謎の女
ミジェールと出会って季節が1つ変わろうとしていたころのことである。
朝晩は良く冷え、軒先につららが垂れ下がっていることもある。
そんな季節であるから、アッシュらは3人で縮こまって暖をとって寝ている。
アッシュはいつものように、金持ちの家の糞尿を荷台に入れ、郊外に運んでいた。
いつものようにヴァンと会話を楽しみ、そしてクソガキに嫌がらせを受けている毎日である。
アッシュは郊外まで糞尿を運ぶと、それを穴に捨てた。
穴の大きさは人が一人横たわってもふさげない大きさで、深さは誰も知らなかった。
穴ができてから250年間の間こうして糞尿を毎日捨ててもそこが見えないということは信じられないほど深いのだろうということだけが分かるのみである。
そうして糞尿を捨てると瓶を川で洗い、帰路に立つ。
荷台は軽くなるので、帰りは楽である。
しばらく荷台を引いていると、同僚が目に見える。
同僚らの会話は酒、たばこ、女ばかりで、アッシュにとって面白みのない内容であった。
アッシュはそれらに嫌悪感があって楽しめなかったし、そんなものに無駄に金を使いたくなかった。
娯楽であればむしろ、そんな同僚を馬鹿にして(とはいっても大差ないのだが)優越感に浸ることが最高の娯楽であった。
だから同僚とは折り合いが悪い。
アッシュはうつむいて、やり過ごそうとする。
相手もそんな態度を取るアッシュに話しかけやしない。
お互いに無視しあう。
瓶を管理人に受け渡し、給与を得ると、仕事から解放される。
日はもう落ちてしまっていた。
アッシュはそそくさと教会に続く道を歩く。
「おい!早く運べ!」
歩いていると、どこからかそのような野太い声が聞こえてくる。
おそらく騎士たちだろう。
最近騎士たちが忙しなく食料やほし草を城壁の内側に運び入れているのを見る。
「やっぱり、戦争があるのかしら。怖いわね」
「貴方なんていいじゃない。うちは息子が成人したばっかりに、徴兵されるかもしれないのよ」
と、立ち話をしている、比較的裕福な夫人の声が聞こえてくる。
しばらく、また歩くと酒に酔ったおじさんが、こんな冬に戦争するわけがないと、議論している。
真偽は分からないが、もし戦争があれば国は志願兵を求めるかもしれない。
そうなれば、アッシュは志願しようと思っていた。
なんて言ったって1日3食寝床付きという好待遇で文字の読み書きを習うこともできるそうなのだから。
それにアッシュはレント国一の力持ちである(4人しかいないが)自分にとって成り上がるには、最も蓋然性が高いように感じられたのだ。
ようやく、教会近くまで歩いてこれたころには、空は完全に夜であった。
しかし、その日は月が大きく、幾分か見通しの良い夜であった。
それゆえ、少し遠くに身なりの良い女性を見つけることができた。
銀色に輝く髪が月光を反射し、身に着けている衣服は確かに自分らのような粗末なものであったが、よれがなく、新品の衣服であることが分かった。
おそらく下級貴族あるいは商家の娘というところだろうか。
女性はその足でスラムの中でもさらに治安の悪い道へ入ろうとしていた。
アッシュはその女性の手を掴み大路へ引き戻す。
「おい、そっちは治安が悪いんだ。迂回したほうが良い」
アッシュはそう言って手を放し、向き合うとまだ顔にはまだ幼さを残しているが、とても美しい女である。
「ええ、分かっているわ」
女はそう言ってもう一度足をスラム街に向けようとする。
アッシュはもう一度自分のほうに引き戻す。
「何の用があってここに行くんだ」
アッシュは少し語気を強めて言った。
「あなたには関係ないでしょう」
女がめんどくさそうに言うとアッシュは怒りを覚えた。
別に、この女がスラム街でどんな思いをしようと構わないし、女が自分の言うことを聞いてくれないことに腹を立てているわけではない。
ただ、それはそこに暮らす人々を刺激することは間違いないことである。
女が乱暴を受け、事件となればここに住む皆が地位のある人間らにリンチされるかもしれないのだ。
それを分かっていないのだろうか、いや分からないのだろうな、そこに住んだことがない人間は。
「関係ある。お前が死のうがどうでもいいが、それを理由に俺たち全員がリンチされるかもしれないんだからな!……もし本当に大事な用事があるなら今じゃなくてもいいだろう。日の出ている時なら比較的安全なんだから」
女は一瞬ムスッとしたように見えたが顔色を変えるのは上流階級の必須技能であるからすぐに穏やかな顔になると、手を懐に入れ銅貨を30枚アッシュに差し出した。
「なら、これで貴方を雇うから案内しなさい。それでいいでしょう」
女はめんどくさそうに言う。
厄介払いの金ということか。
金は欲しいが、しかし正当な金以外を受け取るほど、自分は腐っていない。
それに金さえあれば何でもできると思っているようでさらにムカついた。
「お金の問題じゃない」
アッシュはそれを女に返しながら言った。
そうすると女は目を空のほうで左右に振る。
「ならどうすればいいのかしら」
そう言ってため息をついた。
「昼来れない理由でもあるのか?」
「ええ、まぁ、そうね。親が許してくれないのよ。だから抜け出してきたの」
「なんでそんな危ないことをするんだ。親の言う通り家にいればいいじゃないか!」
「そうね、あなたがもし命より大事なものがなくなりそうなときじっとしていられるかしら」
上流階級の奴らはヴァンのように言葉を弄すのがお好きなのだろうか?
「命より大事なものなんてないだろう」
そういうと女は心底嫌そうな顔をした。
「あーじゃぁ、一番大事なものでいいわ。問題はそこじゃないのだから」
「できないだろうけれど」
「そういうことよ、心配してくれたのはうれしいけれど、私は行かなければならないのよ」
「お前を心配したわけじゃない」
「はいはい」
そう言って女はアッシュの頭をポンポンと叩いた。
まるで子供をあやすみたいに扱われていることに腹立たしく感じたアッシュはその手を払いのける。
「……せめて服装をどうにかしてくれ、それじゃぁ綺麗すぎる。そんな長く綺麗な髪をしてるとすぐターゲットにされるぞ」
「ならあなたの服と私のを交換しましょう。髪は」
そう言って女は懐からナイフを取り出し後ろ髪をバッサリと切り落とした。
「勿体ない」
「それだけの覚悟があるの」
アッシュはしばらく黙っていたが「分かった」呟き、服を交換した。
「後ろ向いてなさいよ」
女は服を脱ぎながら言った。
「俺は胸のない女に興奮しないんだ」
「あっそ」
アッシュは女と服を交換する。
「じゃぁ私行くから」
女は薄暗い道を歩いて行った。
手に残ったのは銀色の美しい髪の毛と新品でいい匂いの服。
「商売したと思えば悪くないな」
アッシュは自分が言いくるめられたことを正当化しようと呟き、教会に向かった。