『蛙の呪い』
両生類系の気持ち悪い描写があります。
「よかったですわね」
毒を多分に含んだ声の持ち主はたった一度会っただけの女性のものだ。
「あなたがお人形さんでも、王太子殿下は構わないようですわよ」
揶揄いと嘲りの感情が伝わる言葉を不思議に思う。
何故ひと言も言葉を交わさなかったコレットがこんなに嫌われているのか、と。別に好かれたいとは思わないが、ほとんどすれ違っただけの人間をここまで嫌える彼女がよくわからなかった。
そして、その隣に立つ亜麻色の髪と薄紅色の瞳の女性はもっとわからない。
一度も会ったことがないはずなのに、コレットをギラギラと憎悪が滾った目で睨んで来る。すぐにでも彼女の後ろに控えた護衛の騎士らしい男に斬り捨てるように命じそうな気迫だった。
案内をしていた侍女がそそくさとオレリーの後ろへ移動するのを見て、コレットは後悔した。彼女のような世間知らずは片時もセルジュの傍を離れてはいけないのだと。
男性に身支度を見せるべきではないという良識に従い、追い払ってしまった夫のことが浮かぶ。
まだ近くにいるだろうかと一瞬考えて、すぐに打ち消した。
護衛騎士は淑女のコレットには手を出さなくとも、紳士のセルジュには容赦しないだろう。
夫は背も高いし体格もいいが、あくまで文官なのだ。本職とやり合って無事で済むとは思えない。
「左手にしましょう」
突然、亜麻色の髪の女性がコレットを睨み据えたままそう言う。背後の護衛騎士が身を乗り出し、コレットは反射的に後退った。
知らない男に近づかれるのは怖い。しかし、夜会のための踵の高い靴のせいか、ぐきん、と足首が嫌な曲がり方をして、体勢を崩す。
その間に男に左の二の腕辺りを掴まれていた。
跪くような体勢で見上げると、彼女の左腕は亜麻色の髪の女性に捧げられるように高く掲げられている。
力なく垂れ下がる手に、女性が金の腕輪を通していた。
「あなたも思い知ればいいのよ」
ギラギラと憎悪で燃える太陽のような眼差しが降り注ぐ。
腕輪はコレットの手首に差し掛かると、突然、小さく縮んだ。ギュと締め付けられて手首に痛みが走る。
「セルジュは誰も愛さないって」
その言葉に、コレットは遅ればせながら女性の正体に気づいた。
あなたがあの人の何を知っているのかと反論したかったが、急速に意識が遠のいて行く。
最後に感じたのは、崩れ落ちる体を受け止めた絨毯の感触だけだった。
水面から顔を出すように静かにコレットは覚醒した。しばらく天井を眺めてぼんやりしているうちに意識がはっきりしてくる。
彼女は慌てて身を起こし、今いる場所を見回して安堵する。
暖かなランプの明かりに照らし出されたのはイヴェール家の彼女の私室だ。いつもは使わない自分の寝台に寝かされていた。
ではさっきまでの出来事はなんだったのだろうと思って、違和感を感じる。
瞼が妙に腫れぼったい。うまく目が開かないのだ。
それに服の感触にも違和感があった。
不思議に思い自分の体を見下ろして、呼吸が止まった。
「ひぃっ……!」
目に映ったものの忌まわしさに喉が引き攣れる。
心拍が急激に上がり、冷や汗が噴き出したような感じがした。
着ているものに異常はなかった。今日の夜会のためのドレスだ。ただ、その下、彼女の皮膚が異常だった。
どす黒く、ぼこぼこといくつもイボが出来ている。それに粘液のようなものが出ているのか、てらてらと濡れ光っていた。
到底人の皮膚とは言えない。
これは、蛙の皮膚だ。これが『蛙の呪い』なのだ。
あまりの気持ち悪さにコレットは自分で自分に触れられず、身動きが取れなくなってしまった。
泣きそうになりながら、何故こうなったのかそのきっかけを思い出そうとする。
原因は明らかにベアトリスにあるとはすぐに思い出せた。
おそらく彼女がコレットに嵌めた金の腕輪が怪しい。しかし、左手首にそんなものは嵌っていない。
気持ち悪さを堪え、触れて確認したが指先に感じたのはぶつぶつのイボとねちゃりとした粘液のみ。
耐えていた涙が溢れた。
思っていた何倍も、苦しい呪いである。こんな異形の姿を誰にも見られたくない。直せる人が近くにいたら、なりふり構わず縋ってしまいそうだ。
薄暗い室内でしくしく泣いていると、扉がノックされる。
「コレット、起きたのか。私だ」
「セルジュ様?」
「そうだ。……入ってもいいか」
コレットは躊躇った。見られたくない。特に大好きなセルジュには。
しかし、拒絶もしたくなかった。きっと、セルジュは彼女を傷つけるようなことは言わないし、こんな彼女を嫌うこともないだろう。
自分のことを信じられない人だから、コレットが一番に信じてあげたかった。
「……セルジュ様だけ、ですか?」
「私だけだ。他の者は遠ざけてある」
「なら、いいです。どうぞ、お入りください」
「ありがとう」
彼女を怖がらせないように、扉はゆっくりと開いた。しかし、コレットは直視できない。セルジュがどんな顔をしているのか、見るのが怖かった。
「コレット」
大きな体がすぐ横に来るのを感じた。横目で見ると寝台に乗り上げるようにしてセルジュが座っている。
まだ顔が見られず、コレットは俯いていた。
「コレット、すまない。あなたを守れなかった」
痛ましいほど沈んだ声に放ってはおけず、顔を上げていた。
セルジュは真っ直ぐ彼女を見つめている。その瞳の奥には深い後悔が刻まれている。
コレットは無心で首を振っていた。
「ちが、違います。わたしが悪いんです。セルジュ様は一緒にいるべきだと言ったのに、離れたわたしが悪かったんです」
「そんなことはない。私の警戒が足らなかった。それに、あなたにもっと話しておけばよかったのだ」
「話す?」
「コレットの身に危険が降りかかるかもしれないと……。あやふやな情報しか掴めず、徒に怯えさせてはいけないと黙っていたが、話しておけばこんなことには……」
セルジュが言うにはプランタン家の商才と財産に目をつけたアヴァール国がコレットを娶って家ごと取り込もうとしていたらしい。
フィエリテにとって損失しかないその計画を阻止するために彼女はセルジュに嫁ぐことになったのだそうだ。
「信じられないかも知れないが、私は本当にあなたを愛しているんだ。サミュエルからの命令ではない」
「信じます。セルジュ様はそんなことができる方ではありませんもの」
「始めはすべてが終わったらあなたを自由にするつもりだった。でももう私はあなた無しには生きられない」
セルジュはそう言って、彼女でも触れるのに躊躇った気味の悪い手を握った。
いつものように表情が変わらない。でも何よりもセルジュの内心を語る瞳はただ必死に想いを伝えようとしていた。
そこにひと欠片も嫌悪を見て取れず、コレットはくらくらした。
こんなにも真っ直ぐな人をどうして疑えるだろう。こんなもの、信じるしかない。
「わたしだってあなたのいない人生なんて考えられません。わたしの言葉を信じてください」
なんとか自分の想いもわかって貰おうと言った言葉にセルジュは虚を衝かれたようだった。
「……すまない、私は自分のことばかりで。コレットの言葉を疑う訳がない。今大変なのはあなたなのに、取り乱してしまった」
「いいえ。わたしもあまり冷静ではありませんから」
セルジュは自分を落ち着けるようにひとつ深呼吸をした。
意を決したような目つきで話し出す。
「あなたは今、『蛙の呪い』がかかっている。解呪の方法は知っているだろうか」
「愛する人からのキスだと聞き及んでいます」
「そうだ。ただ、この呪いはアヴァール国が関わっている可能性が高い。呪いをかけられた時のことを覚えているか?」
「はい。……ある方に金の腕輪を手首に嵌められました。今思いつくのはそれだけです」
「誰にやられた」
コレットは口を噤んだ。ベアトリスにやられたと彼に言っていいものか迷ったのだ。
「オレリーか、あの侍女か、騎士のような男もいたか。……それともベアトリス殿下か」
「……!」
あの現場にいた者をすべて言い当てられて、つい動揺してしまう。
彼女がイヴェール家に戻れている時点で気づくべきだった。セルジュはあの現場を見ているのだ。
「……ベアトリス殿下です」
「そうか。……どちらの手首にもそれらしいものは見えないが、魔術だからな。只人には見えなくなっているのかもしれない」
セルジュはコレットの答えを冷静に受け止めて、彼女の両手首を見るだけではなく、しっかり触って確かめている。
やはり、あの光景は幻だったのではと思うほど、何もなかった。
「コレットが言うようにその腕輪が原因ならば、キスなど関係なく腕輪を外すことで呪いが解けるのかもしれない」
「もしかして、外せるのはアヴァールの王族だけ、ということは……」
「その可能性は高いだろうな」
「そんな……」
セルジュが言うように、どこまでもアヴァールに都合の良いこの呪いはきっとそんな仕様になっているに違いない。
解呪しようとするなら、絶対アヴァールに頼らねばならないのだ。
「だが、試してみてもいいだろうか」
「えっ……」
「キスを、してみてもいいだろうか」
酷く静かな眼差しでセルジュが彼女を見下ろしている。コレットの心臓が跳ね上がった。
「呪いが解けるかわからないが、可能性があることはすべて試したい。あなたをアヴァールに絶対渡したくないんだ」
真っ直ぐ、目を逸らさずに告げられた言葉に胸が震え、再び涙が溢れた。今の醜い顔で泣けばもっと醜くなるとはわかっていても止まらない。
「……わたし、今の自分の姿を受け入れられません」
「そうだろうな」
「自分でも、自分のことが気持ち悪いです」
「どんな姿になろうと、あなたが持つうつくしいものは変わらない」
自分を貶す言葉を放つコレットを、セルジュは受け止めてくれた。
変わらない態度に荒れた心が落ち着いていく。
「でも、セルジュ様の口づけ以外に呪いを解いてほしいとは思いません」
「コレット」
涙が止まらないまま、セルジュの瞳を見つめ返した。
滲んだ視界の中の彼はしばらく固まったかと思うとゆっくり距離を詰めてくる。長い腕が彼女を包んだ。
「どうか、呪いが解けなくてもアヴァールにわたしを渡さないで。
もしかしたら、ずっとこの姿が受け入れられなくて、あなたにたくさん八つ当たりをしてしまうかもしれませんが」
「たくさんしてくれ。コレットが生きやすいように、私はなんでもするから」
「なんでもするなんて、軽はずみに言ってはいけませんわ」
「軽はずみじゃない。コレットのためなら、本当になんでもしたい」
優しい抱擁は次第に力が籠り、ふたりの距離を縮めていく。大きな夫にすっぽり包まれた時、そっと近づく彼の顔に気づいて目を瞑った。
瞼の裏の暗闇の先に、セルジュの顔が見えるような気がした。その瞬間、柔らかいものが唇に触れる。
「んっ!? ンンッ!」
いつもの軽く触れる口づけではなかった。噛み付くような勢いに思わず身が引ける。いつの間にか後頭部を大きな手で押さえられていた。
先程までの優しく穏やかな雰囲気とは正反対の激しさにコレットは大混乱だ。
夫の胸の辺りを叩いたがまったく離してくれず、食らいつくような長く深い口づけからは最後まで逃げられなかった。
「ああっ!!」
やっと満足したセルジュが唇を解放して、歓喜の声を上げた。
ややぐったりしたコレットは手首が軽くなったように思ったが、確認する気力がない。
「よかった! コレット、コレット!」
「ひぇっ! セルジュ様、まって……」
それ以上言葉が出なかった。何故ならかなり体格差がある夫に押し倒されて、雨のように落ちる口づけを受けていたからである。
身体的にどこをとっても劣るコレットには抵抗のしようがなかった。
その五分後、不審な物音に気づいたイネスが決死の覚悟で部屋に突入し、コレットは救出される。
ちなみに呪いはセルジュに呼び出されたロジェにお墨付きを貰うくらい綺麗さっぱり消えていた。




