恋の訪(おとな)い
彼女はそっと、金色の蓋を持ち上げた。
するとぴょんと灰色のふわふわした羽毛の雛鳥が現れる。
ひよひよひよひよ……
小さな羽をばたつかせ、黒い嘴をぱくぱく動かしている。
しばらく囀ると、勝手に閉まる蓋の下にその愛らしい姿を隠してしまう。
「可愛い……」
思わずそう呟いていた。
一生懸命羽ばたく姿が必死で飛ぶ練習をしているように見えて応援したくなる。
夫のくれた贈り物にコレットはすっかり夢中になっていた。
シンギングバード自体は知っていたが、実家にもあったそれは鳥籠の形をしているものだ。
このタイプのものは初めてで、しかも白鳥の雛というのが珍しく、愛らしい。
昨日、晩餐の時に何故かセルジュは随分落ち込んでいて「センスがなくてすまない」と謝られてしまった。そんなことはないと、コレットなりに頑張って嬉しい気持ちを言葉にしたが、うまく伝わっただろうか。
寝室で顔を合わせた時にもとても気に入っていると重ねて言っておいたので、伝わっていると思いたい。
今日のセルジュは明日に向けての準備があるそうで、朝食の時に会ったきりだ。
彼女もセルジュに内緒でやりたいことがあったので、ちょうどよかった。
もう一度雛鳥に囀って貰い、気分転換をすると再び手元に目を落とす。
刺繍枠を嵌めた白いハンカチに刺された刺繍は、完成まであと半分といったところだった。
これなら今日中にも完成しそうだと胸を撫で下ろす。
コレットは今、セルジュに贈る刺繍を刺している。
元々、妻としてひとつくらい刺繍をしたハンカチを贈らねばと思っていたが、何を刺したらいいか思いつかず、先送りにしていた。
昨日の贈り物や、今までのことのおかげで素敵な図案が思いついたので、急いで刺している。
セルジュは明日には仕事に戻るから、明日の朝までには渡したいところだ。
急ぎながらもひと針ひと針丁寧にコレットは仕上げていく。刺繍は得意とは言えないが、不得意でもない。
ただ、完璧な姉の唯一の欠点が不器用なことだから、必死になって取り組んでいた時もあった。
結局コレットの腕前は平均的なものにしかならなかったが、手際は良くなったから努力は無駄ではなかったのだ。
姉のことと共に、昨日、美術館でのことも思い出した。
セルジュの元婚約者がモデルだという演劇のチラシが頭に浮かぶ。
コレットは今まで『蛙の呪い』についてもベアトリスについても噂程度しか知らなかった。
話題になった当時まだ子供だったこともあるが、大好きな姉と離れ離れになっていてそれどころではなかったのだ。
当時の姉は大国に輿入れした第一王女に付いてあちらの国に行っていた。慣れない異国に王女が馴染むまではと、一年の約束で旅立ったのに、それから三年も帰って来ない。
姉の意志ではなく、姉を気に入っていた王女が引き留めていたそうだ。夫の王太子も姉を気に入り、あの手この手で帰ろうとする姉の足止めをする。
結局、兄が出向いて連れ帰ったが、あの頃のコレットはもう二度と姉に会えないのだとしくしく泣いてばかりいた。
だから、『奇跡のふたり』なる演劇も知らない。
七年前は帰って来た姉が結婚した年だ。幸せの絶頂で輝くばかりに美しい姉を見るのに忙しかった。
彼女が姉のことでいっぱいになっている間、セルジュは踏み躙られていたのだ。
コレットはベアトリスを絵姿でしか知らない。
けれども彼女の言葉がセルジュの思い込みの原因になったとしたら許せない。
別に、アヴァールの王太子と恋をしてもいいが、何故ついでとばかりにセルジュを傷つけていくのか。
その傷は未だに癒えておらず、あのチラシを見た時の彼は無表情でも痛々しかったし、体調まで崩していた。
まだ彼は王女に恋をしているのだろうか。
そう考えると少しだけ息がし辛くなる。
コレットはまだ恋を知らない。しかし、人が恋に落ちる瞬間は見たことがあった。
それは彼女がまだ幼い子供の頃。姉に手を引かれ、孤児院を訪問した時のことだ。
姉も彼女も初めて訪問する孤児院への寄付と慰問を終えて帰ろうとしていたところ、突然、姉が一点を見たきり動かなくなった。
姉の視線の先には痩せていて、不潔ではないがくたびれた格好の少年がいた。
ざんばらな深紅の髪から覗く深い青の瞳はギラギラと光り、灼けつくような激しさで姉を見つめている。
姉もまた、コレットが初めて見る色を宿した眼差しで彼を見ていた。
姉は吸い寄せられるように彼の元へ向かい、彼もまた姉に近づく。コレットは繋いだ姉の手がするりと自然に抜けていったことをよく覚えている。
重なるふたりの影を見て、まだ幼い彼女はそれがなんという名を持つかは知らずとも、姉の中で彼がコレットよりもずっと特別なのだと理解した。
互いの名前も知らないままに恋に落ちたふたりの行く先は前途多難だった。
まず、彼はそろそろ孤児院を出る十五歳。魔術の才を見出され、宮廷魔術師として就職は決まっていたが、何も持っていない孤児である。
職はあってもしばらく生活が苦しい男の元に娘を嫁がせる親はいない。そもそも身分が邪魔をして、貴族令嬢の姉と彼の結婚は難しかった。
その時の姉は十八歳で、結婚適齢期ギリギリである。大量に縁談が来ていたが、姉はそれらをすべて蹴って侍女になる道を選んだ。
そうやって時間を稼ぎ、行き遅れになって自分の価値を下げようとしたのだ。
一方の彼も、功績を立て出世して、ついに爵位を得た。
たった一瞬の恋のためにふたりは血の滲むような努力と苦労を乗り越えたのだ。
セルジュも、ベアトリスとそんな恋をしたのだろうか。
ぎゅ、と引き絞られるような痛みと共に頭の冷静な部分が「それはない」と答えを出す。
もし、恋をしたとしても、それは片恋だったに違いない。
姉と義兄のような激しい恋をして、あっさり別の相手に乗り換えるなんてできないはずだ。
ベアトリスが選んだのはセルジュではなくアヴァールの王太子だった。『蛙の呪い』で得た恋は相当素晴らしいものであるらしい。
美術館に並ぶ、判を押したように似た絵が頭の中に浮かぶ。
美しく整った、人々に迎合されやすい場面。そして、ドラマチックな実話を元にした演劇のチラシ。
昨日、コレットはあれを「宣伝紛いの展示」と表現した。だが、なんとなく、それ以上の何かを感じている。
実話を元にした演劇、なんて話題性があるが、所詮流行り物だ。王女の結婚直後の七年前ならさぞ実入りがよかっただろう。
しかし、忘れられた今となってはそこまでの収益は見込めない。わざわざ美術館で特別展示をするに見合う稼ぎが出るかは微妙だ。
コレットは、その先を見込んでいるのではないかと思った。
よく、人気作家の新作が出る前に本屋がその作家の今までの著作を客の見やすいところに置いて宣伝することがある。
シリーズものだと特にそういったことをして、最新作がより売れるように下地を作る。
彼女は、美術館の件はそれに似ていると思った。
『蛙の呪い』、そして、以前に起こったそれに纏わる恋物語。それをわざわざ人々に思い出させて、まるで、新しい恋物語の下準備をしているようだ。
その場合、次の主役は誰になるのだろう。
そこまで考えたところで、手が止まっていたことに気づいて首を振って雑念を振り払う。
セルジュのためのものを作っているのだ。今は彼のことだけを考えているべきだ。
集中し直し、何よりもセルジュの幸せを願いながら針を動かし、思う図案を形にしていく。
とても優しくて、不器用な人だ。
もし、今度彼が恋をするのなら、それは柔らかく、暖かなものであってほしい。
初日に彼女は「愛せない」と言われてしまったから、きっと別の誰かが相手だろう。今度は彼の愛を否定せず、受け止めてくれる人であればきっとコレットも祝福できる。
(わたしは――)
頭の中で浮かんだ言葉は、刺繍が完成したことで形にならなかった。
糸を始末し、枠から外してハンカチを目の前に広げて出来を確認する。
「旦那様、気づくかしら?」
コレットは小さく笑い、刺繍に仕掛けたちょっとした思いつきを撫でた。
その夜、夫は夜半過ぎに寝室へ戻ってきた。
コレットは隙あらばくっつきたがる瞼を叱咤し、寝ないで待っていた。ハンカチを渡すためである。
朝は忙しそうだと夜のうちに渡すことにしたのだ。
「起きていたのか。先に寝ていろと言っていただろう」
「旦那様」
何やら小言を言われそうな気配がする。コレットは夫を迎えて出端を挫いた。
もはや彼女の眠気は限界に達している。長い時間もたない。
「これ、よろしかったら使ってください」
「何?」
綺麗にアイロンをかけて貰い、畳んでリボンを結んだハンカチを差し出すとセルジュは戸惑っていた。きょときょととハンカチとコレットを見比べている。
眠いので早く受け取ってほしい。
「……いいのか」
「旦那様のために刺しました。もしいらないなら自分で使います」
「いる」
戸惑っていたわりにはきっぱりと返事をしてハンカチを彼女の手から攫っていく。
セルジュは刺繍の部分をじっくり見ていた。
「これは、ライラックと白鳥の雛か」
「はい。贈り物が、嬉しかったので。……あと、ライラックの花の中にひとつだけ花弁が五枚のものが隠れています」
「なんと」
「見つけても他の人に教えてはいけませんよ。わたしと旦那様の秘密です」
セルジュは一瞬固まって、真顔でぶんぶん激しく頷いた。
この様子ならきっと約束を守ってくれるだろう。
コレットが刺した図案は、手鞠のように集まって咲くライラックとその手前で丸まって眠る白鳥の雛だった。
先程セルジュに教えた仕掛けも仕込めたし、雛も中々愛らしい。納得の出来だ。
「あ、ありがとう。大切にする」
「はい。そうしてくださると嬉しいです」
そう言って、ハンカチを見るセルジュをぼやけた視界で見つめる。
突然の結婚で、愛されなくてもいいと思っていた。
コレットの元には家族から嫌というほど愛が降り注いでいるから、これ以上は欲張りだと考えていた。
でも、ほんの少しだけ。彼に愛する人が現れるまで、欲張りになってもいいだろうか。
「セルジュ様」
「……なんだ」
「屈んでくださいますか?」
「構わないが。これくらいか?」
「もう少し、低くなってくださいませ」
特に何も聞かず妻に言われた通りに屈む夫の額に、コレットは背伸びをしてキスを落とした。
「おやすみなさいませ」
そうして就寝の挨拶をし、コレットは限界に達した。
ふらふらしながらもなんとか寝台に辿り着き、布団に潜り込む。
(わたし、セルジュ様がすき)
上質な肌触りの布団に包まって、眠りの波に飲み込まれた瞬間、素直にそう思った。
想いに応えてくれとまでは望まない。でも、ほんの少し、セルジュを恵んでほしい。そう、家族のような愛で構わないから。
枕に頭をつけると同時にコレットは夢の世界に旅立ったので、夫が中腰のまま額に手を当てるという間抜けなポーズで固まっているとは露ほども知らなかった。




