1.
短編予定でしたが、長くなったので三回にわけました。
設定緩めです。
乾いた風が吹く白い石畳の町並み。
この国がどんな国かと訊かれれば真っ先に浮かぶのはこの言葉だ。
この国では男も女も身分も関係なく仕事をするが、男女でその職域がはっきりと分かれていた。
端的に言えば、男は外の仕事、女は中の仕事だ。
***
良家の娘のミーディアも室内で仕事に励んでいた。
日が傾き始める頃に今日の分の書類仕事を終えて小さく伸びをした。
何とか夕方までに終わらせることができた。
ほっとしつついそいそと立ち上がる。
すっとミーディア付きの使用人であるアガサが寄ってくる。
「お疲れ様でございます、お嬢様」
そう言ってそっとお茶を載せた盆を差し出してくる。
「ありがとう」
茶器を受け取って口をつける。
ほどよく冷えたお茶が喉を優しく潤してくれる。
茶器を盆に戻して、少しそわそわしながら告げる。
「アガサ、少し、出るわ」
「承知しました。すぐに準備致します」
余計なことは訊かずにアガサはてきぱきと外出の準備をしてくれる。
「お嬢様、こちらを」
ふわりとベールを頭からかけられる。
この国では外出時に女性は必ずベールを被らなければならない。
それは良家の者でも平民でも変わらない。
「ありがとう」
「いえ」
アガサも素早く自分でベールを被った。
さすがに一人で出歩くわけにはいかない。
「行きましょう」
「はい」
近くで馬車を降り、アガサだけを連れて歩いていく。
ミーディアの婚約者のイーヴォは騎士だ。
この時間、彼は町の警邏に出ている。
今の時間の巡回ルートはこの辺りのはずだった。
別に彼に会おうとしているわけではない。
彼に気づかれたくはないのだ。
こっそり見るだけでいいのだ。
彼に気づかれないようにこっそりと。
そう、ほんのたまに、仕事中のイーヴォをそっと物陰から見ているだけだ。
仕事の邪魔をしているわけではない。
彼はそもそも気づいていない。
政略結婚の相手だが、ミーディアはイーヴォが大好きだった。
イーヴォのほうはどうかはわからない。
少なくとも嫌われてはいない、とは思う。
週に一度、婚約者同士の交流として彼が訪ねてきてくれるが、いつも穏やかに会話をしてくれる。
……わかっている。彼がミーディアに恋情など抱いていないことは。
いつだって彼は礼儀正しく、婚約者としての適切な距離でミーディアを扱う。
義務感よりはやや親しみは籠っているが、あくまでも親愛というところだろう。
結婚してから愛情は育てていけばいい。
そのための努力は惜しまないつもりだ。
ーーいた!
イーヴォを見つけた。
凛々(りり)しい顔で通りを歩いている。
ミーディアには気づかない。
それでいい。
気づかれればイーヴォはミーディアの傍に寄ってきて付き添おうとしてくれるだろう。
それはミーディアの本意ではない。
仕事の邪魔をしたいわけではない。
ただ仕事をしている姿をこっそりと眺めたいだけだ。
前に仕事中のイーヴォを見たことがあり、その時の格好よかったこと。
その姿を見られるのは仕事中だけ。
だからこっそりと、それも仕事が早く終わったごくたまにだけ見に来ているのだ。
それだけでいい。
*
ミーディアが物陰からこっそりイーヴォの姿を眺めるのを、アガサは少し離れたところから見守っている。
主の邪魔をするようなことはしない。
主がこの時間を手に入れるためにどれだけの努力していたことを知っているからこそ決して邪魔になるような愚は犯さない。
主に危険が及ばないか辺りを注視するのみである。
*
ほんのわずかな時間。
時間にすれば滞在時間は五分ほど。
イーヴォの姿を見たのは一、二分だ。
それだけで満足してミーディアは帰ることにした。
その時ーー
風でひらりとベールが舞い、あろうことかめく捲れあがってしまった。
一瞬のことだったが、ミーディアは顔面蒼白になる。
ーー見られた!
ちょうどイーヴォがこちらを見ていて、驚きに大きく目を見開いた。
とっさに身を翻して駆け出す。
追ってくる足音は聞こえない。
ちらりと振り向けば、呆然としたようにイーヴォが立ち竦んでいた。
アガサに駆け寄れば、
「どうなさいましたか、お嬢様!?」
慌てたように訊いてきた。
「馬車に戻るわ」
「承知しました」
ミーディアは足早に馬車に向かった。
アガサは余計なことは言わずに後ろに付いてくる。
御者が開けてくれた扉から素早く中に入る。アガサも続いた。
ぱたんと扉を閉められ、ようやく息をつく。
アガサが御者に合図を出し、馬車が走り出した。
「それで、どうされたのですか?」
走り出して少ししてからアガサが訊いてきた。
「…………見られたの」
車輪の音に紛れてしまいそうなか細い声で告げられた言葉をアガサは何とか拾う。
「イーヴォ様がお嬢様に気づかれたのですか?」
ミーディアは力なく首を横に振る。
「風でベールが捲れてしまって……顔を、見られたの」
「まあ!」
「絶対はしたない女だって思われたわ」
ミーディアは両手で顔を覆う。
「大丈夫ですよ」
実際こういう"事故"は少なくないのだ。
それで見初められるということもあったりする。
別に顔を見られたところで罰があるわけではない。
予期せぬ事故というのは起こるものだからだ。
また顔を見られたからと言って結婚しなければならないということもない。
これに関してはたとえそうだったとしても問題はないのだ。
ミーディアが顔を見られたのは婚約者のイーヴォだ。
結婚すれば顔を見られることになるのだから。
だがいくらアガサが慰めても、ミーディアの気が晴れることはなかった。
***
それから二日後。
婚約者同士交流を深めるという名目の定例のお茶会がミーディアの屋敷であった。
参加者は当然ミーディアとイーヴォの二人だけだ。
良家の娘は結婚するまで婚約者やその一族に顔を見せることはないのでミーディアは今日もベールを被っている。
薄手のものにしたのでベールの色は濃い青色で透けにくくしている。その色はミーディアの瞳の色でもあった。
ミーディアは先日のことをいつ切り出されるかと内心でびくびくしていた。
穏やかに、いつもよりもずっと会話少なく時間は流れていく。
何度かイーヴォが何か言いたそうな顔でミーディアを見たが、結局は何も言わなかった。
もうお茶会もそろそろ終わってしまう、という頃。
イーヴォがゆっくりとティーカップを置いた。
「実は、話があるんだ」
そう切り出され、ミーディアはぴくんと肩を揺らした。
震えているのを誤魔化すためにティーカップを置き、両手は膝の上に置いて隠した。
「何でしょう?」
緊張に声が震えなかったことにそっと安堵する。
イーヴォの顔を緊張感漂わせて見ると、彼も緊張している。
それでも、真っ直ぐにミーディアを見て、その言葉を告げた。
「婚約を解消してほしい」
「え……?」
言われた意味が理解できなかった。
「今、何て…….?」
「婚約を解消してほしい」
律儀にイーヴォは同じ言葉を繰り返す。
「何、で……?」
そこまで嫌悪されてしまったのだろうか。
こんなはしたない娘とは結婚できないと、そう思われてしまったのだろうか。
呆然とイーヴォを見つめると、彼はひどく苦しげに顔を歪めていた。
「貴女は何も悪くない。悪いのは、俺だ」
彼はそう言うが、婚約解消という言葉を持ち出したのは、先日の一件のせいだろう。
他に理由など思い当たらない。
それをミーディアを庇って自分が悪いと言ってくれている。
だが、そんな優しさはかえって残酷だ。
「待って、待ってください……」
「本当にすまない!」
彼は立ち上がって深々と頭を下げる。
「そこまで……」
そこまでするほど嫌なのか。
彼が顔を背ける。
家同士のことだ。当人たちだけでは解消できない。
それは彼もわかっているはずだ。
わかっていてもそれをミーディアに望むのか。
それはイーヴォの誠意なのだろう。
「……私たちの一存では解消できないことは、ご存知でしょう?」
最後の頼みの綱だった。
ミーディアは婚約解消などしたくはない。
「……両親は必ず説得する。だから、頼む」
「私には、」
そこまで言って言葉に詰まった。
何を言えと?
受け入れることはできない。したくない。
かといって、嫌がられたままの夫婦生活に耐えられるかといえば、無理だ。
ぎゅっと拳を握る。
もうこれ以上見ていられなくてうつむく。
そして声をしぼり出した。
「……私の一存では、どうにもなりません、としか言えません」
「そう、だな……」
それはイーヴォもわかっていたのだろう。
それでも、言質が欲しかったのだろうか。
イーヴォは前言撤回をしなかった。しては、くれなかった。
「だが、その心づもりだけはしておいてくれ」
本当は頷きたくなどない。
だけど、彼の決意が堅いものなら、そう遠くないうちに何らかの決着が着くのだろう。
どんな風に決着するかはわからない。
だけどその結果は、恐らくミーディアの望むものではないのだろう。
「……はい」
「すまない」
もう一度謝り、イーヴォはこれ以上は耐えきれないというように足早に帰っていった。
ミーディアはその場から動けず、ぼんやりと座ったまま、どれくらいの時間が経っただろう。
「お嬢様」
アガサに気遣うように声をかけられ、身体を揺らした。
「聞いていた?」
アガサは躊躇うような間を空けてから頷いた。
「はい」
ミーディアは縋るようにアガサを見た。
「アガサ、誰にも言わないで」
「ですが、」
「お願い」
じっと見つめる。
「……わかりました」
しばらくしてアガサは折れてくれた。
両親に話がいけばこの口止めは意味をなさなくなるだろう。
それでも、今だけは。
***
表面上はいつも通り振る舞っているつもりだったが、やはりアガサには無理をしているとわかっているのだろう。
ミーディアにお茶を差し出してくれながら、「差し出がましいことですが、」と前置きをしてからアガサは掴んできた情報を報告してくれた。
「どうやら“菫の君”という、菫色の瞳の女性に想いを寄せているようです。一目見ただけの彼女を探しているとか」
「菫の君……」
思わず呟いた。
菫色の瞳とわかっているということは、イーヴォはその女性の顔を見たことがあるということだ。
だが見ただけ、ということは言葉などは交わしていないということか。
つまり、その女性の行動か容姿に惹かれたということなのだろう。
完全な一目惚れだ。
小さい頃から婚約していても、女性として好いてもらえなかったミーディアでは勝負にならない。完敗だった。
彼女は顔を見られても平気でミーディアははしたないと嫌悪される。
二人の違いは何だったのだろう……?
「お嬢様……」
気遣わしげにアガサが呼ぶ。
「大丈夫よ。教えてくれてありがとう」
「申し訳ございません。余計なことをお伝えしてしまいました」
「ううん、そんなことないわ。その彼女の存在が婚約解消を申し出られた要因の一つだとわかっただけでも少し気が楽になったわ」
嘘だった。
余計に苦しい。
生まれ持った青い瞳を何で菫色ではないのかと、恨んでしまいそうだ。
瞳の色なんて関係ないのに。
たとえ、ミーディアの瞳の色が菫色だったとしても、彼の気持ちを得ることはできないのだ。
それは、わかっている。
わかっていても、考えてしまいそうになる。
ーー何故私の瞳は菫色ではないの……?
***
イーヴォとのお茶会から何日も経っているが、まだ両親からは何も言われていない。
自分の両親への説得に手こずっているのだろう。
それとも既にミーディアの両親のもとまで話は来ているが難色を示しているのだろうか。
どちらでもいい。
いっそ、早くしてほしいとも、
そのまま永久に決着がつかないでほしいとも、
どっちも思ってしまい心は揺れる。
正直仕事をする心境ではないが、仕事に集中している間は現実を忘れていられる。
現実から、自分の心から逃げるようにミーディアは仕事に没頭した。
読んでいただき、ありがとうございました。
今週中にあと二話投稿して完結予定です。