Anti potential
夜と朝の間。
この時間の空気に任せて書きました。
内容はよく意味がわからなくて、それでいてあまり意味があるものではないかもしれませんが、そういうものに興味のあるかたは読んで下さると幸いです。
ちなみに今までのどの作品とも関係はありません。
ただ、混沌としたものがあるだけです。
動くものはことごとく静をむかえる。月夜の晩のこと、それは記憶の中。それは曖昧であり感覚の海にある。そんな話。これから先の話は少しばかり気が滅入るかもしれない。
しかし、それはあえていう。それはその必要があると感じるからだ。
何もないところには何も起きないって?
偶然にしろ必然にしろ、その可能性は高くも低くもない。
しかし、例外というものはどこにでも発生する。
・・・たとえ望んでないにしても
それは、ある意味では必然かもしれない。
けれどまったくの必然でもない。
だからそれは偶然に分類されてもおかしくないのだ。
すべて、すべてを識ることはできない。
だけど、そのことはときどき忘れられてしまう。
自分はすべてをしっていると思い込む。
それで、そうして世界が自分の周りだけになる。
それは生きていくのにはいいのかもしれない。
そう、この世の中にはしらなくてもいいこともあるからだ。
人間は無意識に自分に関係がないと思われること、自分に不利益なことは排除する。
そう・・・たとえ望んでいなくとも。
それが、ときに感情の爆発によって忘却したはずのものを呼び起こす。
それは・・・厄介だ。
そう、とても厄介だ。
なぜか?
簡単だ。人には思い出したくないこともある。
人には他人にしられたくないようなことがある。
爆発は、それらを呼び起こしてしまう。
厳重に何年もかけて記憶の奥底、あるいは無意識の中に押し込めたものを吐き出してしまう。
だから恐ろしい。
意図的ではないこともそうだ。
もし、意図してこの状況を起こすのならば心の準備ができるだろう。
しかし、爆発は突然にやってくる。
そして、それは誰も予測できないし誰も気にしてくれない。
気付かないのか?気づけないのか?
否、気づける。否、気付かせられる。
人間の欲望の中にある。人の欲望を感じる要素を使用するのだ。
欲望の中に真理があるかもしれないし、欲望には何もないかもしれない。
だから、それでいいのだ。
それではいけないのだ。
結局人生は、そのときにいかにするか?にある。
人の死も、だ。
人の生も、だ。
人はいつか死ぬのは真理だが、人はいつ生まれるのかはわからない。
いつ生まれるのか?
受精したとき?胎内に形作られたとき?母親から出てきたとき?
あるいはあるいは、自分が自分であるとわかったとき?
それとも、死ぬ時?
おわりは確実に始まりだ。
おわりがはじまるから。
始まりはおわりだ。
それはおわりがおわるから。
卵が先か鶏が先か?という話と同じ。
おわりが先か始まりが先か?
それはわからない。
他者に聞こうか?
きっとわからないだろう。
そこで疑問が生じる。
他者とはいったい何なのか?
他者の存在は必要だ。けれど、他者が自己の破壊にくることもある。
想定する。想像する。
でも
真理はその外にあって、結果はどうなのだろう?
もし、この世の中に真理がありそれを万人が共有できたなら悩みはないだろう。
なぜなら結果がわかるのだから。
ただ、その世界は果てしなく味気ない。
なにをしても定められた真理に落ち着くのだから。
そう、すべてが無駄ということ。
だから我々は曖昧にした。真理も曖昧だ。
そして混沌とした。なにが正当なのか?なにが正義で何が悪なのか?
そもそもこの世界は何なのか?
それが副産物。
だから、我々は神という絶対的な存在をおき、それを超越存在としてそれを信じることでその根本への問いや迷い。そして一切の疑問を消化した。
では、信じないとどうなのか?
死ぬのか?
想像も超える現象や事柄にのめりこむのか?
超科学や超自然、超魔術、超魔法、超真理のようなものに。
それで人は救われるのか?
信じることで人は救われるのか?
確実に言えることは、信じる者がない者は精神に異常をきたしやすい。
それはそう思う。
では、もし。
この世界になにもないとしたら、あなたはどうするだろうか?
一人を楽しむ?
いや、それはない。
たぶんだが自殺という結末だろう。
孤独に耐えられない。
動物でもいれば別かもしれないが。




