かつて、冷たかった場所
昨日は兄のおかげで素敵なランチに恵まれ、翌日になってもコレットは夢見心地だった。
帰り道で具合を悪くしたセルジュが心配だったが、帰ってすぐ休んだため今日は顔色がいい。昨日はずっと真っ赤だった。
ただ、また目が泳いでいる。何か困っているようだ。
「私が教えられることはもうない。……だから今日は別行動で……」
「何をおっしゃいますか旦那様。まだ邸の中も外も案内されてませんよ」
「お前たちが案内したんじゃないのか」
「当主の旦那様以外、誰が案内するのですか」
非難するようなセルジュの視線を受けてもシモンはしれっとしている。
そう言えばまだ邸の中を案内されていない。
生活する上で必要な場所は侍女たちに教えて貰っているため、不便を感じていなかった。
邸の間取りより先に経済状況を教えられたイヴェール家の妻はきっと彼女ひとりだろう。
またしてもセルジュはシモンとイネスのタッグに勝てず、午前中は邸の本館を案内してくれることになった。
今までコレットが生活して来たのは別館だったらしい。
元々隠居した先代のための建物なのだが、イヴェール家が彼ひとりになった時からこちらをメインで使うようになったそうだ。
「本館はとにかく広くてな。普段の生活には向かない。ただ、客を迎えるための場所はすべてあちらにある」
「今は使っておられないのですか?」
「私ひとりでは舞踏会など采配する余裕がない」
それはそうだと納得する。公爵家となれば招待客はかなりの数だ。領主の仕事と王太子の側近の仕事を抱える彼には無理だろう。
本来それは邸の女主人の仕事で、今はコレットがやるべきことだ。しかし、今まで一度も催しの主宰なんてやったことがない。
教えてくれるセルジュの母親は亡くなっているから頼みの綱はシモンやイネスなど古株の使用人たちだ。
とりあえずエントランスからと始まった本館の案内は広いという言葉に偽りはなく、とにかく広大だった。
舞踏室に晩餐室、応接間に終わりの見えないロングギャラリー。確かに生活するには広すぎて移動だけで疲れてしまう。
最後に案内されたのは、元々何に使われていたかわからない、またしても広い部屋だった。
四方の壁にびっしり肖像画が飾られている。これがイヴェール一族の肖像なのだ。
「壮観ですね……」
「数が多いだけだ」
セルジュはそう言うが、コレットはとても興味深かった。
時代の変遷に合わせて絵の具の質や、流行りの画風が変わっていくのがまざまざと見てとれる。
ただ、こちらを見ている構図ばかりだから見回すともれなく目が合って少し不気味だ。
「あなたは絵画が好きなのか」
「えっと、はい。人並みには好きだと思います」
両親揃ってそれぞれ好きな芸術家のパトロンになっていたため、幼児期からそれなりに絵画を見る機会は多かった。
だから好きかと聞かれれば好きだ。
何やらセルジュはうんうんと頷いている。よくわからないが満足したなら何よりだ。
また肖像画に視線を戻すと、コレットでも見やすい位置に見覚えのある顔を見つけた。
セルジュによく似た青みがかった黒髪の男性が、同じ黒髪の子供を抱いて椅子に座る女性に寄り添って立っている。女性は銀髪で、菖蒲色の瞳をしていた。
「それは私の両親だ」
質問する前にセルジュがそう言った。ではこの幼子がセルジュなのだ。
「旦那様、とても可愛らしいですね」
「そうだろうか。あなたの方が愛らしいと思う」
さらりと褒められて噴き出しそうになった。愛らしいなんて家族から耳にタコができるほど言われてきたが、セルジュの口から出ると何かが違う。
「な、仲が良さそうな、素敵なご両親ですね」
動揺を悟られる前に話題を変えようと感想を述べると、セルジュは黙り込んだ。
「仲は、良くなかったと思う。ふたりは私が生まれたあとはそれぞれ愛人を作ってあまり家に寄り付かなかったから」
静かに告げられた言葉に息を飲む。
コレットの両親は、嫌になるほど仲が良いし、兄夫婦と姉夫婦も睦まじい。だが、そんな夫婦は貴族社会では少数派なのだとすっかり忘れていた。
「ご、ごめんなさい。訊いてはいけないことでした……」
「いや、気にしないでくれ。私は愛を知らないから、両親のこともなんとも思っていないんだ」
続いたセルジュの言葉に首を傾げた。
「……あの、不躾なことを訊いても?」
「なんだろうか」
「愛を知らないと、何故断言されるのですか?」
「それは」
セルジュは一度口籠ると、少し考えてから再び口を開く。
「私の両親は、もう亡くなっている」
「はい」
「私は、どちらが死んだ時も悲しくなかった」
そう言うセルジュの眼差しは静謐で、けれども一抹の諦観がコレットには見て取れた。
「悲しみどころか怒りも何も感じなかった。実の親なのに、私は彼らをなんとも思っていなかったのだ」
「……それは、仕方ないのではないですか?」
「仕方、ない?」
彼女は家族から暑苦しほどの愛情を注がれてきた。だから、セルジュの両親への気持ちはわからない。
それでも、知っていることはある。
「旦那様のご両親は、ほとんど家に戻られなかったのですよね」
「ああ」
「旦那様のことを構われることもなかった」
「……そうだな」
「ご両親との思い出も、何もないのではありませんか」
「その通りだ」
「なら、仕方ないです。血が繋がっているだけで、ご両親と旦那様の間には何もないのですから。そんな相手に対してどんな感情も生まれません」
「……何?」
コレットが思うに、親子の間には少しくらい無条件の愛情がある。しかし、それを確固たる絆にするには、たくさんの積み重ねが必要だと思うのだ。
セルジュの親はそれを完全に放棄した。元々、親になる気がなかったのだろう。なら、セルジュにとって血の繋がっただけの他人だ。
セルジュはあまり納得していない様子で、猜疑の色が目に浮かんでいた。
「……旦那様、もしもの話ですが」
「なんだ」
「もし、シモンが倒れたらどう思いますか」
そう言った瞬間、すぅ、とセルジュの血の気が引いて、顔色が悪くなる。相変わらず、わかりやすい人だ。
「……それ、は」
「想像だけでも苦しくなりませんか? なら、旦那様にとってシモンは大切な人で愛していらっしゃるということですよ。
大丈夫です。旦那様はちゃんと愛を知っています」
「そうなのだろうか……」
「そうですよ!」
強引だが、力強く頷く。ここでコレットが曖昧な態度をとったら彼の自分への猜疑はなくならないだろう。
セルジュはシモンたちを愛しているし、兄や王太子殿下を慕っている。短い付き合いでもコレットはちゃんと知っていた。
セルジュのことを大切にしなかった生みの親というだけの他人の存在で、彼の愛情を否定されたくなかった。
それに、彼もそんな相手にばかり視線を向けないでほしい。
人間は手に入らないものほど欲しくなる生き物だが、それ以上に価値あるたくさんの愛が彼の周りにはあるのだ。
「そう、なのか」
セルジュはぼんやりと幼い彼と両親の肖像画を見つめていた。
昼食後、ふたりは庭の散策に出ることになった。
「今はライラックが花盛りですよ」
そう言って、イネスが有無を言わせぬ笑顔でふたりを叩き出したからだ。
春らしい長閑な日差しの下、セルジュは途方にくれた顔をしている。
「旦那様、案内してくださいますか?」
「あなたは、疲れているだろう」
確かに午前中、広い本館を歩き回ってヒィヒィ言っていたが、昼食と食休みを挟んだのでゆっくり歩くだけならまだ大丈夫だ。
とりあえず庭の方へ進まねばあの笑顔のままのイネスが邸の中で待ち構えている。一時間は散歩しなければ中に入れて貰えないだろう。
「わたし、ライラックを見てみたいです。知ってますか? ライラックは普通、花弁は四枚ですが、五枚のものもあるそうです」
「そうなのか?」
「はい、一緒に探してみましょう。でも、見つけても内緒にしなければいけません」
「何故?」
「他の誰にも見つからないようにこっそりその花を飲み込めたら、愛する人と永遠に過ごせるんだそうですよ」
姉に聞いた言い伝えだ。コレットが「お姉様は見つけたことがあるの?」と質問したら、何も言わず、意味深に微笑まれるだけだった。
「花びらのような薄っぺらいものをこっそり飲み込むのは難しそうだ」
「そうですね。喉に引っかかりそうです」
情緒のない感想だが、コレットも教えて貰った時に「喉に絡んで咳き込みそう」と思ったのだ。ふたりは割と思考回路が似ている。
果てしなく広い本館に比べて、庭はもっと広い。本当に果てが見えない。
その分種々様々な花が植えられていて、どんな季節も何かが咲いているそうだ。
当然その管理は大変で、雇っている庭師も多い。
しかし、本館の維持管理よりはましだ。使用されていない現在でも、半年に一回の清掃と一年に一度の点検作業は大量の人手と資金を必要とする。
もし点検で不備が見つかれば修繕費用もかかるのだ。一番家計を圧迫している理由がわかる。
ライラックを見に行く途中、整然と整えられたチューリップの花壇があったが、かつてそこには使用人用の宿舎があったそうだ。
今は宿舎が必要なほど人を雇っていないし、管理が大変で彼が生まれる前には解体されたというセルジュの言葉に重く頷く。昔からの財産を維持していくのは本当に大変なことである。
セルジュは小さな彼女に合わせてゆっくり歩いてくれる。そのうちに風が甘い香りを運んで来た。
「ライラックはあそこだ」
「まぁ、たくさんありますのね」
まさに溢れるように咲く、今が盛りの紫色のライラックが重たげに枝をしならせていた。
「こんなにあると探すのが大変そうですね」
「私が見つけたらあなたにあげよう」
「それでは意味がありませんわ。旦那様が見つけたら、わたしにも内緒でこっそり飲み込んでくださいね」
そう言っていたずらっぽく笑うと、セルジュは戸惑ったようだった。
もしかしたら、まだ「愛する人なんていない」とでも思っているのかもしれない。
午前に彼女が強く「セルジュは愛を知っている」と主張したが、すぐに納得はできないのだろう。
でも、かつて彼は第二王女に恋をしていたはずなのだ。
残念ながら、彼が特別に想っていた第二王女は他国の王太子妃になっている。『蛙の呪い』なるものになってしまった彼女を救ったのはセルジュではなくその王太子だったのだ。
そんなおとぎ話のような恋を見てしまって、次の恋をする気にならないのかもしれない。しかし、優しい彼ならきっとこれから別の愛する人が現れるだろう。
そして、その時が来たら、コレットは潔くここを去るつもりだ。元々、愛を求めてはいないし、彼も彼女に妻としての役割を求めなかった。
だから、なんの問題もない。
そのはずなのに、少し寂しくなってしまうのはイヴェール家の人々が優しいからだろうか。
コレットは花弁が五枚ある花など探す気もないのにライラックに近づき、そのふりをした。
胸いっぱいに良い香りを吸い込むと寂しさも吐き出す空気と共にコレットから出て行く。
「ライラックが好きなのか」
「えっと、ライラックに限らず、花は好きでっ!」
質問されて振り返るとセルジュが思ったよりも至近距離から彼女を覗き込んでいて、のけぞる。
菖蒲色の瞳は真剣に何かを見極めようとしていた。
「では、これを切ってあなたに贈ろうか」
「う、嬉しいですが、せっかく庭師の方が綺麗に仕立てたのに……」
「では、何か欲しいものはないか。なんでもいい」
「えぇっと」
詰め寄られてどうしたらいいのかと目を白黒させる。
何故こんなことになっているのか。
わからないが、急に欲しいものと言われても困る。何しろコレットは欲しがらなくても過剰に与えられる生活をしてきたのだ。改めて訊かれてもわからない。
「こんにちは、旦那様。そんな勢いで奥様に迫っちゃいかんですよ」
「迫ってない」
「迫ってますよ」
羊のようにのんびりした声が割って入り、コレットはセルジュから解放された。
声の主は作業着を来たヤギのような髭の老人で庭師らしくいろんな道具を携えている。
彼はにこやかに彼女にも挨拶をした。
「何か欲しいものはないか聞いていただけだ」
「おや、贈り物ですか。まぁ、本人に訊くのは無難ですが、そういう時が男の腕の見せどころですよ」
「なんだそれは」
「ご自分で考えなさいということです。ご婦人を喜ばせるのも男の甲斐性ですからね」
「自分で……」
庭師の言葉にセルジュは考え込んでしまった。
「奥様も、訊かれるより旦那様が選んだものがいいでしょう?」
「えっ、は、はい! そうですね」
「そうなのか……」
「ほらごらんなさい。寝る間も惜しんで考えるんですよ」
そう言うと庭師は「それじゃ」と挨拶をして行ってしまった。
考え込むセルジュと残されたコレットは焦る。
咄嗟に肯定してしまったが、別に欲しいものはないし、不足しているものもない。
贈り物は断るべきだ。
しかし、珍しく眉根に皺を寄せ、悩むセルジュの姿に何故か心臓が跳ねる。
贈り物なんて、家族からたくさん贈られて来たし、父の機嫌をとりたい者が少しでも心象を良くしようと彼女の喜びそうな品を勝手に寄越したので、いくらでも貰ってきた。
その上セルジュからも貰おうなんて、欲張りだ。
でも、彼は。
他人には優しいのに、自分の気持ちには鈍感で不器用なセルジュは、コレットのために何を贈ってくれるのだろうか。
「……何を下さるのか、楽しみにしていますね、旦那様」
「……善処する」
考えるより先に口がそう動いていた。セルジュの苦悩は深くなったが、嫌とは言わない。
真面目に贈り物を何にするか悩んでいる。
(年上なのに、失礼かしら? 可愛い方)
思わず浮かんでしまった微笑に、苦悩する彼は気づかなかったようだ。
結局花弁が五枚の花は見つからなかったが、ライラックの木の下でふたりはしばらくそうして過ごした。




