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菫の君  作者: 燈華
2/3

2.

現実を忘れるために仕事に没頭していれば、日が暮れる前に今日の分の仕事が終わってしまった。

呆然としてしまう。


「お嬢様、今日は、どうされますか?」


アガサが遠慮がちに訊いてくる。

今までならこうやって仕事が早く終わればイーヴォの姿をこっそりと見に行っていた。


でも、今はもう、そんな資格すらないのではないか?


万が一ミーディアに気づいたら、イーヴォは嫌な顔をするかもしれない。

嫌な顔をされれば立ち直れないかもしれない。


だけどーー。

ミーディアは返事をするために口を開いた。




結局、今日も来てしまった。

今日は薄手の橙色のベールを(きぶ)っている。

顔はうっすらと見えているがはっきりしたものではなく、色つきのベールなので瞳の色ももとの色はわからないはずだ。

たぶん。

イーヴォに万が一見つけられてもミーディアとはわからないだろう。

そう願うしかない。


見つかったらどうしようという不安に(さいな)まれながらもそわそわとイーヴォの姿を探してしまう。

そろそろここを通るはずだ。



ーーいたっ!



イーヴォの姿を見つけた。

彼はいつも通りに見えた。

元気そうならそれでいい。

そう、それでいいのだ。


こっそりとイーヴォの姿を眺める。

絶対に見つからないように。


未練がましい。

自己嫌悪を覚えるがどうしようもない。


だって、まだ好きなのだ。

この想いを簡単には手放すことはできない。

それができたら、こんなに苦しまない。


少し離れたところではアガサが心配そうにミーディアを見守っている。




不意にイーヴォがこちらに視線を向けた。

ベール越しに目が合った、気がした。


時間が、呼吸が止まる。


そんな感覚がした。



その時ーー



どういう神の悪戯か、風でふわりとベールが(めく)れ、顔の半分が(あらわ)になる。

慌てて端をつかんでそれ以上ベールが捲れるのを防いだ。


イーヴォが大きく目を見開いている。

ミーディアだと気づいたに違いない。


咄嗟(とっさ)に身を翻した。

後ろから足音が聞こえた。


普段、家の中にいて走ることのないミーディアと、普段から鍛えているイーヴォではそもそもの能力が違う。

すぐに追いつかれ、手を彼に掴まれた。


「待ってくれ!」

「きゃっ!」

「“菫の君”、君をずっと探してたんだ」


ミーディアはベールの下で目を見開いた。


“菫の君”――それは、彼の想い人。自分ではない、菫色の瞳の……。


「人、違いです…。離して、手を離してください」



*



ずっと探していた。

やっと見つけた。

どこの誰ともわからない彼女。

ここで見失ってしまえばもう二度と見つからないかもしれない。


気づけば身体が動いていた。

掴んだ手は、折れそうに細くーー



「人、違いです…。離して、手を離してください」


その声を聞いて、今度はイーヴォが目を見開く。その声は彼のよく知る少女のもので――。


そこへ。


「お嬢様!」


少し離れたところに控えていた女性が駆け寄ってくる。


「お嬢様に何をなさいますか! 手をお離しくださいませ!」


その声もまた聞き覚えがある。その背格好からも間違いないだろう。

彼女付きの使用人だ。

目の前の彼女はやはり自分の婚約者の少女らしい。


どういうことだ?


軽く混乱したまま、彼女の手を離す。

彼女はうつむいてしまっている。


「もしや、先日もここにいたか?」


もしかしたら、探している彼女は婚約者とは別の少女かもしれない。


一縷(いちる)の望みを賭けて問えば、ぴくりと震えた彼女が小さく頷いた。

使用人ーーアガサに視線を向ける。


「君も一緒に?」


アガサははっきりと頷いた。


「もちろんですわ。少し離れて控えておりましたから、あなた様は気づかれなかったようですが」


呆然としてしまう。

ずっと探していた想い人が自分の婚約者だった。



自分は一体彼女の何を見ていたのだろう?



ぎこちなく彼女に視線を戻す。

彼女はすっかりと項垂(うなだ)れてしまっている。


「ごめんなさい。私はあなたの想い人ではないんです。それに、ベールの下の素顔をさらすなんて、なんてはしたない娘だと呆れたのでしょう」


そんなことを気にしていたのか。

ベールが捲れることなど往々にしてある。

町の警邏(けいら)をしている時に時折遭遇することだ。


だが、彼女は屋敷からほとんど出ない。ましてや良家の娘だ。外で顔をさらすなどはしたないという教育を受けているのだろう。

ぎゅっとベールの端を握り、小さく震えている。


「いや、そんなことはないが……」


イーヴォが否定しても彼女はその言葉を受け取らない。

そう育てられてきているのだ。それはそう簡単に(くつがえ)せることではない。


「いいんです。こんなはしたない娘、婚約解消されて当然です」


婚約解消……。


そうだ、彼女には婚約解消がしたいと話していたのだ。

両親を説得できていないためまだ彼女の両親には話がいっていない。

今となってはそれに感謝するしかない。

それも早急に申し出を撤回しなければ。


「……とりあえず、屋敷まで送ろう」

「で、ですが、お仕事の途中でしょう。私は大丈夫ですので。お仕事に戻ってください」


言われてはっとする。

確かに今は仕事中だ。

だが同僚に事情を話せば、彼女を家に送るくらいの間は仕事を抜けられるだろう。


「すぐに戻るから少しだけここで待っていてくれ」


彼女の返事を待たずに(きびす)を返す。

急がなければ、きっと彼女はこの場を立ち去ってしまうだろう。


足早に歩を進めながらも思考を巡らせる。


それにしても、イーヴォが婚約解消を申し出たのは、顔を見せたはしたない娘だと思ったと思われたのか。


思えばあの日の彼女は様子がおかしかった。

イーヴォに咎められるとでも思っていたのかもしれない。


今になってあの日の彼女の様子に思い至るのだから、どれだけ気も(そぞ)ろだったのか。

もっときちんと向き合うべきだった。


仮にも婚約者である彼女に誠実な態度ではなかった。

他の女性に心を奪われた時点で誠実も何もないと言われればそうなのだが。


いくら婚約を解消するつもりだったとはいえ、それなら尚更きちんと向き合うべきだった。

最低限のそれが礼儀だ。

本当に、イーヴォは彼女に最低なことをした。


今からでもそれを挽回(ばんかい)できるだろうか?


自分の弱気な思考を吹き飛ばす。

いや、するのだ。

これから一緒に歩んでいくために。



*



ミーディアの返事も聞かずにイーヴォは踵を返してしまった。

あっという間に遠ざかる背中に声をかけられない。


ミーディアは身を翻した。

今のうちに帰ってしまおう。

もうこれ以上はつらい。


いくら彼が気遣ってくれてもミーディアがはしたない娘には変わりない。

それに、ミーディアは彼の想い人ではないのだ。


また改めて婚約解消を頼まれでもしたら、今度こそミーディアは耐えられないだろう。

自分がどんな態度を、行動を取るか、ミーディア自身わからなかった。

馬車に乗ってしまえばイーヴォも追ってこれないだろう。

わざわざ屋敷までは押しかけてはこないはずだ。


アガサは何も言わずについてきてくれる。



*



案の定、彼女はその場に留まることはせずに歩いていってしまっていた。

まだ見える位置にいたのは幸いか。

急いで追いつく。


「同僚に言い置いてきた。送るよ」


声をかけつつやや強引に彼女に並ぶと彼女はぴくりと小さく肩を揺らした。


「え、いえ、本当に大丈夫です」

「もう言い置いてきたから」


強引だとはわかっていたが退くつもりはない。

強く出れば彼女は諦めて退くだろう。

彼女の控えめなところにつけこんでいる自覚はあるが、とにかく必死だった。


アガサがにらんでいるような気配がしたが無視する。

ここで(ひる)んで退けば彼女に逃げられてしまう。


「……はい。お願いします……」

「ああ」


なんとか彼女に承諾させることができてほっとする。

アガサの視線がさらに鋭さを増した。

彼女の控えめなところにつけこんだ自覚はあるので甘んじて受ける。


「それでどこに馬車が停めてあるんだ?」

「すぐそこです。その角を曲がったあたりです。あ、すぐどくつもりだったので……」


イーヴォが咎めるとでも思ったのか彼女が慌てて弁明する。


「いや、あの辺りはよく馬車が停まっているし、問題ないよ」


彼女の中でイーヴォはどういう人物なのか。

一度じっくり聞いてみたほうがいいかもしれない。


彼女の言う通り、見覚えのある馬車が角を曲がった少し先に停められていた。

御者は彼女たちと一緒に戻ってきたイーヴォに驚いたようだったがすぐに頭を下げた。


「……帰るわ」

「イーヴォ様もご一緒に、ですか?」

「……ええ。屋敷まで送ってくださるそうよ」

「承知致しました」


御者が踏み台を用意し、イーヴォは彼女が乗るのに手を貸した。

アガサにも手を貸そうとしたが、彼女はさっさと一人で馬車に乗ってしまう。

苦笑してアガサの後に続いて馬車に乗り込み、ミーディアの前に座る。


扉が閉められ、「動きますよ」と御者が一言告げ、ゆっくりと動き出す。

馬車の中には沈黙が落ちる。

ミーディアはうつむいており、アガサはイーヴォをにらみつけているのだろう。

イーヴォはアガサからの突き刺さる視線を感じながらミーディアを見ていた。

馬車の窓からは夕方特有の橙色の光が差し込んでいて彼女のベールを透かしていた。



その瞳が、菫色に見えた。



ミーディアの瞳の色は濃い青色だと聞いている。


どういうことだ?


(いぶか)しげに眉を寄せたイーヴォは不意に気づいて目を軽く見開いた。



色の、魔法だ。



差し込む夕日の光が彼女の瞳を菫色に見せていたのだ。

今は先日より時間が早い。

だが、今日彼女がかぶっているベールは橙色で布も薄い。それが色を補って彼女の瞳が菫色に見えたのだ。


ああ、なるほど。

すとんと()に落ちた。


今となっては、"菫の君"の正体がミーディアでよかったと思う。


もともと彼女のことは好ましいとは思っていた。

騎士の仕事を乱暴者だと思う良家の娘もいるなかで、彼女は一度だってそんな素振りは見せたことがない。いつだって丁寧にイーヴォに接してくれた。


仕事で忙しい身であるだろうに、毎回婚約者としての時間を取ってくれた。

あまり話すのが得意ではないイーヴォの話を真剣に聞いてくれた。

他にはいないほどいい娘だ。


だからこそ、イーヴォとの婚約を解消してもすぐに相手が決まると思った。

だから躊躇なく婚約解消を申し出ることができたのだ。


ふと彼女はどう思ったのだろうと思った。

今まで彼女の気持ちを考えてはいなかった。


そのことに今、気づいた。

本当に自分勝手な男だった。


まだ間に合うだろうか?

ミーディアのことがもっと知りたい。

イーヴォのことも知ってほしい。

そして一緒にこれからの人生を歩んでほしい。



それを乞う前にイーヴォにはやることがあった。

すべてはそれからだ。



*



何事もなく屋敷に着き、ミーディアが馬車を降りるのにイーヴォ手を貸してくれた。

だが何故か手を離してくれず、そのまま握られてしまった。


「あの、手を離し……」


何故か言葉を遮るように更にきゅっと握られてしまう。

そして真摯(しんし)な目でミーディアを見て言葉を紡いだ。


「また後日訪ねてきてもいいだろうか?」


ベールの下でミーディアは目を泳がせる。


「話があるんだ」

「わ、わかりました」


そう言われれば頷くしかない。

まだ一応婚約者のままだ。

だが先日の話をまたされたら、ミーディアに耐えられる自信はない。


「よかった」


ほっとしたようにイーヴォが微笑(わら)う。

そしてようやく手を離してくれた。

思わず両手を胸の前で握った。

無意味に視線をさまよわせて、ふと気づく。


イーヴォはどのように戻るつもりなのだろうか。


「あの、お送りしましょうか? ここまで送っていただいてしまったので……」


ここまで一緒に馬車に乗ってきたのでだいぶ離れてしまっている。


「いや、それには及ばない。ありがとう」

「ですが……」

警邏(けいら)しがてら歩いて帰るよ。そう同僚にも伝えてある」

「そうですか」


それならばこれ以上言うのはやめたほうがいいだろう。


「お気をつけて。お仕事頑張ってください」


驚いたように軽く目を見開いたイーヴォだったが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう」


そんなふうに微笑(わら)う顔なんて見たことがない。


どうして今になって……?


ミーディアが動揺しているうちにイーヴォは帰っていった。




***

読んでいただき、ありがとうございました。

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