表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/26

(6)

 また起きられなかった。

 布団の中から引き寄せた時計は、もう昼を指そうとしていた。時計を握った腕が、パタリと落ちる。

 なにやってるんだ、俺は。

 ぐしゃぐしゃの頭で下へ降りると、今日もテーブルの上には朝食が準備してある。

 ズルズルと椅子をひいて腰掛ける。テーブルに肘をつき、両手で顔を覆う。

 早く仕事を見つけなきゃいけないのに、昨日だって一日潰してしまったのに、なのに、なんで俺は、朝起きることさえできないんだ。

 指の間から朝食の皿が見える。テーブルの端へと押しやり、空いたスペースに頭を横たえる。目の前にピントの合わない皿と、その向こうに動きのない静かな部屋がある。

(……薄い)

 世界が薄い。色が薄く、おぼろがかって奥行きを感じない。なん百年も昔の写真のよう。色の無い、輪郭の曖昧な写真。霞んで奥行のないぼやけた写真の、その内側から外を見ているようだ。なんの動きもない、なんの音もない世界。このままこうしていたい。ずっとこうしていたのかもしれない……。

 突然、電話が鳴った。とびあがるほどの大きな音。あわてて駆け寄り、音量を下げようとするが、操作がわからない。

「くそっ」

 ひったくるように受話器を取ると、相手は昨日の宅配トラックだった。


 荷物が届くまで、五分とかからなかった。陽気なドライバーは「今日は居てくれてよかった」と言いながら、段ボール箱を次々運びこむと、あっという間に去っていった。

(べつに昨日だって……)

 昨日だって、来るのがわかっていれば、どうってことなかったんだ。意識してなかったから面食らっただけだ。

 呟きながら荷物を二階へと運ぶ。敷きっぱなしの布団が邪魔で、足で隅に押しやる。一つ目の箱を開けた途端、ザラッとなにかが胸のなかを撫でた。

(なんだよ。こんなもん、出番なんか来るのかよ)

 何カ月も袖を通していないリクルートスーツ。胃から苦いものがこみ上げそうになり、急いで普段着だけ取り出して蓋をする。次の箱にはノートパソコンと本、クリアケース、そして朱の表紙に金文字の立派な二つ折り。開くと高価そうな和紙に墨書がしたためてある。


 『本大学の経済学部を卒業したことを証する』


 これを学歴と呼ぶのか。この紙一枚をもらうために、俺は進学したのか。大学とはいったいなんだったんだ。俺はなんのために大学へ行ったんだ。

 立派な証書をどう扱えばいいのかわからず、半開きにしてタンスの上に立て置いてみる。クリアケースには就職活動のための履歴書や顔写真、ノート類がまとめて入っている。しかし写真は一年前に撮ったものだし、履歴書の住所は前のアパートのままだ。学歴欄の最後も『卒業見込み』となっている。もう見込みじゃない。俺は卒業したんだ。卒業して、もう学生という身分ではなくなった。いまの俺は……。そこで初めて気がついた。

(俺は、どこにも所属していない)

 こんなことはいままでなかった。どこにも所属していない、どこにも関わりのない自分。そう気付いた瞬間、すぅっと世界が俺から距離をとった。自分が世界から剥がされ、小さくなる。だんだんと浮き上がり、離れていく。

(だめだ、だめだ)

 いちいち考え過ぎなんだ。こんな古い履歴書を見ているから悪いんだ。状況が変わった、ただそれだけだ。こんなもの、さっさと書き直してしまえ。どうせ必要になるんだ。履歴書があったほうが、きっとハローワークでも話しやすい。いや、履歴書がないまま就職活動なんて、できないじゃないか。そうだ、これを書き直すのは就職活動の重要な第一歩だ。

「よし!」

 パソコンとクリアケースをつかむと、勢いをつけて立ち上がる。

 使っていないときなら構わないだろう。隣りの部屋へと乗りこむ。向きの変わった机に座る。気分が変わる。部屋模様は変わっても、やっぱりここが自分の部屋だという気がする。

 新しく履歴書を作りなおすなんて、ずいぶんと面倒な作業だけど、そういう面倒なものほど早く済ませてしまうべきなんだ。集中して一気に書き上げてしまえ。

 古い履歴書を横に、見比べながら新しい用紙へ書きこんでいく。名前や生年月日は変わらない。持っている資格も、趣味や特技も変わるところはない。変わったのは現住所と、学歴欄の最後の一行、たったそれだけだった。

 すごい決意をしていたのが気恥ずかしくなる。

「そうだ、ネットの求人もチェックしておくか」

 わざと声を上げてノートパソコンを起動させる。無線LANが自動設定される。よく利用していた求人サイトを開き、登録IDとパスワードを打ち込む。数ヵ月ぶりにログインしようとするとインフォメーションが開いた。


 このページは在学生を対象にした求人情報を掲載しています。

 既卒者の方はこの画面からはエントリーできません。

    一般求人の概要をご覧になる場合は → こちら

    登録情報を更新する場合は → こちら


 ここでも『もうおまえは学生じゃないだろう』と言われるのか。硬い息を吐いてから、一般求人の概要という方をクリックしてみる。開いたページは学生向けとはだいぶ違っていた。

 ログインできていないので企業名が伏せられ、職種と条件、地方名だけの表示になっている。だが、なによりも、

(ハードルが高い)

 画面には馴染みのない専門的な用語が並んでいる。専門職、有資格者、経験者の求人ばかり。これで申し込めるところなんてあるのか? 

 場違いなところに自分がいる感じがする。間違えて高級店に入ってしまったような、落ち着かない気分。

 ほかのサイトもこうなんだろうか。去年だって百以上もエントリーしてダメだったのに、こんな情報見せられても、資格も経験もない自分にはどうしようもない。

 また気分が萎えそうになる。

 いや、ハローワークだけは行こう。せっかく履歴書も書き直したんだ。

 パソコンを閉じ、カバンを取りに和室へ戻る。戸を開いた瞬間、正面のタンスに立て置いた卒業証書が目に入った。

 立派な装丁の、なんの力も無い張り子の虎。

 殴りつけたい気持ちになる。

 むしろこれが災いの元ではないのか。こんなもの、無いほうがよかったんじゃないのか。

「なにをバカな……」

 目を向けないようにしてカバンを拾い、書いたばかりの履歴書を突っ込んで部屋を出る。さっさとしないと、また出かけられなくなりそうだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ