いつもの日常
教会の軒下でアッシュは目を覚ました。
何日も洗っていない服を着て、手は石のように固くなっている。
それがアッシュの地位を物語っていた。
左を見るとレントがよだれと鼻水をを流し面白い顔で寝ていた。
この頃は寒くないように二人で身を寄せて寝ているのだ。
まだ太陽は空に登場する前で、体力を回復するための時間が短くなるのは仕事に悪影響をもたらすなぁ、などと思い、二度寝をしようとするのだが、寝れない。
アッシュは仕方がないので起きていることにした。
しかしやることが無いと、ものすごくストレスになるものである。
それゆえ、何となくアッシュは隣で寝ているレントにちょっかいを出してみることにする。
アッシュはレントの小鼻をつき、鼻の穴に鼻水の膜をはる。
するとそこには大きな鼻提灯ができ、大きくなったり小さくなったりする。
「きたねぇな」
アッシュはクスクスと笑う。
しかし、よくこんなことをされて起きないものである。
しばらく鼻提灯が大きくなったり、小さくなったりするのを眺めていると、レントは突然くしゃみをした。
アッシュは当然手でそれを避けたのだが、多量の鼻水がかかった。
「こいつ、俺が寝れねぇのにぐっすり安眠しているうえに、鼻水をかけるとは」
アッシュは独り言をつぶやくと、仕返しをしてやろうと決める。
さてどうしてやろうか。
しばらくアッシュは考え込むと、手にある鼻水をレントの両方の瞼に塗りたくる。
レントが全く起きないので、瞼にはてかてかに光るほど厚く鼻水のパックができていた。
やりすぎたか?とも思ったが、しかしまぁこれくらいなら許してくれるだろう。
噛み殺したような笑いが自分からこぼれることに気が付く。
笑いが収まるまで笑うと、満足したおかげであろうかもう一度眠気が沸きがってくれた。
アッシュは心の中でありがとうレント、俺の笑いものになってくれて、と半ば馬鹿にしてもうひと眠りを得た。
次に目が覚めたのは、隣の人間が、もそもそとのたうち回っているからである。
なんだ、せっかく気持ちよく眠れていたのに、と思いながら目を覚ますと、そこには「目が見えねぇ」と呟いて焦っているレントの姿があった。
「どうした?」
「目が見えない!」
レントは相当焦っているようである。
アッシュが悪乗りして「お前……目が……」と言ってみる。
「目が!何!俺の目どうなってるの!」
「俺からはとても、言えねぇ……」
「やめてよ!、ねぇ本当にさぁ!」
「だ、大丈夫だ。俺は目が見えなくても生きていけたんだから」
「それはお前が特殊だからだろ!なぁ!俺、死ぬんじゃねぇよな……。母さんの時みたいに……」
レントは急に弱気になってしまう。
アッシュはやりすぎたと反省し、「大丈夫、俺が直してやる」と言って落ち着かせる。
「本当に大丈夫なのか?」
「ああ、俺を信じてくれ。昔言っただろ。俺はお前を絶対に裏切らないって」
「ああ、そうだったな頼む」
アッシュはその言葉を聞き、瞼についている鼻水を両方ともベリィっと剥がす。
「いって、あ、でも前が見える。なんだったんだ?一体?」
アッシュは手にあるものをレントに見せる。
「なんだ、これ?」
「鼻水」
「は?」
「俺が先に起きたとき、お前が鼻水垂らして寝てたから、それを瞼に塗ったんだよ、ごめんな」
「え、何それは?意味わからねぇし、ってあー!めちゃくちゃまつげ取れてるじゃん!」
そう言われてアッシュははぎ取ったものを裏返すと確かにレントのまつげと同じ金色の毛がたくさんついていることが分かる。
「ごめんごめん」
アッシュが笑って謝るとレントはハァァァァと大きなため息を漏らす。
「いいじゃん、別にまつげぐらい」
「良くない!それを決めるのはお前じゃないし!俺がお前に唯一勝っている顔のパーツだったのに!」
「うるさいなぁ、そんなことどうだっていいだろ。さっさと井戸の水で顔洗って仕事行かなくちゃ」
アッシュは立ち上がり、軒下を借りている教会の井戸に向かおうとする。
「てい!」
レントはそう言ってアッシュに足をかける。
「残念ー俺の脚力なら全然効きませんでしたー」
「クッソー、今は時間無いからもうしねぇけど、仕事から帰ってきたら目にもの見せてやるからな!」
レントはそう言ってアッシュの後ろについて井戸に向かった。
アッシュはレントと別れ自らの職場に向かう。
学のないアッシュにできる仕事など当然、肉体労働しかない。
アッシュの仕事は、その中で最もつらい仕事と言われている貴族の糞尿を含めたゴミを運ぶ仕事である。
貴族は都市の中央に位置する場所に住んでおり、そこを囲うように高い城壁が築かれている。
アッシュはまず職場の管理人のところへ赴き、自分が来ていることを証明し、中に空っぽの瓶が積まれた一人用の荷車と城壁の中にはいるための通行書を受け取る。
そののち、通行書を衛兵に手渡し関所を抜けた。
そこでは、子供ですら身なりの良い服を着ていて、自分がいかに場違いなのかを分からせてくれる。
アッシュはその中の大通りではなく、身なりの低い自分ら糞運びようの小汚く、狭い通路を利用する。
その通路は家の裏戸につ通じている。
アッシュがしばらく、貴族の家内奴隷たちから瓶を受け取り、新たな瓶を手渡す。
それを続けていると、上から液体が降ってくる。
「またか」
そうつぶやき上を見るとそこには数人の貴族の子供が顔をのぞかせている。
降ってきたのはつばである。
「やーい、悪臭男<あくしゅうおとこ>きたねぇからとっとと消えろ。バーカ!」
そう言って、ゲラゲラと品なく笑っている。
お前らがつばをかけなきゃとっくの昔にいなくなってんだよ、クソガキ!と内心憤りながらもそそくさと急いで抜ける。
貴族は魔法が使えるため、逆らうことなどできやしないのである。
しかし、まぁ貴族というのは悪いやつばかりではない。
もう少し道を進むと、そこに、身なりの良い自分と同い年ほどの男が立っている。
「よぉ。アッシュお久」
その男はアッシュを見ても嫌な顔一つせず向かい入れてくれる。
男の名前はドラゴ・ヴァン。貴族らしくファミリーネームを持っている。
「よぉ、ヴァン、昨日ぶり」
「ははは、そうだな。昨日の話。考えてきてくれたか?」
「ああ、まぁな」
「じゃぁ聞かせてくれ」
昨日の問題というのは、こういうことである。
ある船があるとして、その船の部品を一つ変えてもそれは同じ船である。
しかしそれを何度も繰り返し、すべて入れ替わったとしたらそれは同じ船と言えるのか、という問題である。
ヴァンは度々いろんな人間にこういう話をするらしく、自分にもよく瓶を受け取る際に話しかけてくる。
そして、返答が面白ければ自分に文字を教えてもくれるのである。
おかげで、頭の体操とともに、自分の名前くらいであればかけるようになった。
「ようはさ、名前を何につけてるかということなんだよ」
「ほう、どういうことだ?」
「その話では、名前を付けた船が前提に出てくるけど、それを付けた人間はさ、なんていうか、こう、船に名前を付けたわけではなく、船によってもたらされる利益に名前を付けているわけじゃないかと思うんだ。例えば、もちろん船で魚を取る人なら、船と魚を取ることが対応付けられているわけじゃないか」
「うん?すまん分からんわ。だったらすべての船に同じ名前を付けるってことか?」
「それが船って言葉だろ。船によってもたらされる利益の一般的なものが船に対応してるんだけど。その個別の名前は、それとは独立した利益の集まりにつながっているんだ。例えば船で一緒に漁をした仲間との思い出を思い起こさせてくれる、等々の利益に結び付いてるというわけだ。つまり、船というのは物質なんだけどさ、一つにつながって利益を保持している状態に名前を付けてるわけだから、その利益がなくなれば、当然名前も喪失する。逆に、利益が物質が入れ替わっても継続していれば、それは同じ名前を冠するんじゃないかな?どう?」
「あー、結構おもしろい観点だな、じゃあさ、取り替えた船の部品を集めておいて、それをひとつにした船を作った時2つはどういう関係にあるのかな?」
「お前、後出しはずるいだろ。それは……今日考えるよ」
「おお、いいぞ。面白い答えだった」
ヴァンはそう言って懐から文字が書かれた紙を手渡す。
ヴァンが物語を紙に移したものである。
字自体は全部覚えたアッシュに次ぎ段階である、文字を音にして、それを読むという段階に入った。
そのための童話を書き写してくれたものである。
「ありがとな。いつも」
「んや、構わねぇよ、別に。俺も楽しんでるしな」
「おう、んじゃそろそろ行かねぇと、回収間に合わねぇし行くわ」
「お、そうか。じゃぁな」
そう言って2人は別れた。
それからは何とか平和に仕事を行うことができた。
労働が月の出とともに終わると、つらいため、ほかの肉体労働者より幾分か多い(と言っても雀の涙であるが)(10B)金を得て教会の軒先に戻った。
アッシュは自分より早く戻っていたレントとレントと談笑する緑髪の幼い少年が、軒下で座っているのを見つけた。
「誰だ?」
アッシュは駆け足でそこに近づきレントに尋ねながら少年を見た。
「ああ、新入りなんだ」
レントがそういうと少年が口を開いた。
「親がここに行けば仕事があるって聞いて……」
農村の次男三男というところであろうか?
養えなくなり追い出されたのだろう。
だがまぁ、奴隷として他国に売り飛ばすとかまではしてないあたり良心的か。
「そうか、大変だったな」
アッシュはその少年に声をかけ、頭を撫でる。
「まぁ、はい。ありがとうございます」
アッシュは少年の隣に座った。
「名前はなんていうんだ?」
「ミジェールって言います」
「そうか俺はアッシュっていうんだ」
初対面の人間に話すことがないアッシュはそこで会話が止まってしまった。
自分が来る前二人は何を話していたのだろうか。
「二人は何を話していたんだ?」
「えーっと、レント王国の話をしてたんだよ」
「あー、あれな。お前の妄想の国な」
アッシュはそう言って笑う。
笑えるだけお互い心の傷が癒えたということであろう。
「何だと!ミジェールも今日レント王国の国民になったというのに!最高軍司令官のお前がそれを言うか!」
「はぁ、こいつの馬鹿に付き合う必要はないんだぞ」
レントに言われて恥ずかしくなり、アッシュはミジェール振り向き言った。
「いえ、面白そうですし、いいかなって」
「そうか」
確かに面白いけどな、と内心つぶやく。
「ほら見ろ。というかいつもお前もノリノリで俺のことを王様と呼んでたくせに」
「ガキの頃の話だろ。今俺はどうやって本当に成り上がるかのほうが関心があるんですー」
「そんなの簡単だぜ、俺が国王になって、お前を指名するだけだ!」
「じゃぁ早く国王になってくれよ」
アッシュは苦笑する。
ミジェールは二人のやり取りを聞きながらくすくすと笑った。
「ミジェールは何か得意な事あるのか?」
レントがミジェールが楽しんでいる様子気が付きに声をかける。
「え、手先が器用だって言われたことはあります」
「ふーん、じゃあ工場長だな」
「工場長ってなんかださいだろ」
アッシュが答える。
「えー、じゃぁかっこいいのお前も考えろよ」
「あー、じゃぁ生産大臣とか」
「フーム、とりあえずそれで行くか」
「よろしく生産大臣」
「はい、このミジェール、国王の任命に答えて見せます!」
三人はクスクスと笑った。
3人がある程度打ち解けたところでアッシュは朝のことを思い出す。
「そう言えば朝のアレはもう許されたのか?」
「あっ、忘れてた!落とし前を付けさせなきゃ」
「朝のアレって何ですか?」
アッシュはそう尋ねるミジェールに事の概要を話した。
「それはアッシュさんが悪いですよ。ちゃんと謝らなきゃ」
「えー、こいつに頭下げると俺の品格が落ちるんだよなぁ」
「てめぇいい度胸じゃねぇか。明日の朝どうなるか覚えてろよ」
レントは演技がかっり大げさに怒りを表現する。
それがまた面白くて、3人でゲラゲラと笑う。
自分が当事者でなければ、引いてしまうほど下品な笑いである。
そうこうしているとカーンカーンと音が鳴り、教会の配給が始まった。
「おい、行くぞ!」
アッシュは二人を急かして駆け足で、配給の列に並び固い黒パンと欠片ほどの肉が入ったスープを3Bと引き換えに受け取った。
ミジェールの分はアッシュが支払った。
3人はもう一度2人の定位置に戻り、食事をとった。
「ありがとうございます」
ミジェールがアッシュにお礼を言った。
「おごったわけじゃないで、いつか返せよ」
「はい、分かってます」
冗談のつもりで言ったんだけどなぁ。と思うとレントが「心が狭いなぁ、アッシュは。別に払わんでいいで」とフォローしてくれた。
「お前ほどではないがな。お前が払っても良かったんじゃないか?」
「すいませーん!」
レントは顎を突き出して謝る。
相変わらず冴えた顔芸を見て大笑いしてから、アッシュは「はぁ、あほらし。さっさと食おうぜ。さめちまうよ」と言って食事始める。
「そうだな」
アッシュはパンをスープでふやかし、少し柔らかくして食べながらミジェールの仕事のことを考えた。
「なぁ、ミジェールはどの仕事をするんだ?」
「あ、まだどこにも行ってないです。でも物を作る仕事ができるといいなって思ってます」
「うーん、鍛冶ギルドとかがいいかもなぁ」
「どんなとこですか?」
「剣とかを作る職人の団体で、そこに行けば人手の足りない工場を斡旋してくれるんだ」
「へー、そんなところがあるんですね。じゃぁ明日とりあえずそこに行ってみます」
3人はしばらく黙々と食事をとっている。
理由はレントが昔食事中にアッシュを笑わせたために多くの食事を落としてしまってためである。
食事が終わるころになると恰幅が良く、筋肉質な初老の男が近づいてくる。
「よぉ、元気か?」
「お、兄貴!元気って昨日も元気だっただろう!」
レントは男の顔を見てはしゃぐ。
「それもそうだけど、急に悪くなることだってあるだろう」
そう言って、手に持っていた木箱を3人の前に置く。
中を開くと銀貨(S)が7枚と銅貨(B)がたくさん入っていた。
アッシュとレントはその中にそれぞれ4Bと5Bを入れ、中の金額が昨日と変わっていないことを確かめる。
「お前らは相変わらず疑り深いなぁ」
「無用な疑いを持たなくて済むし良いだろう」
アッシュは男に答える。
傍で見ていたミジェールは「わぁ大金だね」と声を上げる。
「1S=1000Bだから、7000B以上ってことでしょ」
「ああ、まぁな」
アッシュはそう答えながら数をかぞえちゃんと723枚の銅貨があることを確かめる。
「そこの子はお前らの仲間なのか?」
男は増えた人間を指さし、尋ねる。
「そうだぜ兄貴。今日、俺の国民になったミジェールだ」
レントは楽しそうに答える。
「おー、そっかぁ、お前らがちゃんと守ってやるっとことか。大人になったじゃねぇか!」
男は笑ってレントとアッシュの頭を撫でまわす。
「鬱陶しいわ!」
アッシュはその手をはねのける。
「そうだそうだ!昔から俺たちは大人だっただろう!」
「いーや、全然。クソガキだっただろお前ら」
レントと男は仲良くいがみ合っている。
「ミジェール、この人はベイル。嫌味の名人の教会の用務員だ」
アッシュはそこから一歩引いてミジェールに紹介する。
「あ、てめぇ、アッシュなんて言い方しやがる!」
「えっと、よろしくお願いします」
「あー、ミジェールはいい子だなぁ、こんなクソガキを見習っちゃいかんぞ」
「そう言うところが嫌味の名人って言ってるんだよ」
「事実だからしょうがないじゃねーか」
3人は爆笑する。
それを見てミジェールもはにかんだ。
「あの、このお金は何なんですか?」
大いに爆笑した後、ミジェールが目の前の木箱について質問する。
「ああ、2人の貯金だよ」
「なんでそれをベイルさんが持ってるんですか?」
「それは、俺らが家無しだからだ」
アッシュが答える。
「ベイルは教会に部屋があるから預かってもらって盗まれないようにしてるんだ」
「あーなるほど」
「そうそう、俺は財務大臣らしいしな」
ベイルはわっはっはと笑う。
「ふーん。2人はそのお金で何を買うの?」
「あー、別に予定があるわけではないんだ。とりあえず貯金しておいて何かできるようにしてるだけ」
「何か?」
「金儲けのチャンスがあっても、それに手を出すにも金が要るだろ」
「ふーん」
ミジェールは分かったのか分からなかったのかどっちつかずの顔をして肯いた。
4人で可能な限り談笑し、馬鹿笑いしていると教会のほうからベイルを呼ぶ声が聞こえる。
ベイルはめんどくさそうに教会に戻っていき、残った3人は集まって暖を取りながら明日の英気を養うために眠った。