(3)
テーブルの上はすごい量だった。いったい何人分かと思うほどの刺身が真ん中に置かれ、周りを生姜焼きやブリ照り、煮物やサラダなんかが囲んでいる。ご飯と味噌汁がテーブルから落ちそうだ。親父がビールとグラスを出してきて、テーブルがますます狭くなる。
「それじゃあ、かんぱーい」
名目もないまま、グラスが合わされる。親父、ずいぶんとご機嫌だな。なにかあったのか?
二人は箸を動かしながら、近所で子犬が産まれだだの、最近カラスが増えただのと、どうでもいい話を振りまいている。それがどうしたって言うんだ。つまらない話がいつまでも続く。イライラする。それからお袋の料理、こんな味だったろうか。味付けがよくわからない。うるさい会話とよくわからない味付けのせいで、まるで知らない家のように居心地が悪い。
案の定、料理は食い切れなかった。お袋が食器を洗っている後ろで、残り物にラップをかけ、冷蔵庫へしまっていく。最後の皿を片づけた時、手酌でビールを飲んでいた親父が言った。
「それで、お前これからどうするんだ」
来た。とうとう来た。お袋も背中を向けたまま、こちらを意識しているのがわかる。
「なんとかして仕事探すよ」
「なんとかって、なにするんだ」
「まだわからないけど、まぁ、なんとかするよ」
答えが思いつかない。
「なにかやりたいことでもあるのか」
「別に、そういうわけじゃないけど……」
「……」
短い沈黙のあと、親父はビールを飲み干した。
「ま、そのうちなにかあるだろ」
立ち上がってテレビの前のソファへと移っていく。見逃してくれた、ということか。お袋の背中に「ごちそうさま」と声をかけて二階へ上がる。
(早くどうにかしないと。でも……)
これまで、いつも同じ結果だった。求人を探して応募する。アピールできるように資格を増やしていく。あとはなにをすればいいんだ。まわりより早く行動するくらいか。それなら明日はちょうど月曜日だし、朝一番でハローワークに行ってみるか。そうだな、週明け早々から積極的に行動する、そういう前向きな努力にはきっと運だって味方してくれるはずだ。よし、早く寝て、明日は朝イチで行動しよう。早く就職先を見つけて、親父たちを安心させてやろう。
短く風呂をあがり、布団を敷いて電気を消した。
雨音が響いている。
早く布団に入ったはずだったのに、僅かな時間で目が覚めてしまった。
零時四十五分。暗い部屋に、窓から街路灯の光が入り、天井を斜めに青白く照らしている。窓に付いた水滴が流れ、天井の光の中を気味悪い影が動いている。
雨音が響いている。そういえば、入学してすぐに土砂降りにあったんだった。あの時はまだ自転車で、ずぶ濡れになりながらアパートまで飛ばして帰った。濡れた足が床に気持ち悪くて、暗い部屋の窓から見える灰色の景色が心細かった。はじまったばかりのひとり暮らしに寂しさと不安を感じ、けれどそれはひと時のことだった。毎日は圧倒的に楽しかった。
初めて見るコンビニがあった。探していた床屋も見つかった。気まぐれに角を曲がってみたら、大学の裏手までつながっていて驚いた。スーパーでは、いつの間にか小麦粉でも歯ブラシでも場所を覚えていた。学食で安い飯を食い、ファミレスで朝までくだらないことを喋り、右も左も分からないまま、仲間と銀座の高い店に入ってみたりもした。夜中まで遊んでいても、昼過ぎまで寝ていても、誰にも文句を言われなかった。そんな生活が、楽しくて楽しくてたまらなかった。楽しくてたまらなかったはずなんだ。
雨音が響いている。いやに耳に障る。天井を走る光の帯が、さっきより明るい。
落ち着かない。ざわざわとする。あの生活は本当にあったことなんだろうか。
思い出せる事はたくさんあるのに、その全てが疑わしい。全部空想だったような気がしてくる。あれは楽しかったんだろうか。あれは本当にあったことなんだろうか。俺は本当は、どこか別なところにいたんじゃないのか。
雨音が大きくなる。体を起こすとさらに音が大きくなる。バラバラという音が前後左右から、上下からも包み込んでくる。体が浮かぶような感覚になる。
なんでこんなに音が響くんだ。ひょっとして窓が開いているんじゃないのか?
音を振り払うように立ち上がる。窓を確かめるが、ちゃんと閉まっている。こんなに音が響くなんて、いったいどんな雨なんだ。
カーテンの端からのぞいた雨は、想像よりもはるかに細く弱く、霧がまじっている。ゆっくりと流れる霧に街路灯が淡く明滅する。その光の下に、制服姿の少女がひとり、立っていた。
長くまっすぐな黒髪。すこしきつい目元。ブレザーの制服を品悪く着崩して、ポケットに右手を突っ込んでいる。左手は肩にのせた傘を押さえ、少女は何をするでもなく、じっと我が家を見上げている。
(あんなところで、なにやってるんだ?)
なにかを企んでいるような雰囲気ではない。ただ、この家を見ている。傘をさしてはいるが、こんな霧のような雨の中では役に立っていないんじゃないのか。
そこで気がついた。見ているのは家じゃない。庭だ。庭のティラノサウルスを見ている。
霧雨のなか、身じろぎもせずハリボテの恐竜を見上げている少女。その姿をカーテンの隙間から覗き見ている自分。
なんだか動いてはいけない気がした。少女の目に映る風景を止めておきたかった。そうすれば、この世界は少女の目の中で一枚の絵になって、自分もその中に永遠に固定される--そんな気がした。
だが、動いたのは少女だった。動きの無い世界で、ふいに少女の頭が動き、次いでピカピカと光るケータイが耳もとに当てられた。短くやり取りした少女はもう一度顔を上げ、恐竜を見上げたままポケットにケータイをすべり落とす。そして、ゆっくりと歩きだす。恐竜に目を向けたまま――。
少女が死角に入る寸前、
「!」
目があった? いや、わからない。少女はすっと傘をかざし、そのまま見えなくなった。
ひとりでに息が漏れた。
幽霊じゃないよな。幽霊なら傘なんか無いほうがそれらしい。ケータイだって幽霊には似合わない。こんな雨の夜中に、恐竜を見上げていったいなにをしていたんだ。
少女のいなくなった街灯は音も無く光を放っている。あんなにうるさかった雨音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。