憧れの食卓
昨日はイヴェール家のことを説明するつもりが、コレットの理解が早く、説明しているうちに仕事まで手伝わせていた。
アルノーと性格が違いすぎて忘れていたが、コレットもプランタン家の人間なのだ。ご多分に漏れず優秀で、補佐もそつがなく気持ちよく仕事を終わらせてしまった。
おかげで邸ですべき当主の仕事はしばらくない。
元々使用人たちに妨害されていたが、仕事を口実に逃げられなくなった瞬間であった。
休暇は今日を含めてまだ四日だ。何をして過ごしたらと悩む彼の元へ来訪者があった。
「貴方、早速修羅場にコレットを巻き込みましたね?」
つい先日義理の兄になったアルノーだ。
半眼で睨んでいるが、セルジュに心当たりは特になかった。
「おととい、劇場で、オレリー・バルニエという未亡人と愛人契約を交わしたとか」
「なんだその出鱈目な噂は」
あの件かと思い当たると同時に、あまりに現実とかけ離れた噂に唖然とする。
「あの件に関する一番酷い噂ですよ。貴方に絡んだオレリー・バルニエがこっぴどく振られたって噂が大勢ですけど」
「そっちが正しい」
「どっちが正しいかは関係ありません。貴方の痴情のもつれにコレットが巻き込まれたということが重要なのです。万が一オレリーとやらにコレットが刺されたらどうするのですか?」
「それは……大袈裟だろう」
戸惑う彼をアルノーは忌々しげに睨みつけた。
「こういう時、女は女を恨むものです。逆恨みなんて言葉がある理由が貴方にはわからないんですか? 人はただ自分の持っていないものを持つだけの人間も憎むことがある。
はぁ、こんな男にコレットが守り切れるんでしょうか……。やっぱり取り上げてしまうべきですかね……」
「それは……。アヴァール国のことが終わるまで待ってくれ」
「そこは『私の一生をかけて妹さんを幸せにします』というのが正解です」
「そうか……。難しいな……」
アルノーは今日も元気で清々しいほど妹贔屓だ。彼は今日も出仕する予定である。
セルジュが抜けている分仕事は増えているだろうからこんなところで油を売っている暇はないというのに何をしに来たのか。
「……もしかしてオレリーの件の調べがついたのか」
「それは目下調査中です」
「違ったか」
「あんな女のことは今は関係ありませんよ、まったく」
先にオレリーのことを話題にしたのはアルノーの方だ。しかし、賢明なセルジュはそっと沈黙した。
「貴方、今日は何も予定はありませんね」
「ないが」
「よろしい。出掛ける支度をしなさい。カジュアルな格好でいいですよ」
アルノーの独断的な言葉に訝しげな視線を送ると、ムッと口元を歪ませる。
「手紙に書いて寄越したでしょう。コレットがオーギュストの料理を食べたがっていると。今日の昼に都合がついたのでふたりで行って来なさい」
「いいのか? 予約は年単位だと噂で聞いたぞ」
「私がオーナーですから。なんとでもなります」
さらりとアルノーは横暴なことを宣った。
あのオペラの日にセルジュは王太子へ報告を上げるついでに、アルノーへも礼状を認めていた。コレットのことが知りたいだろうと前日聞いたことを書いたような気がする。
妹を溺愛する彼はすぐさま願いを叶えるべく動いたのだろう。
それにしてもオーナーのコネで予約もなしに話題の店に行けるとなると気が引ける。コレットが遠慮していた時は不思議に思ったが、当事者になるとその気持ちがわかった。
「……その、私ではなくともアルノーが一緒に行けば、いいのでは」
「貴方馬鹿でしょう。そんなのコレットが遠慮するに決まってるじゃないですか。仕事が忙しくて先の予定が立たず、金はあるのにレストランの予約を入れられない可哀想な貴方をだしにしてコレットの罪悪感を減らしてあげるんですよ。ああ、コレット! なんていじらしい!」
「……」
なんだかとても彼の色々が蔑ろにされている気分である。しかしアルノーのおかげで今日の予定は埋まりそうだった。
レストランの件を聞いたコレットは躊躇いながらも喜んでいた。アルノーのセルジュを口実にした言いくるめが成功したとも言える。
カジュアルな装いでいいと言われたが、セルジュはあまり服装に頓着しないためすべてシモン任せだ。
コレットもそこまでファッションに興味はなく、どちらかというと実家から持って来た素晴らしい衣装の数々に侍女たちが目移りして着せ替え人形にされている節がある。
そのため支度に時間がかかるが、仕上がりは完璧で、控えめなフリルのあるサーモンピンクのワンピースを着た彼女は今日も人形のごとく愛らしい。
ふと、そう言えば花すら贈ったことがないとこのタイミングで気づいてしまった。
いくら事が終わったら離縁するつもりでも、夫として最低だ。何か考えておこうと焦っている彼を妻は不思議そうに見上げている。
多分、コレットはそういうことを彼に期待していない。それは互いのために後腐れがなくていいことのはずだが、何故か面白くなかった。
件のレストランは大通りから少し離れた細い路地にあった。随分と小さな入り口に星のマークとゴンボという店名の書かれた看板がかけられている。
そわそわしているコレットを伴って店内に入ったが、明かりはついているものの人気がない。
「あっ、いらっしゃいませ!」
誰かいないかと声を上げる前に店の奥からしみひとつないコックコートの男が顔を出した。
帽子からくるくるとした柔らかな金髪が覗き、団栗のような丸い瞳をさらに丸くした、まるで少年のような男だ。
「イヴェール公爵ご夫妻ですね。アルノーから話は聞いています。さぁ、どうぞ奥へ!」
招き入れるように腕を振り、ぴょんぴょんと跳ねるように歩いて彼はふたりを先導した。見習いか何かと思ったら、アルノーを呼び捨てにするあたり、彼がかの有名なオーギュスト・カレームらしい。
アルノーと同級とは思えないほど若々しい、というより童顔である。
奥の部屋にはぽつんと白いクロスがかけられた丸いテーブルと二脚の椅子だけがあり、オーギュストにそこへ座るように勧められた。
「改めまして、本日はお越し頂きありがとうございます。料理を作らせて頂きます、オーギュスト・カレームと申します」
「セルジュ・イヴェールだ。今日は都合をつけてくれて感謝する」
「コレット・イヴェールと申します。兄がご無理を言って申し訳ございません」
「いいえ! 今日は休日でしたから、お気になさらず」
「まぁ、大切なお休みの日に……」
「また旅に出るのでしばらく臨時休業にするんです。荷物もまとめて出発まで暇だったので本当に気にしないでください。アルノーご自慢のご友人と妹君に俺の料理を食べて貰えるなんて光栄です」
オーギュストはからりと笑って自ら給仕を始めた。臨時休業中のため、ウェイターも休んでいるのだろう。
食前酒の白ワインをサーブされたセルジュは衝撃を受けていた。彼はアルノーに友人だと思われていたらしい。それにしては扱いが雑だ。
しかし、よく考えてみるとアルノーは主君のサミュエルに対しても不遜で雑である。もしかしたらこれでも破格の対応なのかもしれない。
遠い目をしてワインを一口飲む。
まだ若くフルーティさが強いが、すっきりした辛口で飲みやすい。オーギュストが説明していった産地は初めて聞くものだったが、いいワインだ。
「旦那様、ワインはいかがですか?」
「ああ、うまい」
「そうですか、よかったです。兄が作ったワイナリーのものなんですよ」
「そうなのか……」
またしても、だ。
この店のオーナーはアルノーだから彼が手がけたものが出て来ても当然だが、プランタン家は本当になんでもやっている。おそらくこのワインもあと十年もすれば名前が知られるようになるのだろう。
「失礼致します。前菜のホタテのカルパッチョでございます」
そこへオーギュストが料理を運んで来た。
セルジュは目の前に置かれた皿を見て固まった。そこにはホタテ、というには鮮やかすぎるものが載っていたのだ。
「まぁ、綺麗! フルーツがたくさん!」
「今日はイチゴとキウイ、夏みかんを使っています」
これは前菜ではなくデザートだろうと凝視すると、刻まれたフルーツの下から間違いなく生のホタテが覗いている。
その身はつやつやと透明感があり、プリンとフォークを跳ね返す。今朝水揚げされたばかりだとわかる新鮮さだ。
「まぁ、まぁ! おいしいです! フルーツが口の中でソースにみたいになって……。ホタテもこんなにフルーツが載っているのに水っぽくなくてしっかり素材の味がします」
「えっへへ……。よかったです」
躊躇いなく斬新なカルパッチョを食べたコレットが絶賛している。セルジュもそれに釣られて一口食べた。
確かに美味だ。
おそらく味付けはシンプルに塩だけなのだろう。ひと噛みするごとにホタテ本来の旨味が滲み出した。
フルーツは危惧していたよりも甘味が際立つことはなく、酸味と相まってコレットが言った通り歯ごたえがあるソースのようだ。
香辛料を様々に使った料理に慣れた王都の人間にこの料理は大層新鮮に映るに違いない。
最近のことだが、移動や輸送に使える転移魔方陣が開発され、徐々に広まっている。このカルパッチョの材料も朝、遠く離れた産地から送られてきたものに違いない。
まだ一部の王侯貴族しか恩恵を受けられていないはずの技術がこの店で取り入れられている理由は、魔法陣を開発した天才がプランタン家の縁者であるからだろう。
先日、重要な情報をもたらしたコレットの姉、ルイーズの夫であるロジェ・ラプラス。
魔法陣開発の功績で男爵位と宮廷魔術師長補佐というこの国の魔術師の中で二番目の地位を得た若き天才は元々は孤児であったそうだ。
ルイーズとは彼がまだ孤児院にいた時に知り合い、貴族令嬢の彼女を娶れる立場が欲しいとがむしゃらに努力をして成り上がった。
本当に、プランタン家は一体どうなっているのか。探さなくとも天才から寄って来るなど他家からしたら羨ましくて仕方がない特性だ。
料理の感想で盛り上がる、やはりプランタン家の縁者ふたりを見ながら古めかしいものと育った彼には新しすぎるとひとつため息を吐いた。
前菜から飛ばしてきたフルコースは最後まで美味しさと驚きに満ち溢れていた。
念願のオーギュストの料理にコレットは終始上機嫌で、給仕をする彼に興奮気味に料理の感想を伝える。
そんなコレットにオーギュストも嬉しそうで、帰る時には名残り惜しげに見送っていた。
オーギュストはセルジュと違って人当たりがよく、茶目っ気のある男だ。きっと楽しかったことだろう。
しかし、そう思うと胸の辺りがもやもやする。食べすぎだろうかと帰りの馬車で内心首を傾げているとコレットにも気づかれてしまった。
「旦那様、もしかして馬車酔いですか?」
「いや、大丈夫だ」
満腹ではあるが、胃の調子が悪い感じはしないし、嘔吐感もない。
今はもやもやよりも、コレットが心配していつもより距離が近いせいかそわそわしている。
「そうだ。わたし、枕になりますわ」
「は?」
人間は枕にはなれない。咄嗟にそう言おうとして留まった。もっと柔らかに人の無機物への転身は無理だと伝えたい。
そう悩む彼をよそにコレットは確信を持ってさらに言葉を続けた。
「お父様が言っていましたの。お母様に膝枕をして貰うと疲れも具合の悪さも全部なくなるのだと。わたしの膝はちょっと狭いですけれど、もしかしたら同じ効果があるかもしれません」
そして、自らの膝をぽんぽんと叩く。
セルジュは思わず唾を飲み込んでいた。
膝枕にそんな効能があるとは彼は寡聞にして知らない。ふんわりとしたサーモンピンクのスカートに包まれ、形もあまりわからない妻の膝に果たして本当にそんな効果があるのだろうか。
遠慮はいりませんとコレットに強く勧められ、恐る恐る彼は横になり、妻の膝に頭を沈めた。
すべすべした布の下に、暖かく柔らかい感触。鼻を擽る甘い香りが彼の心を揺さぶった。
「どうですか?」
下から見上げるいつもとは違うコレットの姿が何故か眩しくて見てられず、彼は両手で顔を覆う。
「ど、どうしました!」
「しんぞうがこわれそうだ」
「悪化してる!」
尋常ではないほど激しい拍動の音に、妻の焦る声。今日はなんだか忙しないと自分の中の冷静な部分で思った。
でも、不思議と嫌ではない。
その意味を考えることを、彼はほんの少し先延ばしにした。