その光景は
「あ、あぶなかった……」
そうつぶやいたのはリクかコニーか。両方だったかもしれない。
どちらもそこら中飛び込んで回避してはギリギリの綱渡りをやっていたせいで擦り傷だらけだし、葉っぱや枝が悲惨なほど絡まっていた。彼らは吸い込んだ息をゆっくり吐きだすと、同時にへなへなとその場に崩れ落ち、それからしばらくピクリとも動かなかった。
「リク、生きてるか」
「死んでるかもしれない……」
「生きてるわよ。遅くなって悪かったわね」
そこにレーネが肩に蝶を一匹つけたまま戻ってきた。二人の命を賭けて全力で追跡した彼女もほとんど同じ状態だ。二人を見てようやく自分の頭にも枝葉がくっついていることに気がついたらしい。ぽいぽいといくつかを引っこ抜いた。
「さ、行きましょ。お目当てのもの取り出さないとね」
安心したように笑い、振り返って森の奥に引き返すレーネ。それを見た二人は横になったまま顔を見合わせるとのろのろと立ち上がり、彼女の先導で歩き出した。
「これが幻惑狐……」
そこにあったのはリクが思っていたよりも小さな魔物だった。いや、さっきまで幻の相手をしていたせいで感覚がおかしくなっているのは本人も理解している。ギルドの魔物図鑑で見たときはもっと大きく強く感じていたし、少なくとも一角兎よりよほど大きい。それでも、一連の噂の主にしては何だか小さいな、とリクは思った。こんな小さい魔物でも、術次第でここまでのことをできるのか、と。
さらに見てみると、特殊個体故か図鑑の記述と比べて足の色合いが紫がかっている。逆に背中側は戦闘開始時に一瞬見えたとおり通常種と同じ濃灰色だ。つややかな毛並みは木漏れ日に光っていて、なるほど加工して装備品にする人もいるという話にも頷ける。だがその目はぼんやりと何も映さず、躰にも戦闘の跡が大きく残っていた。胸から右前足後ろにかけての大きな貫通創が致命傷だろう。
一通り観察したのち、代表してレーネが動く。彼女は狐の目を閉じさせると、腰から山刀を引き抜き、狐の腹を慣れた手つきで割いた。
「ほら、これが欲しいんでしょ」
「ありがとうございます」
しゃがんだまま彼女がリクに差し出したのは、片手に乗る程度の透明な石だ。薄紫色をしている。
それを顔の近くに持ってきて覗き込むようにすると、背景の森は紫のフィルターをかけたように見える――が、これはただの水晶ではなく魔石だ。手をわずかに動かして見る角度を変えれば、森に虹がかかったように、そしてその色合いがじわじわと動くように見えて、不思議な万華鏡でも覗いているかのようだ。疲労もあってかリクはそれを覗き込みながら何も考えずぼんやりしてしまった。
……その時間は数秒だったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。とにかくリクからしてみれば短い間のことだったが、――覗き込んでいた紫の森の景色が突然曇ったのだ。
森の木々がどこからか滲み出てきた明るい紫色に覆われてしまって、見ているリクの視界を奪っていく。明るい紫の――つまり魔石のフィルターが無い状態なら白に近い――霧は、とうとう魔石ごしに見える森のほとんどを覆ってしまって、ついには――
――茶色の枯葉を踏みしめるリクの足元にも侵食してきた。
「……!?!」
「おーい、どうしたよ?」
「あ、いえ……なんでも……」
目をぱちぱちと瞬かせて再度足元を見れば、もうその霧は存在しなかった。ただの地面だけで、リクがじゃり、と踏み直しても何も違和感はない。「見間違い……?」と小さく呟くリクに、コニーは心配して「おい、帰るまでは倒れんなよ」とぶっきらぼうに言う。
リクがもう一度魔石を覗いてみても、やはりその光景は現れなかった。
「報告に死体の方もいるから処置しないとね」
二人のやりとりを首を傾けて見ていたレーネだが、もう良いだろうと次の作業にとりかかる。
狐のフカフカした尻尾を腹の方へ丸めて死体全体ができるだけ小さくなるようにしたあと、立ち上がって腰のカバンから小さな魔石を取り出した。装飾、というよりも金属製のロックがついたような形をしていて、リクがもらったストラップ型の魔石よりもいかにも扱いが難しそうな印象だ。
「ほんとはリクがやってくれたら楽だったけど、それだけ魔術を連発したなら頼めないわね」
彼女は眉を下げて少し笑うと、取り出した魔石の金具を外し慎重に魔力を込めてから死体の上に置き、数歩下がる。魔力を吸って青く光り出した魔石からさらに光が漏れ、幻惑狐の表面がじわじわと発光。次の瞬間辺りを照らすように強く輝くと、魔石は死体ごと消え失せ血の流れた地面だけが残っていた。
――転送魔術。リクがやったものと同じだが魔石版だ。
討伐前に狐のことをギルドに報告した彼女は、ギルドから貴重なこの魔石を渡されていた。幻惑狐の通常種なら尻尾の持ち込みで受理されるが、今回はできれば全身が欲しかったらしい。転送先では待ち構えていた職員が早速検分をはじめているだろう。保存処理もこっちでやってくれる。
それを見届けて、魔力をたっぷり持っていかれたレーネが額の汗をぬぐいやれやれとため息をつく。そして三人とも顔を見合わせると、にひひと笑った。
「全員ボロボロですね」
「まあそれでも勝てたじゃない」
「俺はもうしばらくあんな綱渡りはごめんだぞ……」
「――それじゃあ帰りましょうか」とリクは言った。
改めて森を見ると戦闘の爪痕がしっかり残っている。吹き飛ばされた低木に傾いだ巨木。それでもこれからしばらくは静かな森を取り戻せるだろう。遠くの方でちちち、と鳥が鳴く声をリクは聞いた。




