彫像(スタチュー)の愛
セルジュははたと気づいた。何かがおかしいと。
仕事に復帰して一週間。オレリーや例の劇団に動きはなく、相変わらずアヴァール国の尻尾は掴めない。
しかし、コレットの周辺に怪しいものが近づいたり、プランタン家にアヴァール国の関係者が接触しようとしている気配も今のところはない。
諦めてくれたのか、と油断はできないが表面上は平穏だ。
休暇で溜まった彼の仕事も片付き、遅くなっていた帰宅時間も解消され、順調である。
しかし、何かが引っかかっている。
「セルジュ、それが終わったら昼食にしろよ」
サミュエルにそう声をかけられてやっとわかった。今日はコレットがいないのだ。
このところ彼の帰りが遅く、晩餐を一緒に食べられないからと毎日弁当を持って通ってくれていたコレットが、来ない。
それは当然で、今朝セルジュが断ったのだ。今日から晩餐に間に合うように帰れるからと言って。
毎日王宮に通うのは大変だし、何より数多の男の視線に晒される。
彼の「六人の護衛でコレットを取り巻く」案は使用人たちにあえなく却下されたから、彼女の身の安全のためにも当たり前のことだった。
しかし、何故だろうか。コレットがいないと食欲が湧かない。今日の弁当が自邸のシェフによるもののせいか。
コレットとの昼食でも彼女の負担を考えて半分はシェフによるものだった。その時は昼食が待ち遠しかったのに、彼は一体どうしてしまったのだろう。
「どうした、セルジュ。奥方が来ないから寂しいのか」
「そんな……。そんなことはない」
咄嗟に否定していた。いつも茶々を入れてくるアルノーは今日に限って休みだ。
真面目な顔のサミュエルに無言で見つめられて、何故だか気まずくなってくる。
「今日お前はひとりで昼食を食べるんだ。本当に寂しくないのか」
「それは……」
重ねて問われて返事を躊躇う。
寂しくはない。そのはずだ。
しかし、その言葉は頭の中だけで口から出ることはなかった。
セルジュは困惑していた。コレットと結婚する以前、彼はいつもひとりで食事を摂っていた。そもそも誰かと食卓を囲むことが彼は苦手である。
その苦手意識はかつての両親との食卓に起因する。
両親はそれぞれ愛人の元に入り浸っていたが、貴族としての仕事は怠らなかった。
父は領主を立派に務めていたし、母は貴族夫人らしく夜会や茶会を主宰していた。
だから、時々あの本館で家族三人、食事を摂ることもあったのだ。
ただ、そこに会話はなかった。
黙々と沈黙が支配する食卓はひたすらに重苦しく、食べ物は喉をうまく通らない。ひとりで食べた方がよっぽどましだった。
だから、今日昼食をひとりで食べることもかつての日常のはずで、寂しいなんて思う方がおかしい。なのに、あの両親と囲んだ食卓と同じくらい胸が重苦しく、喉が詰まった。
「セルジュ、正直に答えてくれ。お前はコレット夫人がここにいなくて寂しいんだろう?」
「それは……」
「セルジュ、ここには俺とお前だけだ。幼馴染の俺に本当のところを教えてくれ。誰にも内緒にするから」
真摯な眼差しで、子供の約束のようなことを言うサミュエルに戸惑いながらも正直に思うところを吐露する。
「……寂しい、と思う」
「そうか」
セルジュの答えを聞くとサミュエルは破顔する。彼ほどではないが、厳しい顔を崩さない王太子の笑顔は珍しい。
サミュエルは笑うと少し幼く見えて、子供の頃を思い出させる。
かつて王宮の広い庭の片隅で、ふたりは大人に言えない苦しい内心を吐き出し合ったこともあった。
「……コレットは」
「うん」
「食べることが好きで、いつも幸せそうにしている」
「そうなのか」
「何も言わないが、表情に出るから好きなものを食べるとすぐにわかる」
「例えば?」
「ウィンナーと、ほうれん草のクリームスープ。あと、ホタテが好きなようだ。……コリアンダーが苦手なようで、食べる時は息を止めて飲み込んでいる。喉に詰まらないか心配だ」
「よく見ているな」
そう、彼はコレットのことをよく見ている。くるくる変化する彼女の表情を見逃したくないから。
いつの間にこんな風になってしまったのだろう。
こんな有様で、いつかコレットを手離した時には腑抜けになってしまわないか心配だった。ずっと支えてきたサミュエルのためにも役立たずにはなりたくない。
「……セルジュ、お前はアヴァールとのことが片づけばコレット夫人を手離せると、まだ思っているな」
ちょうど考えていたことを言い当てられ、動揺する。サミュエルは苦笑していた。
「諦めろ。お前のその状態は重症だ」
「……? 健康そのものだが」
「そうか? 突然動悸が激しくなったり妙に落ち込んだりしていないか?」
そう問われて黙り込む。心当たりがもの凄くある。ここ最近、コレットに関わると心臓が壊れそうなほど騒がしくなることがあるし、気分も上がり下がりが激しい。
「それはな、恋の病というやつだ。お前はコレット夫人を愛している」
「そんな馬鹿な。あり得ない」
「セルジュ」
「私は、愛などわからない」
「セルジュ……」
そのはずだ。
彼が愛を持たない彫像だから両親に見向きもされないし、ベアトリスは別の男を選んだ。
そうでなかったら彼の何が悪かったのかわからない。
「……八年前は悪かった。俺は、いや、俺たちは妹可愛さにお前に嫌な役割を押し付けてしまった」
「サミュエル、それは」
「そうなんだ。俺たちはあの子がアヴァールの王太子に惹かれていることを憧れと決められた将来に対する一時的な反発心から来るものだと軽んじた。呪いさえ解けばすべてが丸く収まると楽観視した。その結果、お前に深い疵を残してしまうとは思いもせずに」
幼馴染の苦渋に満ちた表情に言葉を失う。サミュエルがこんなにも八年前の事件に責任を感じているとは思いもしなかった。
「最近、アルノーを見るたびに思うんだ。俺たちは言葉が足りなかったと……。あいつは妹のこととなると騒がしいが、間違ってもコレット夫人はアルノーの愛を疑ったりはしないだろう。言葉を惜しんではいけなかったんだ。
例え、家族であっても言わなくてもわかることなんてない。俺たちはまずベアトリスと話し合うべきだった。その手間を惜しんだせいで今じゃあの子が何を考えてアヴァールの王太子を選んだのか、まったく理解できなくなってしまった」
「それは……」
それは、セルジュも同じだ。彼はベアトリスに何も言わなかった。
そもそも結婚することが決まっていたから彼女が何を思っているか、彼が彼女をどう思っているか、深く考えたことが一度もない。
「セルジュ、お前はちゃんとベアトリスを愛していたよ」
唐突にサミュエルがそう断言した。静かで、穏やかな眼差しをしていた。
「俺が保証する。ベアトリスは否定したが、お前はちゃんとあの子を愛していた」
「私は……」
「それが、どういった種類の愛かまでは俺にはわからなかったがな。……俺の言葉は信じられないか?」
「……いや」
サミュエルは厳しいが誠実だ。嘘は吐くがそこにはちゃんと理由がある。だから、彼は間違ってはいないのだろう。
だから、セルジュは過去を思い出してみた。
サミュエルは彼がベアトリスを愛していたという。
しかし、自覚するより前に否定された愛は彼の中に痛みという残滓を残すのみで、確かに愛だったと確かめることはできなかった。
「セルジュ、もっと自分を信じてくれ」
「信じる?」
「お前の心を。お前は、自分が思っている以上に愛情深くて、愛したがりだぞ」
「そんなことは……」
あり得ないという言葉はかろうじて飲み込んだ。先程サミュエルの言葉を信じると言ったのだ。
自分に対してまだ懐疑的だが、サミュエルが言うならもしかしたら彼という人間は愛情深く、愛したがりの可能性が小指の爪の先くらいはあるかもしれないと信じられる。
「まだ納得いっていない顔だな。とりあえずお前はコレット夫人への感情に向き合え。本当に手離せるかどうか、本人を目の前にして真剣に考えるんだぞ」
「考える」
「いや、やっぱり違うな。頭で考えるな。感じろ」
「感じる」
サミュエルに言われた言葉をそのまま繰り返してみたが、理解はしていなかった。考えずに感じるだけで何がわかるのか、セルジュには想像もつかない。
「じゃあ昼食にするか。今日のところは俺で我慢してくれ」
珍しく、にかりとサミュエルが笑う。子供の頃の面影がよぎってセルジュは懐かしく思いながら頷いた。
「おかえりなさいませ!」
予告通り晩餐前に帰ったセルジュをコレットが出迎える。
ふわふわと揺れる金髪に、つぶらな淡い藤色の瞳。さくらんぼのような唇に熟れ始めのモモのようにまろかやな頬。
はしたなくない程度の早足で駆け寄る姿は童女のような無邪気さを感じるはずだった。
「セルジュ様? どうかなさいました?」
返事もなくジッと見つめる彼を見上げ、コレットは小首を傾げる。あどけない所作は彼女を女性というより少女に見せる。
でも、セルジュはそうは思わなかった。
可愛いとは思っている。しかし、そこには拭い難い色が付き纏う。もう感触を知っている唇に触れたいと思うそれは、明らかに男の欲望だ。
(サミュエルは感じろと言った)
不思議そうな妻を前にぐるぐると回る思考を止めて、幼馴染にして主君の言葉を思い出す。自分の欲望を自覚した今、感じるままに行動するのはまずいと理性が言っている。
しかし、もしもの時は周りの使用人たちが止めるだろうと、彼は珍しく楽観的に行動した。
改めて妻を見下ろし、何も考えずその白い額に口づけを落とした。
「今戻った」
コレットは一瞬ポカンと口を開け、額を手で押さえる。
そして、実に嬉しそうに笑った。
そういえば、彼が先に口づけをするのは初めてのことである。先を越されたコレットは両手を彼に伸ばし、屈むように仕草で強請られる。
セルジュは妻の望むままに姿勢を低くし、本日三度目のキスをして貰った。
「おかえりなさいませ……セルジュ様」
噛み締めるように繰り返される言葉が身に染みる。喜ばれていることに彼の心は震えた。
コレットに受け入れられている。それが、歓喜と言っていいくらい、嬉しかった。
「晩餐の支度はすっかり整っています。まずはお着替えをなさいますか?」
「ああ。そうさせて貰おう」
キラキラと輝く瞳と目が合い、セルジュはやっと自分の中に隠していたものを真正面から受け止めた。
彼は確かにコレットを愛している。
はっきりと自覚してしまった今、もはや二度とコレットを手離そうなどとは思えなかった。




