風林火山と風鈴
親が優秀すぎると、その子が感じるプレッシャーは半端でないのかもしれない。武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は、父の名を辱めないため最大限の努力をした。その甲斐あって彼は、父の信玄が落とせなかった遠江の高天神城を徳川方から奪取することに成功する。長篠の戦いで大敗を喫した後にもかかわらず、である。
高天神城の陥落は織田信長を驚かせた。信玄亡き後の武田家も侮れずとの思いが彼の中で強まる。いずれは全面対決するにしても、別方面で敵対する本願寺や毛利氏を屈服させてからでも遅くない、と彼は考え始めた。
信長の嫡男である信忠は父と考えを別にしていた。
武田勝頼は侮れない。だからこそ、早く滅ぼすべきなのだ……と、信忠は考えたのである。
優秀な父親を持つ息子同士が抱くお互いへの競争心も、信忠による武田攻撃の原動力になった可能性はあるけれど、それを本人が意識していたのかどうか分からない。
ともあれ織田信忠は父を説得し武田攻撃に踏み切らせた。天正十(一五八二年)年二月、信忠は織田軍の総大将として武田領内に攻め入る。城攻めの際、総大将なのに塀の上によじ登って指揮をしたそうだから、かなり気合が入っていたと言っていい。
攻撃を受けた武田勝頼は反撃に転じた。だが、味方の武将は信忠の軍勢に破れるか、あるいは勝頼を裏切り織田方へ投降した。せっかく奪った高天神城も補給が追いつかず徳川に再奪取されている。父の信玄に負けないよう無理な拡大戦略を取った反動が来たのだ。
破竹の勢いで進撃する信忠に、父の信長は再三、進軍速度を緩めるよう書状を送っている。信長は勝頼の逆襲を警戒していたのだ。しかし前線の信忠は父の命令を無視した。父が言うようにチンタラ動いて勝頼に再起されたら危険だと考えたのだ。
信忠は迅速に軍を進め三月、天目山において勝頼を自刃に追い込む。享年三十七。
武田を滅ぼした信忠は残党狩りに着手する。時の正親町帝より大通智勝国師という国師号を賜った快川紹喜が住職を務める恵林寺が、武田の遺臣を匿った廉で焼かれた。この僧侶は武田信玄に『風林火山』の軍旗を書き贈ったとされる。彼は死に際し「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と夏の日に風鈴の音色を楽しむかのような言葉を残した。
本能寺の変は武田氏滅亡から約三か月後の六月に起きた。信長親子は明智光秀に討たれる。信長は享年四十九、信忠の享年は二十六である。




