いた。
「決断できない統治機構は、必ず同じ選択を繰り返すわ」
それは断言だった。
「次も、条件を飲む。
その次も。
そして、いつの間にか――」
彼女は、ゆっくりと視線を上げる。
「自分たちが“何を失ったのか”すら、分からなくなる」
マティアスは、背筋が冷えるのを感じた。
「……ここから、どう動かれますか」
その問いに、アリシアは初めて、はっきりとした笑みを浮かべた。
それは勝利の笑みではない。
始まりを告げる者の表情だった。
「ようやく、準備が整っただけよ」
彼女は立ち上がり、窓の外を見る。
地方の空は、どこまでも広い。
「王国は、まだ“壊れて”はいない」
だからこそ。
「今なら、形を変えられる」
アリシアは、静かに宣言した。
「――始められるわね」
その言葉は、誰にも届かない。
だが確かに、世界はその瞬間から別の段階へ進んだ。
断罪裁判は、完全に終わった。
そして、
**悪役令嬢による国家解体の幕が、静かに上がったのだった。**




