プロローグ
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どこからか甘い花の香りのする春の夜。霞む満月がフィエリテという国の街の一角にある大きな邸宅を照らしている。
邸の中では寝室で一組の男女がベッドの上で向き合っていた。
男は、青色がかった長い黒髪にくっきりとした菖蒲色の瞳。整い過ぎるほどの美貌はどこか作り物めいている。座っていても上背があることがわかる、しっかりとした体格をしていた。
まるで精巧な彫像のような彼はしゃんと背を伸ばし、ぴくりとも動かず相対する相手を見つめている。
女は、ふわふわの淡い金髪に、つぶらな藤色の瞳。童女と見まごうほど幼く愛らしい顔立ちをしていた。ちんまりと座る姿からもわかる通りかなり小柄で華奢だ。
まつ毛の一本すら職人が精魂込めて作った人形のような彼女はそわそわと落ち着きなく身じろぎをしている。視線もシーツの上を彷徨かせ、一度も目の前の人物に寄越さない。
ふたりは本日神の前で誓いを立て、夫婦になったばかりの新婚だ。そして、これから初夜を迎えようとしている。
しかし、寝室に漂うのは新婚らしい甘い雰囲気ではなく堅苦しい沈黙だった。
「私は……」
沈黙を破ったのは夫となった男の生真面目そうな声だった。流石に俯いていた妻なる女も顔を上げる。
「すまない。多分あなたを愛せない」
「知ってます」
意を決して告げた言葉に即答されて、夫はすぐに反応できなかった。
「知ってます。そのつもりで嫁ぎましたから」
先程から落ち着きのなかった妻は急にきりりと表情を引き締め、夫の不実を受け入れた。
予想外の決意に夫は固まる。
「ところで、まだ何かやらなければいけないことがあるのでしょうか?」
夫が硬直していることに気づかず、妻はそう質問した。
そして、チラチラと頭どころか上半身が埋まる贅沢なサイズの羽根枕を見ている。時折半目になるのは眠気を我慢しているようだ。
妻の先程からの落ち着きの無さは初夜に緊張している訳ではなく、寝ないように必死だったらしい。
今日は早朝からずっと予定がぴっちり詰まり、休憩できる時間もなかったから相当疲れているのだろう。
そのことに気づき、硬直から脱した夫は咄嗟に「何も」と言っていた。
「もう何もない。休んでくれて大丈夫だ」
「そうですか!」
その返答を聞くと妻はいそいそと布団に潜り込み、一方の夫は静かに寝台から降りた。
「旦那様? どこへ行かれるのですか?」
「いや、ソファーで寝ようかと……」
「何故? こんなに素敵な寝台があるのに。狭いソファーでは体を痛めます」
「私がいるとあなたはよく寝られないだろう」
「大丈夫です。わたし、とても寝つきがいいので。三秒あれば寝られます」
布団から顔だけ出して話す妻は目が閉じかけている。ぴくぴくと瞼を震わせ、気力で眠気に抗っているようだ。
夫は黙り込みしばらく妻の様子を観察した。もうほとんど夢の中に旅立っているから、そのままそっとしておけば眠るだろうと思ったのだ。
しかし、妻は強情であった。布団から出ないものの、夫が寝台に戻るまで決して寝ないとでも言うように糸目で彼を見つめ続ける。
ついに夫は根負けして、なるべく妻から離れた端っこに腰掛けた。
「おやすみなさい」
満足気な、眠気に蕩けた就寝の挨拶をした妻は次の瞬間には穏やかな寝息を立てる。
三秒どころではない。一秒だった。
夫は呆然とそんな妻を見つめる。
ほんのりと笑みを浮かべたさくらんぼのような唇。熟れ始めた桃のように薄く色づく頬。その表情は色めいた年頃の娘というより健やかな童女そのものでしかなかった。
女性と同衾など初めての夫はかなり居心地の悪い思いをしていたのだが、妻の姿にそんな気持ちも解れる。
まるで、妹のよう。
結婚するまで一度も顔を合わせなかったから、妻について何も知らない夫は彼女にそんな印象を抱いた。
これならばしばらくの間うまくやって行けるかもしれないと、夫は思う。
男女の愛は無理だが、優しくはできる。
見た目だけでなく心も幼そうな彼女となら、問題が解決しこの結婚が反故になるまで兄妹のように過ごせそうだ。
「いや、勝手に兄を自称したらアルノーに殺されるな」
ボソリと独り言を零して、隣の妻を起こさないよう慎重に身を横たえる。
「……おやすみ」
すでに深く眠る妻に声をかけ、恐る恐る頭を撫でると、眠っているはずの彼女はふんにゃりと笑った。
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