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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

赤いミサンガ

作者: タラの芽

少し長めかも知れませんが、お楽しみ頂けたら幸いです。


◇◆◇◆◇◆◇◆プロローグ◇◆◇◆◇◆◇◆


 目の前で発生した事故現場では、惨劇の舞台を過剰に演出する小道具の如く、強い雨がアスファルトを叩いていた。その音は、物語の終演に沸く歓声にも聴こえ、惨劇に戸惑うざわめきにも聴こえた。



 死の見届け人である私の目前には、車体がアスファルトを滑り大きく道を逸れ、運転席の右側から派手に電信柱へ衝突した大型トラックと、勢いよく転がるボーリング玉に当たったピンの如く飛ばされた少年の遺体があった。



 いや、まだアレを遺体と断定するのはよくない。しっかりと、男が死亡したのかを確認するまでが私達見届け人の仕事だ。安易に決めつけるのは職務怠慢ではないだろうか。




「大丈夫ですか!?」



 叫びながら、人間の姿をした私は真っ先に少年の元へ向かって走る。もちろん本心から言っているわけではなく、もしろ死んでいて欲しいと願っている。無事であってなるものか。




 周囲の人間は、大きな悲鳴を上げたり、思考が低下した猿のように猫背のまま唖然としながら立っていたり、怯えたように口を開閉させて座り込んだり、携帯のカメラを向けている人間も大勢いたりと反応は様々で面白い。



 顔半分の原型を留めていない血だらけの男の首筋に手を当て、脈を素早く確認する。念のために目一杯開かれた残っている片方の瞳を見つめる。ちゃんと脈はないし、瞳孔が開いて死の瞳をしている。



「きゅ、救急車を!!誰か!!早く!!」



 我ながら迫真の演技だったと思う。正直なところ、この男の死亡を確認した時点で見届け人としての仕事は終わりなので、そそくさと撤収しても問題はないのだが。しかし周囲の人間の行動力のなさについ呆れてしまったので、ここまでやっておいてやろうと思った。歪な日本という国で言うところのサービズ残業といったところか。



 数人が携帯を耳に当てて電話をしている。耳が良い流石の私でも、この雑音では救急車を手配しているか、それとも野次馬精神で知り合いにでも連絡しているのかはわからない。



 強い雨のおかげで、少年に付着している生々しい鮮血がどんどん洗い流されていく。皿に付着した洗剤の泡を、水で洗い流す光景と重ねながら今一度少年を観察してみた。



 配られた資料によると、この人間の名前は蓮見連(はすみれん)。年齢は確か30歳だったか。死とは無縁な我々は、年代や年齢を覚えるのが苦手なのでその辺りはどうしても曖昧になってしまう。一般的な勤め人で、周囲との人間関係は・・・・そのあたりもあまり目を通していなかったのでわからない。そもそも興味がない。



 強く体を打ったせいで、手足はバラバラな方向へと曲がっていて、腹部からは臓器が飛び出している。確かに、これはひどい。普通ならそう思うのだろうか。現に、人間に何人かはその場でなぜか嘔吐している。

 臓器なら、ホルモンという名称で多くの人間の好物として親しまれているはずなのだが、意味がわからない。



 職業柄、今の男の惨状は確実に死んでいるとひと目でわかるから、むしろこの姿を見るとホッとする。それは余計な仕事をしなくて済むという安心感からくるものだ。



 強いて好きな言葉を挙げるのでれば、「その場で死亡が確認されました」というニュースのテロップといったところか。あの報道を目にすると、その人間の担当が羨ましくて仕方ない。



 これでもし生存していた場合、私の手で少年をきちんと殺した後に、現場のその時の状況や証跡を時系列にまとめ、上司にあたる死神へと提出しなければならない。面倒で余計な仕事はまっぴら御免である。



 死体を確認し、一般人を装い救急車を呼ぶように呼びかけ、現場の始末まで済ませた。いい加減この場から立ち去ってもいいだろう。やるべき以上の事は済ませた。



 私は、今まで何事もなかったようにその場を離れた。死んだ男は、私に取っては道端で踏み潰された昆虫となんら価値は変わらない。



 不自然に立ち去る私を不審に思わないのか、誰も気にする素振りを見せない。いや、皆の意識はあの死体に釘付けなのか。



 歩きながら特に理由も無くふぅ、っと一度大きくため息を吐いた。雨は未だ止む気配は見せず、そういえば朝の天気予報では数日間は雨が続くという予報だったのを思い出す。



 私の仕事は、決められた人間の寿命を決められた通りに終わらせる事。実際に私が直接殺す訳ではないが、今回のように、少年が今日に交通事故で死ぬことは天命で決められている。それを覆すことはできない。



 だが、矛盾しているようだが、極々稀にその天命に抗い奇跡的に生還を果たそうとする人間がいる。強い生命力なのか運が良いのか、理由や仕組みは見届け人である私には知る由もない。



 しかし、結局死の天命は覆らない。何故なら、その為に私達がいるからだ。もし、奇跡的に生還を果たした人間を始末し、きちんを死を与える。それが私達の大事な仕事である。謂わば、死の派遣業者といったところか。



 だが、もし天命を逃れた人間が現れた場合は、原因究明として現場の時系列を記録し提出する。これが一番嫌いな仕事だ。そんな事、興味がないのでいちいち覚えていない。大抵は嘘をでっち上げて提出するが。



 あれは何十年か前に、拳銃で打たれて死ぬ予定だった人間が、当たりどころがよかったのか生き延びた事があった。生き延びたと言っても数分のことで、もちろん私がたまたま手にしていた拳銃で脳天を貫いて殺したが。



 その時は確か、足が滑って転倒した際に急所から弾が逸れたと、それっぽい内容で時系列を出した記憶がある。



 昔の事を思い出しながら事故現場から少し距離を歩いたところで、妙な視線を感じてふと後ろを振り向いた。



 遠くには当然だが未だに男の遺体が横たわっていた。そして想像よりも早く、丁度救急隊員が現場に駆けつけているところだった。



 私が注目したのは、電信柱に追突したトラックの方った。



 柔らかい豆腐を棒で叩いたように潰れた運転席のドア付近に、傘を差して立っている若い女性と目が合った。ああ、なるほど。同業者か。



 そこでようやく、私はトラック側の人間の事を思い出した。仕事の任務では、轢かれる少年の話しか聞かされておらず、トラックの運転手の生死については触れられなかったので、頭の片隅にも意識がなかった。



 同業者があそこにいるという事は、トラックの運転手も死んだんだろう。私達は与えられた仕事以外の人間の命はどうでも良いと思っている節がある。それは、不死だからだろうか。長い間生きているとどうも死に対して疎くなる。そもそも我々が生きていると言えるのかも怪しいが。




 早く職場へ戻り、とっとと報告書を提出して帰ろう。そして、暫くの休暇の後はまた同じように仕事が待っている。




◇◆◇◆◇◆◇本編◇◆◇◆◇◆◇◆



 色とりどりの4つのミサンガが、ある少女の手のひらに収まっている。その1つが、1人の少女に手渡された。



「私、赤色がいいのに」


「アンタは水色って決まってるでしょ」



 少女のぼやきに、もう1人の少女が笑う。


 4人にひとつずつ分配されたミサンガを、それぞれの片足首に巻いて彼女らは微笑んだ。



「絶対、この4人で全国に行こうね」



 その言葉は、少女らが立っている学校のグラウンド全体に浸透ような力強さがあった。他の少女が頷き、水色のミサンガを足に巻いた少女もまた、未来の目標を告げた少女の力強さに負けまいと、頷き返した。




◇◆


「壇上先生」


 無遠慮だが温厚そうな声が広い職員室に響いた。



 私は小さく「はい」と答えながら席を立ち、声の主を見る。その人物は、自席に座ったまま動こうとせず、こちらを見ているだけだった。これは私が向かわなければならないのか。



 手の届かない場所にあるリモコンを取りに行くような面倒で億劫な気持ちになりながら席を立つ。



 今回、私は産休をしている教員の穴埋め、つまりは臨時教員としてとある高校に「壇上」という名で潜伏していた。我々見届け人は、人間社会に紛れて死ぬ人間を監視する事があるのだ。



 声の主で学年主任である小太りした男の前に立つ。その時、強烈な香水の匂いが鼻をついた。




「これ、壇上先生が担当するクラスの名簿」と言いながら、飲食店で客にメニューを渡すような軽々しさで名簿を差し出す。「ありがとうございます」と言いながら受け取ると、名簿をその場で開いてある名前を探した。



 五十音順に並んだ名前を眺め、目的の名前を見た瞬間に視線がそこへ止まる。



 "もち 瑞希みずき"



 一週間後、私が死を見守る事になる少女の名前だ。



 熱心に名簿を見つめていると勘違いしたのか、小太りの男は「早く名前を覚えて、クラスの生徒に慣れて下さい」と期待を寄せてくる。



 「努力します。では失礼します」と告げ、私に用意された自席へ戻る。その時、隣にいた若い女性が小声で話しかけてきた。



「私、後藤です。後藤めぐみ。短い間かもしれませんが、席がお隣同士仲良くしてください」



「よろしくお願いします。後藤先生」



 言いながら、彼女のデスクを盗み見る。音楽関係の教科書が並んでいるので、音楽教師なのだろう。



「ここの高校、年配の先生が多いから、壇上先生のような若い力は貴重なんです」



 後藤先生に言われ、自分が顔立ちの良い若い男性の容姿をしている事を思い出す。大方、目の前の後藤先生も、私の容姿に色めき立っているのだろう。



 「皆さんの足を引っ張らないよう頑張ります」と自然な笑みを見せながら、早く会話が終わってくれないかと願う。



 それを察してかは知らないが、後藤先生が「何かわからないことがあったら、聞いてくださいね?」と、会話の締めくくりのように言ってきた。



 なのでつい、余計な事を口走る。


「人間はなぜ似合ってもいない香水をつけるんだ」


「あ、それ主任の前で言っちゃダメですよ」



 彼女は言うと、学年主任を窺った。その学年主任は、以前より利用しているパソコンの調子がイマイチだという理由により、職員室にやって来た2人の修理業者の対応に追われていた。業者の顔が少し引きつっている。もしかしたら、私と同様に学年主任の匂いに思うところがあるのかもしれない。


 彼女の口から私が求める回答は得られなかったが、「気をつけます」と言っておいた。



◇◆



「本日から泉先生が産休の間、クラスの担任としてお世話になる事になりました壇上です。みなさん、よろしくお願いします」




 私の担当するクラスの生徒がざわめいた。隣の席や前や後ろの生徒とヒソヒソと話しているが、それを全員でやるものだから思いの外騒がしい。まるで規律のない烏合のようだ。



 「先生!質問いいですかーー?」と、猿よりも活発そうな一人の生徒が言う。私が「いいですよ」と答えると、躊躇うことなく「今付き合ってる彼女はいますか?」と言うものだから、クラスの生徒が一斉に吹き出し笑いだした。もはや烏合が餌をもらうために鳴き出たようにしか見えない。



 「ご想像におまかせします」



 模範的な回答をして、質問を正面から受け流す。変にいないと答えると、関心を持たれ業務に支障をきたすかもしれない。もちろん、その業務とは臨時教員のことではなく、餅瑞希の死を見届けることだ。



 その後も、年齢や身長、出身や趣味など様々な質問をされた。事前に渡された資料に記載されている自身のプロフィールは暗記していたので、覚えていた内容を回答した。




 しかし、容姿が良いと、必要以上に異性に興味を持たれてしまう。それに、この高校は女子校なのでなおさら相性がよくない。今後に活かすために今度改善を要求してみよう。




 肝心の餅瑞希は、浮ついたクラスの中でひっそりと、どこか上の空で教室の窓から見える景色を眺めていた。



◇◆



 私が受け持つ歴史の授業や、帰りのHRも餅瑞希は窓の外を眺めていた。他の女子生徒とは問題なく接しているので、人間関係に悩んでいるとは思えなかった。悩みがあったところで、一週間後には死をもって無事解決するわけだが。



 着任初日を終え、仕事が終わる時間となった。仕事といっても、見届人としての仕事が終わったわけではないので、開放感はどこにもなく、暗澹とした気持ちになる。他の職員は部活の顧問だっり、残った雑務を片付けるために机と向き合っていた。



 帰るため職員室を出ようとしたら、丁度出入り口のドアで後藤先生と鉢合わせた。「お帰りですか?」と尋ねられたので、「はい。お疲れ様でした」と返す。



 早く帰りたいところだが、反して彼女はこの時間を繋ぎ止めるための鎖としての言葉を探しているようだった。小さく「あーー」と言葉を伸ばしながら間を保つ。



「壇上先生、もしよかったら、今度歓迎会、しません?」



 歓迎会...。


 それなら、今週の金曜に私の歓迎が行われる事は決まっているはずだが。


 不思議に思っていると、慌てるように「迷惑じゃなかったらで良いんです!私が個人的に誘っているだけなので」と追加してきた。



 そこでようやく、これは歓迎会という口実のもとの食事の誘いである事を理解した。人間は何かにつけて正当な理由を欲しがる。相手に解釈を任せる回りくどい誘い方をなぜするのか理解できない。



「そうですね。今はバタバタしているので、時間が空きそうな日があれば」


 面倒なのではっきり断ろうとした。だが、敢えて彼女へ解釈を丸投げするような、人間味溢れる返事をしてみる。


 私にとっては都合が良く、彼女にとっては悪いタイミングで他の教員がこちらへ近づいてきた。「では、お疲れ様でした」と言いながら、彼女は職員室へ入っていったので、私も学校を出た。


◇◆◇



 翌日、朝のHRも餅瑞希は外の窓を眺めていた。その光景はまるで彼女を主体とした一枚の絵にも見え、別世界から切り取られてこの世界に貼り付けられたような違和感を覚えた。それほど彼女の存在が特殊に感じられるのだ。本人は意識せずとも、死期が近い人間は総じて何かしらの雰囲気を漂わせる。我々が過敏なだけだ。



 放課後、私はグラウンドまで足を運んでいた。陸上部が短距離を走っている姿を、彼女が眺めているのを目撃したからだ。


「帰らないのか」


 餅瑞希の背中へ声をかけたと同時に、ハッとした。

 もっと若い教員らしく砕けた感じで話すべきだったか。

 しかし、餅瑞希は不審に思ったような態度はなく、「・・はい」とだけ囁いた。



 驚いた。滅多にこのような事は思わないのだが、彼女の声帯から奏でられるそれは、風鈴の音色の余韻に似ていた。つまりは、その声を綺麗だと思った。



「陸上部、気になるのか」


「・・・・」


 尋ねるが、返事は返ってこない。気にせず続ける。


「部活は入ってないのか」


「部活なら入部してます」



 そう言って彼女は、汗を流して走っている部員を指差す。


「陸上部です」


「じゃあ、なぜ一緒に走らないんだ」


 はぁ、とため息を吐いた後、呆れるように「そこは察してください」と言いながら、指の先を部員から自身の足へ移した。



「怪我です。脛骨の」


「つまりは、もう走れないのか」


「・・・走れますよ、走れます。」



 なにか聞き方を間違えたのか、餅瑞希は機嫌を損ねてそれ以降黙ってしまった。しかし、自身で「走れる」と言葉にしていたのに、自身の言葉によって機嫌を損ねている風にもみえる。


 人間の心というのはとても扱いにくい。黒い鉄球に指紋をつけないように素手で触れと言われても不可能なように、私も人間の心を理解するのは不可能かもしれない。



「聞いていいか」私は構わず尋ねた。


「何ですか」


「お前が足に巻いている紐はなんだ」



 彼女が自身の足を指さした時、その足に水色の紐が巻かれていた。目の良い私は、今なおグラウンドを駆けている少女らにも、色違いの紐が同じように巻かれているのがハッキリと見えた。



「先生、ミサンガ知らないんですか」


 珍しい生き物を発見した時の驚きの顔で、彼女が私を見た。



「みさんが」


 口にしてみても、みさんがという単語は過去の記憶からは出てこない。


「願いを込めて巻いたミサンガが自然に切れると、その願いが叶うってやつです」


「そんなもので願い事が叶うのか!?」


 驚きのあまり大きな声が出てしまう。しかし、彼女の言葉が本当であればとんでもない代物ではないか。もし「長生きしたい」という願いを込めた「みさんが」が切れたら、その願いが叶う。つまり、天命が覆ってしまう事になる。



 言葉を失いかけた私を尻目に、「験担ぎですよ。馬鹿なんですか」と、言葉を粗末に扱うように言った。


「そうか、そうか」


 安堵した私は、「みさんが、みさんが」と何度も口にする。新しい単語を覚える時の癖だと、以前同僚から指摘された事を後になって思い出す。



 しかし、未来への願いを込めた「みさんが」というのは、これから数日後に死ぬ人間にとって最も不要な代物ではないか。ふいに面白い言葉を思い出した。


 ″豚に真珠″


 正しい使い方なのかはよくらわからない。たが、身の丈に合っていないという点では間違いはないはずだ。


「ところで、どんな願い事をしたんだ」さして興味はないが、流れでは聞くべきではないかと察した。


「今は、足が早く治るようにって」


「今?過去があるのか」


「何なんですか先生、デリカシーないです」


 悪態をつきながらも餅瑞希は口を開いた。


「部活で4人リレーの種目があるんですけど、仲の良い4人でミサンガにお願いを込めたんです。みんなで全国に行けますようにって」



「それが過去の願いか」


「そうです。でも、私が足を痛めちゃって。そしたら、『アンタは足の怪我治るようにって願いに変更』なんて、玲奈れいなが決めちゃって」



 そう言いながら、彼女はガラスのショーケースの内側から憧れを眺めるような眼差しで、1人の少女を見つめた。


「あの子、赤いミサンガを巻いてるんですけど、その色選びが単純で」


「なんだ」


「私以外、名前に色の漢字が入ってるんです。赤間、青木、黒田ってな感じに」


 そこまで聞くと、流石の私でも人間の思考を推測する事ができた。


「つまり、その名前に合わせた色をした「みさんが」をそれぞれ巻いたわけだ」



「その通りです」


 そこで「おや?」と、せっかく選んだ道が行き止まりだったような焦燥感を感じた。


「確かお前の名前には色がないが」苗字は餅。名前にも瑞希と色はない。


「瑞希だから、みず。水色」


「白じゃないんだな」


「餅だからですか?」


「ああ」


「それ、玲奈にも言われました」


「そうか」



 苦笑ではあるが、私が間近でみた初めての彼女の笑みだった。


「私、赤色が好きなので、赤色が良いって言ったんですけど、玲奈が聞いてくれなくて」


 例の、赤色のミサンガを巻いた玲奈という少女が、私達に気づき手を振った。厳密には餅瑞希に、だが。


「私がスタートを走って、玲奈がアンカーでゴールをする予定だったんです」


「予定ではないんだろ?」



 それは、あり得ない未来を期待させる無責任な台詞だったが、事情を知る由も無い彼女は「そうでしたね」と、他人事のように言った。本当に、自身の怪我を治す意思があるのかが疑われるほどに、無頓着な声色だった。



「私だけ、ズルしたから足を痛めたんですかね」


 玲奈という少女へ手を振り返した餅瑞希は、誰に向けるわけでもない独り言のように呟いた。その言葉は、私の体をすり抜けて、やがて消え入ってしまう脆弱さを含んでいた。



「なんのズルだ」


「私だけ、ダジャレみたいな理由で、水色のミサンガを巻いたから」


「それは知らないな」


「壇上先生って、なんか冷たいですね」


「そうか?」



 私は一度言葉を区切り、イメージを挽回するべく「そのミサンガ、早く切れるといいな」礼儀的に述べた。彼女はただ小さく「はい」と答える。



 しばらく陸上部員が走っているのを二人で眺めていたが、そろそろ切り上げようと考えていた矢先だった。



 「・・・先生、車ですか?」と餅瑞希に聞かれた。「車?」と、主語のない言葉を理解できずにオウム返しをする。



「学校へは車で通ってるんですか」


 ああ、なるほど。であれば、主語を足して最初からそう言って欲しい。

 様々な手間を省きたがる人間全体の悪い癖だ。



「歩きだが」


 そう答えると、餅瑞希は「もう遅い時間なので、家まで送ってください。担任なんですよね」とまくしたてた。それに対して私は「別に構わない」とだけ返す。



◇◆



 彼女は私の少し前を歩いて、それにただ着いていくだけの時間が過ぎていく。人間社会に疎い私にも、今の状況がとても良いものだと言えないくらの知識はある。生徒と教師。この関係性は人間社会でも少し特殊ではないだろうか。



 昔読んだ人間同士が全裸で交わる本でも、大概が教師と女子生徒が主題だったような気がする。



 そんな事を考えていると、「ここでいいです。もう家も近いので」と、後ろを振り向きながら餅瑞希が言ってきた。



「そうか」


「ありがとうございました」


「ああ、気をつけて」




 小さく礼をして、彼女は再び歩きだす。

 しかし、気をつけて、か。どう気をつけたって、死ぬときは死ぬんだけどな、と声に出さず忠告した。



◇◆



 餅瑞希と接触してから5日目の金曜日。ここまでは異常なく、しっかりと生きている。天命より早く死なないよう監視するのもするのも我々の役目なのだ。


 彼女はいつも放課後にグラウンドにいた。何かから恐れるように、校内のグラウンドを逃げ場所としているかのようだ。



 それとも、怪我なく走っている部員を自身に見立てているのだろうか。そんな事をしても、怪我は早く治らないし寿命も伸びはしない。小さな種火のような残り僅かな時間を、ただ無駄に浪費しているだけなのに。



 私も放課後はグラウンドに向かい、当然のように餅瑞希と一緒に陸上部の練習姿を眺める。それがずっと前からの習慣であったかのように。ただ、別に練習風景に興味があるわけではないので、見ているフリをしているだけなのだが。



 暫く練習風景を眺めた後、決まって彼女は「家まで送ってください」とお願いしてきた。そして、私の少し先を歩いて、家の近くまで着いたら「ありがとうございました。もう大丈夫です」と言うのだ。



 私が家に送ることに何の意味があるのだろうと疑問を抱きながら監視をを続けたが、明日からは土日を挟む。なので、餅瑞希の支度の近くに用意されたアパートからずっと彼女を監視するつもりだ。当然二日間ずっとだ。月曜が天命なのに、不要に出歩かれては死なれては、私の仕事が増えるので困る。



「あっ」


 我ながら間抜けな声が口から洩れた。

 私はあることを思い出し時刻を確認する。18時23分。しまった。今日は私の歓迎会が19時から行われる日だった。場所は駅前の居酒屋で、今から迎えば十分間に合うだろう。



 餅瑞希の監視と天秤にかけたが、月曜に教員達に小言を言われるのも面倒なので、慌てて会場の居酒屋へ向かった。ほんの数時間なら目を話しても問題ないはずだ。



 しかし、死んでもらうために見守るというのは、なんとも奇妙な話である。見守るが死ぬ。死ぬが見守るという、二律背反を常に抱いている我々とは一体何なのだろうか。そんな事を考えながら、会場を目指した。



◇◆



 歓迎会の居酒屋の室内は、人間と人間の話し声が不協和音となり店内を充満していて、私にはとてもではないが耐え難い空間だった。ふと、田園が広がる夏の道でたくさんの蛙が合唱していた光景を思い出す。あれの方が何倍マシだ。



「壇上せんせ~い。すごい飲めるじゃないでれすかぁ」



 普段はあまり接点のない教員が、ビールを注ぎに私の側へ寄ってきた。呂律が回っていないので酔っているのは間違いないが、あいにく私はアルコールで酔うという感覚がわからない。


 酔っている彼は、職場では物静かで鷹揚にみえたが、酔いが回った今が彼の本当の姿なのだろうか。 


「田端さん、飲み過ぎです。それに、壇上さんにもあまりお酒を飲ませたらダメですよ!アルハラですアルハラ!」



 後藤先生がタバタと呼んだ彼を宥める。顔を赤くさせながら「後藤せんせい怖~い」と、彼は元の席へ戻った。



「田端さん、お酒が入るといつもこうなんです。学校の時はすごく大人しいのに」


「そうですか」



 言うこときかない子供に困った親のように笑いながら彼女は言う。私は、餅瑞希に酒を飲ませたらどうなるんだろうかと考えた。しかし、人間が決めた法律では、「未成年」は飲酒は禁じられている。私は年齢や年代には疎いので、「未成年」がいくつの歳を指すのかを毎回忘れてしまう。恐らく高校生は「未成年」だと思う。



「それにしても、壇上さん」


 思考を中断させられ「なんですか?」と答える。


「お酒に強いんですね?」


「強い?」酒と喧嘩したことは一度もない。


「そうですよ。さっきから相当の量を呑まれてるのに酔っていないですよね?」


「ああ・・今日はたまたま調子が良くて」



 以前覚えた言葉を使ってみる。


 後藤先生は「そうなんですか」と言いながら、血の色によく似た赤黒い液体を一気に煽った。その匂いは独特だった。


 彼女が小人だけに聞かせるような小さな声で、"これじゃ酔わせて抜け出せないじゃん"と呟いた。私は小人ではないが、耳はよく聞こえるので、当然彼女の呟きは筒抜けだ。



 どっちにしろ、私はまっすぐ家に返って餅瑞希を監視するので、彼女の希望は叶わったわけだが。彼女の様子を盗み見ると、店員にボトルを追加で注文する彼女の目の前には、先程の赤黒い酒の空瓶が二本並んでいた。


◇◆


 結局、二次会とやらまで参加されられ、予定よりも遅い帰宅を強いられていた。後藤先生も参加し、最後には呂律の回らなくなった彼女をタクシーに押し込んできたわけだが。



 活気が余熱のように燻っている夜間の駅前を歩いていると、向かいからスーツ姿の女性が歩いてきた。「あっ」私が口にする前に、彼女の方から片手を上げて「よっ、お疲れ」と親しげに声をかけてきた。それに私も応える。



「そっちはもう終わったのか?」


「いや、今週からだよ」


「奇遇だな。私も今週からだ」


 言うと、彼女は「へぇ」と偶然に対して間延びした声を漏らした。彼女も私と同じ「見届け人」だ。



「壇上はどんな人間を監視してるの?」


「女子高生だ」


「ああ、『若い子』でしょ?」


「そうなのか?」


「知らないけど」



 我々が仕事中に出くわした時に話す内容は、監視対象の人間についてが多い。世間話にしては、少々物騒な内容ではあるが。



「お前はどんな人間を観察してるんだ」


「トラックドライバーの男。今日は週末でしょ?彼が仕事終わりに居酒屋に向かったから、私も入店して監視してたの」



「そうか。私も同じような感じだ。お互い大変だな」


「少しお酒を飲みながらの監視だから、仕事って気がしなかったけどね」


「どうしてわざわざ酒を飲む」


「どうしてって」彼女の目が点になる。「居酒屋に入ったらそりゃ呑まなきゃ損でしょ。下戸ならまだしも」


 損だとか、ゲコだとか、よく理解ができないので、とりあえず話題を変えることにした。



「しかし、人間はいつの時代も酒を飲むと性格が変わるものなんだな」



 物静かな田端という人間が酒で乱れた時を思い出し、どちらかで言えば嘲笑に近い感覚で私は言う。対して、彼女は物知り気にこう返した。



「違うよ壇上。その人間の元々の性格なんだよ。それをお酒が暴くの」


「そうだもしたら、人間が普段何を考えて生きているなかなんて想像ができないな」


「そうだよ、人間なんて心の内で何を考えているなんてわからないんだから」



◇◆



 金曜日の歓迎会終了から日曜の朝まで餅瑞希の自宅を観察していたが、日中に一度だけ近くのコンビニへ出歩く以外に餅瑞希は外出しなかった。


 

 迎えた月曜日。そして、餅瑞希が死ぬ当日の朝。


 教員同士の朝礼後、あの小太りの学年主任が声をかけてきた。


「金曜はお疲れ様でした」


 金曜というのは歓迎会の事だろう。

 

「こちらこそ、お疲れ様でした」


「今日で一週間になりますが、生徒には慣れましたか?」


「はい。生徒には良くしてもらってます」


「そうですか。これからも宜しくお願いしますよ」



 随分と仕事熱心だなと感心しながらも、私の関心は学年主任の体から漂う香水の香りに寄せられていた。今日も臭い。



「それよりも、パソコンの調子はいかがですか」


 少し気がかりな事があり、私は調子が悪いというパソコンの具合を確認してみる。


「端末本体を交換してみたんだけど、やっぱり調子が悪くてなぁ。もしかしたらシンクライアント側が問題かもしれないんだ」


 唸りながら、学年主任が続け様に、「今日も業者の人に調子を見てもらんだけど、もしかして壇上さんこういう系に詳しい?」と尋ねてきた。



「すみません、私もあまり」


「んーそうか」



 確認したい事も終えたので、「早く直るといいですね」と告げて自席へと戻った。


◇◆



 淡々と教員としての仕事をこなしながら、その時を待つ。時間の流れの遅い早い、年月の長い短いの感覚がわからない私からすれば、放課後になるまでは一瞬に感じられた。


 餅瑞希が死亡するのは夕方過ぎと資料には記載があったので、下校中になにかしらの事件や事故に遭遇するのかもしれない。


 私は取り敢えず校内のグラウンドへ向かう。餅瑞希は相変わらず陸上部員の練習を眺めていた。もはや、グラウンドに化けてでてくる地縛霊だ。



 軽やかに体を揺らして走っている陸上部員は、まるで背中から羽を生やして飛んでいるようだった。天国という場所があるならば、餅瑞希ももうすぐ羽を生やして天国へ飛んでいく事になる。


 彼女の横へ立つと、顔は前を向きながらも横にいる私の存在を認める。


「先生って暇なんですか?」


 突如投げかけられた質問に対して私は、「今は忙しい。もうすぐで暇になる」と言った。


「この状況だと普通逆ですよ。今は暇でここにいるけど、直に忙しくなる、じゃないですか?」


「今も仕事中だ。生徒の悩みを聞くのも教員の仕事なんだ」



 そう言うと、彼女は一気に警戒心を強め、私を睨む。「つまりどういう事ですか」と言う。吠えて威嚇する犬を連想させた。


「お前に何か悩み事があるんじゃないかと思ってな」


「足の話ならもう言いましたよね」


「違う、もっと他に何かあるんじゃないか」



 最早教員らしからぬ言葉遣いであるが、いまさら取り繕ったところで意味なんてない。



「・・・誰かから聞いたんですか?」


「いや、誰からも。勘だな」



 彼女はしばし悩んだ後、なけなしの勇気を体の中から絞り出すように「実はストーカーされているかもしれないんです」と言う。その声色には、恐怖と怯えが確かに含まれていた。


「すとーかー?」


 言葉の意味がわからない。いや、何度か耳にした事のある単語だったが、あまり日常では利用しない言葉なので意味を忘れてしまった。


 その事に彼女は気づかず、私を置き去りにして話を進めていく。



「最初は確信がないので、気にしないようにしていたんですが・・・・・でもやっぱり、少し前から誰かに跡をつけられているような気がするんです」


 誰か。一瞬私の事かと思ったが、帰りは彼女を行動を共にしている。よって、跡をつけている事には該当しない。



「つまり、正体不明の誰かに尾行されて困っているってことか?」


「つまりはそうです」


「なるほど、すとーかー。すとーかー」



 反芻するように呟くと、彼女が慌てながら「あまり口にしないでください。誰かに聞かれるかもしれないじゃないですか」と遮ってきた。


「困っているなら、誰かに相談すれば良いだろう」


「あまり周囲には迷惑かけたくないんです。それに・・・できれば大事にしたくもないし」


 「そうか」と呟きながら思考をある程度巡らすと、彼女が私を自宅付近まで送らせる理由に合点がいった。その、ストーカーとやらから自分を守らせるために、私を盾として利用していたわけか。合理的だな、というのが率直な感想だった。



 しかし、人間の謎は深まった。好意を抱かれるのは人間にとっては光栄なことではなかったのか?好意、興味があるから尾行されるのだろう、きっと。


 尾行する方も、こそこそ隠れてないで話しかければ良いではないか。ますます、人間のことが理解できなくなった。



◇◆



 餅瑞希の悩みは、足の怪我により思うように走ることができないことよりも、ストーカー被害だった。



 授業中に虚ろな目で外を眺めていたのは、実はグラウンドではなく校外だったのかもしれない。ストーカーが隠れていないか不安で探していたのだろうか。言われてみれば、あの時の彼女は霧のように薄っすらとして弱々しさを漂わせていた。



 放課後にグラウンドで時間を潰してたのも、一人でいるのが怖かったからに違いない。いつどこで、誰か見ているかわからない環境の中で、グラウンドは云わば身を隠す森のようなものだったのだろう。



 そんな不安と恐怖の泥濘に足を浸からせている時に私が現れたものだから、藁をもすがる思いで私を自宅まで送るようにお願いしたのだ。



 "全ての行動には意味がある"


 昔に見届けた人間が好んでよく言っていた言葉を思い出す。

 私はもう直に死ぬ人間の行動に一体何の意味があるのだと、いつも言いかけては思いとどまって耐えていたのをよく覚えている。


 その人間は、国を変えると豪語し、野心家で行動的で大層な理想を語っていたが、結局飛行機事故に巻き込まれてあっけなく死んだ。


 焼けた彼の遺体を見ながら、「お前の行動に意味はあったのか」と呆れながら問いかけたみた。当然、その者からの答えを聞くことは叶わない。



 つまり、彼女も「すとーかー」とやらで悩んでも意味なんてまるでないのだ。結局は目前の死を以て全から救われるのだから。人間はなぜか、その事に気づくことができないのが不思議でならない。



「という事で、先生。今日も自宅までお願いします」



 空の明るさが薄れる夕暮れ前、変わらぬ調子で餅瑞希が言う。しかし、「今日はこれから職員会議があるんだ」と断った。


 彼女も、いつまでも私が暇ではないと理解しているのだろうか、それとも死の前兆を悟ったのか、聞き分け良く「わかりました」と返事をして「さようなら」と言いながら学校を出た。



 身の危険を感じながらも、勇気を奮わせて1人で帰宅する決断を下す偉業を成し遂げた彼女に敬意を表し、「さようなら」と、心から願った。



◇◆


 職員会議は急遽別件が入ったという、香水臭い学年主任不在のまま開始された。会議といっても、報告会にようなものだったが。


 特に発言することもない私は、聞く素振りをして会議を終わらせると、定時よりも時間が過ぎていた。


 そろそろ頃合いだろう。私は「お疲れ様でした」と挨拶をし、職員室を出た。この挨拶に最後の別れの意味が込められているなんて、誰も思わないだろう。



 学校の校門を出てからは、まるで導かれているかのように足が動いた。いつもの、見えない死に引き寄せられるような感覚を頼りに進む。夕日が沈み暗くなった外を見上げながらも私の歩みは止まらない。



 訪れたのは、人気のない建設中のビルの中だった。当たり前のように立ち入り禁止のゲートを無視して中へ入る。


 ところどころ剥き出しの鉄筋や、足場やボードなどの資材が積まれた環境のをどんどん進んでいく。



 すると、遠くのようですすり泣く声が耳へ届いた。


 声の方向へ向かってみると、案の定餅瑞希がいた。彼女は上から落ちてきたであろう足場や鉄骨資材等の下敷きとなっていた。床からむき出しの鉄筋の何本かが体を貫いている。



 よく見ると少し大きな鉄骨が彼女に両足を潰しているのがわかった。これではどの道まともに歩くこともできず、陸上部へ戻る事はできなかっただろう。仕事である生存確認をするために、彼女を覆っている資材をどかしていく。



「おい、ミサンガが赤くなったぞ」



 出血が染料の代わりとなり、水色のミサンガを赤黒く染め上げていた。精密に編まれたミサンガは、未だに切れることなく彼女の足にベットリと巻き付いている。



 意識がないのか、目を閉じたまま痙攣をしている。即死ではないが思ったよりも外傷が酷く、特に頭部になにかの資材がまともに当たったのか、出血が止まらない。



「たす・・けて」


 私でなければ聞き逃す程の、ロウソクに灯った小さな火のような弱々しく小さな声が聞こえた。彼女の意識が戻ったようだ。


「酷い声だな」


 風鈴の余韻に似た美しい声は、今では砂利を踏み潰した時のような聞くに耐えない声となってしまっていた。


 彼女からの返事がない。だか、小刻みに揺れる胸部は生存をしている証で、もし他の誰かが彼女を発見し病院へ搬送されたりしたら、それが本当に救いとなるのかはわからないが、もしかしたら彼女の命は助かるかもしれない。



 理由はわからないが、彼女が天命に抗いこのまま生き延びるような気がした。仕方ない、余計な仕事が増えるが私が手を下すしかない。


「申し訳ないが、そろそろ死んでくれないか」


 近くに落ちていた長めの鉄骨を持ち上げ彼女を前へと立つと、掠れた声で彼女がまた声をだした。もう、あの鈴のような声ではない事に落胆しながら耳を傾ける。



「・・・どう・・て」


「どうて・・・童貞?」



 人間は最後の言葉に童貞と言うのか。そう怪訝に思っていたが、「どうして」と言いたかったのだと理解した。



「仕事なんだ」


 そう言いながら、彼女の後頭部へめがけて鉄骨を振り下ろす。パン、と空気が入ったバスケットボールが破裂するような音がした。医師の確認の必要がない程度に、餅瑞希だったそれは損傷が激しかった。

 



 ここまでに至った経緯。あくまでも推測ではあるが、餅瑞希が一人で下校する事を知ったストーカー犯は彼女を尾行した。だが、とうとう彼女は自分が尾行されてると確信し、慌ててこの建設中の工事現場へと逃げた。



 追いかけてくる犯人に焦りを感じ、思わずまだ完成していない2Fへ足を踏み入れ、資材と共に落下。落下の衝撃と上から降ってくる資材の下敷きとなった。こんなところだろうか。


 餅瑞希の死をしっかり確認し、現場から立ち去ろうとした時に、私は自分の間抜けさに顔をしかめた。



 後藤先生が両手で口を覆いながら立っていた。現場を目撃された。後藤先生には私が餅瑞希を殺害したように映っただろう。私を見つけて跡をつけてきたか。この場合は「すとーかー」と言えるのかと尋ねようにも餅瑞希は死んでしまった。



 私の意思で殺したわけではないと説明して理解を得られそうもないので、今ここで起こった出来事の記憶を消去してもらうようこちらの者へ依頼をしなければ。



 後藤先生をひとまず眠らせるため、彼女に触れようと近づく。「いや・・先生」と震えながら、後退りをしたが、床に落ちていた資材に躓いてそのまま尻もちをついた。


 どうせ彼女の記憶は消去されるのだから、嘘をつく必要もないか。


「すまないが、少しの間眠ってもらう。それと、餅瑞希を殺したのは私ではなく天命だ」


 後藤先生からすれば、私の発言は立派な異常者そのものだろう。それこそ、私が悪魔か死神のように見えてるかもしれない。


 彼女の頭部へゆっくり手を伸ばす途中で、伝え忘れた事があったのを思い出す。



「それともうひとつ。人の尾行する時は、香水をつけない方がよいと学年主任に伝えてくれるか?今も現場に匂いが残っている」



 餅瑞希の周辺からは、嗅いだ事のある香水の匂いが時々漂っていたのだ。鼻の聞く私にははっきりとわかった。


 言い終えた後に、この言葉もどうせ無駄になると気づいた。

 後藤先生の頭部に手を置く。彼女はゆっくりと目を瞑りながら意識を手放した。後藤先生の記憶がなくなるという事は、学年主任への忠告も一緒に記憶として消されてしまう。それに、学年主任はおそらく・・・


◇◆



 現場から離れるために歩いている時だった。


「よぉ!」



 破裂するような快活な声とともに横から肩を叩かれた。振り返ると、作業服を着た2人の男が立っていた。2人とも、学校で学年主任のパソコンを取り替える際に職員室に訪問していたパソコンの修理業者達だった。



「お前も終わったのか」



 私が聞くと、男は「無事死んだよ」と言葉の意味とは裏腹に笑った。私と違い、彼は感情豊かな見届け人、つまりは私の同業者だ。


 彼らと道で出くわすのは偶然ではない。「全ての行動には意味がある」だったか。全てに意味はないが、一定の行動にはきちんと意味はある、それは私達見届人の行動だ。



「辛かったぜ、変な匂いがして臭かったんだ」


「学年主任だろ?」


「誰だそれ?石塚って奴だよ」


「あぁ」


 それは、学年主任の名前だった。


「死因は?」


「刺殺だった」


「殺されたのか」


「相手から相当恨まれてたみたいでよ、何度も刺されて出血性ショックでご臨終だ」



「それはまた・・」


 なんとも、奇妙な話であった。


「刺した相手は逃げたのか」


 私が言うと、今まで話しを聞いていたもう片方の修理業者が「そいつも死んだよ」と、話の説明を補った。もちろん彼も見届け人だ。



「田端って奴だ。石塚を指して逃走中に、トラックに轢かれた」


「あぁ、酒に弱い人間か」


 田端は歓迎会で私に絡んできた教員だ。職場では普段は大人しく、周囲から外壁を作り、1人の世界で黙々と仕事をこなしている印象だったため、彼が人を殺めたと聞かされても信じがたい。



「人間ってのはやはり滅茶苦茶だな」


「そういうところが観察してて飽きないけどね、俺は」


 作業服姿のままの男がくつくつと喉を鳴らして笑った。


「天網恢恢疎にして漏らさずって言葉知ってっか?」


 私は首を横に振った。


「悪いことをしているといつか自分にも悪いことが返ってくるぞって意味らしい」


「それでは田端を轢いた人間はどうなるんだ。今回の被害者は天命に一方的に巻き込まれた運転手になるだろ」



 田端を轢き、これから罪を背負いながら生きていく不幸な人間に、多少の同情をしてみる。しかし、それも杞憂に終わる事となる。



「そいつも運転していたトラックが横転して死んだよ」


 女性の声がした。週末に行われた歓迎会の帰りに出くわした見届け人だった。カツカツと、ヒールの音を響かせながら彼女は「お疲れ」と手を上げた。


「それにしても奇遇だね、揃いも揃って。アンタ達も今日だったんだ」彼女は目を丸くして言った。


「安田聞いてくれよ」


 作業員の男が、安田と呼んだ彼女に事の顛末を説明しだした。他の者から聞くと、改めてよく出来た偶然だと思った。耳を傾けている彼女も、驚き、可笑しそうに「へぇ」と相槌を打っている。




 途中まで聞いていた彼女だが、唐突に「ねぇ」と声を大きく張った。人間らしい仕草で両手を叩きながら「せっかくだし、この後皆んなで飲みに行かない?話はその時に聞きたいんだけど」と提案した。


◇◆


 またこのような騒々しい場に連れて来られるとは思いもしなかった。

 仕事帰りの人間共が肩を寄せ合い、広くもない店内で酒を呷る意味がわからない。



 居酒屋の提案に一番最初に反応したのは私だ。なぜ、酔いもしない酒をわざわざ飲みに行かなくてはならないのだ、と反対をする。

 反して、作業員の男2人は「良いねぇ!」だの「賛成」と盛り上がっていた。まさしく、仕事終わりの人間のようで違和感を覚えた。



 人間の身体をしているが、その実我々は人間ではないため、飲食や休息は本来不要である。しかし、見届人の連中は飲食や睡眠を娯楽として楽しむ輩もおり、噂だと人間とSEXを楽しなむ輩もいるらしい。



 テーブルに並べられた飲食物の違いがわからず、とりあえず乾杯としてグラスを打ち付けた。皆思い思いに箸を伸ばし始め、その目は輝きに満ちていた。



「食事も飲酒も不要なのにどうしてこんな真似をするんだ。大体、我々は酒に酔わないだろ」


 抗議すると、作業員3人と安田は呆気にとられた表情で私を見た。


 安田が言った。


「いやいや、普通に酔うし吐くわよ」


「えっ?」


「あー、それあれだ」作業員の1人が「ザルってやつだ」と告げた。


 どうやら、アルコールに強い人間を比喩する言葉らしい。

 そうか、では後藤先生もザルだったのだろうか。


 ひとしきり飲食物を片付け、店で一番度数の高いアルコールを大量に飲むと、確かに少しだけフワリと身体が軽くなるような気がした。これが酔う、なのか。


 心地よくなった感覚のまま今回の事の顛末を整理してみる。



 まず、学年主任にストーカーされた餅瑞希が死んで、それからストーカーをしていた学年主任が田端に殺されて、田端も事故で死んで、事故を起こした運転手も死んだ、ということになる。


 死のバーゲンセールだな。


 今回も我々の仕事が終わりを迎えたわけだが、奇しくもこの場には見届人が4人いた。これは、餅瑞希が出場するはずのリレーの人数と同じであった。つまり、我々は走るのではなく、「死」というバトンを繋いでゴールへと辿り着いたのだ。



 思わぬ因果に心底可笑しくなった私は、堪える事ができずに同僚に尋ねた。


「お前達、『みさんが』って道具を知ってるか?」


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