(2)
両脇に、古臭い、よく似たデザインの家が並んでいる。新しく建て直された家がぽつんと、周りと調和できずに、妙に浮いて見える。どの家もオレンジの光に染まり、暗い影の縁取りを付けている。住宅地全体が、夕暮れのさびしげな雰囲気に包まれている。
上り坂をゆっくりと、バイクを進めていく。坂の終わりでシラカシの垣根と、その上に突き出るティラノサウルスの後ろ姿が見えてくる。我が家が『恐竜ハウス』なんて呼ばれるようになった、強化プラスチックの肉食恐竜。
また息が苦しくなる。なにかが肺の中に溜まっていく。家に近づくほど、なにかぐしゃぐしゃとしたものが胸のなかに満ちていく。アクセルをゼロにしても、バイクは惰性で進んでしまう。胸に涌くものを吐こうと、空のゲップを繰り返すがなんの意味もない。
ひとりでに進んでいくバイクにしがみつき、苦しさをこらえながら家の前へとたどり着いてみると、車庫に親父の車はなく、門扉も閉じてある。外から見た家も、無人のように見える。
バイクを車庫の端に止め、恐竜の前を横切って玄関へ向かう。ドアには鍵がかかっていて、開けると中はひんやりと暗かった。
ただいま、と声をかけるが返事はない。カバンを抱えたまま、二階へむかってもういちど声をかけてみるが、やはりなんの音も返らない。リビングはレースのカーテンが引かれて薄暗く、テーブルやソファの周りを見ても、メモの類はない。
(二人とも出かけてるんだ)
肩から力が抜けた。
カバンを落とし、ダイニングテーブルの椅子へ座る。
今日帰ること、伝えておいたのに。
座ったまま、上体をテーブルの上へ投げ出すと、横倒しになった視界のなか、暗い部屋に夕光のあたる窓だけが眩しい。
どこに行ったんだろう。何時に戻るのかな。戻ってきたらどんな話になるんだろう。
頭がぼんやりとする。
就職できなかったこと、どう思ってるだろう。大学は終わってしまった。もう甘えていられない。もし家賃や食費を入れろと言われたらどうしよう。金なんて、わずかな額があるだけなのに、そうなったら俺は……、
「これからどうすれば……」
無意識に言葉がこぼれ、ハッとした。
そうじゃない。力をこめて体を起こす。俺は仕事を探すんだ。就職して、給料をもらって、家に金を入れるなり、もういちど一人暮らしなりするんだ。
カバンをつかんで立ち上がる。
気持ちを切り替えろ。前向きにいくんだ。ガンガンいくんだ。仕事なんか明日にでも決めてやる。
二階の自分の部屋へ行こうと廊下へ出たとき、ちょうど玄関の扉が開いた。
「あー、ごめんね、もう着いてたね」
一年ぶりのお袋が、両手に買い物袋を下げて入ってきた。
「いや、俺もいま着いたところ」
荷物を受け取ろうと手を出したが、お袋は「大丈夫」と前を横切り、カウンターをまわってキッチンへ入っていく。
「ごめんねー、もっと早く帰るつもりだったんだけど」
声とともに冷蔵庫や戸棚を開け閉めする音が続く。「ああ」と生返事をしながら手持ちぶさたに突っ立っていると、お袋は二人分の麦茶を盆にのせて戻ってきた。
「はい、どうぞ」
コップを置かれ、もう一度席に着く。向かいに座ったお袋は改まって、
「おかえりなさい」
「……ただいま」
それっきり黙り込む。
部屋が沈黙した。
薄暗い部屋にオレンジの光が差し込み、お袋の背後で傾いた四辺形を作っている。お袋は光を背にしたまま、指先ひとつ動かさずにたたずんでいる。
(どうしてなにも言わないんだ)
逆光が目に辛く、視線を外してコップに指を遊ばせる。
就職のこと、聞きたいんじゃないのか。こっちが言い出すのを待っているのか。
沈黙に耐えきれず麦茶をすすったとき、お袋が口を開いた。
「家がにぎやかになるかな」
「え? あ……なるべく静かにするから……」
「違う、違う」
お袋は笑って、
「楽しくなるってことよ。ずっと父さんと二人だったでしょ。にぎやかになったほうがいいのよ」
そう言うと「夕食なにがいいかしら?」と立ち上がった。
「なんでもいい」
つられて立ち上がる。
「バイクで疲れたから、すこし部屋で休むよ」
「あ、待って。和也の部屋、いま使えないのよ」
「え?」
「藤田先生って、覚えてるでしょ?」
「ああ、うん、覚えてるよ」
お袋の古くからの知り合いだ。長いこと私立の女子高で教師をしていた藤田先生は、教育問題に人生を捧げたような人で、県内の学校関係者の間ではよく知られているという。俺が物心つく前からときどきうちに来ては、お袋と難しい話をしていたが、たしか二、三年前に定年退職したはずだ。
「いまね、藤田先生に勉強教えてもらってる子がいるのよ、毎週火曜日。それで和也の部屋、使わせてもらってるの。だから、悪いけど二階の和室のほう使ってくれる?」
「塾やってるってこと? なんでうちで?」
「塾っていうより家庭教師かな」
「家庭教師っていうのは、生徒の家でやるものだろ」
「事情があって、その子の家ではできないのよ。その子、母さんと同じところで働いている人の娘さんなの」
「それが、どうしてうちで勉強することになるのさ」
「ちょっと荒れちゃってるのよ、その子。でも、やればできる子だと思うの。藤田先生も、ほら、そういうの放っておけない人だから。自分が勉強を見ながら少しずつ立ち直らせたいって。だから和也の部屋、使わせてあげて。少ししたら別の方法も考えるから、ね」
「……わかったよ」
ぜんぜん答えになってない。でも、どうせなにを言っても俺の部屋は使えないのだろう。
ショルダーを担ぎなおして階段を上がる。二階の短い廊下に、扉が二つ並んでいる。いったい俺の部屋はどうなっているんだ。
(見るだけならいいだろ)
階段に近いほうの扉を開く。一年ぶりにのぞいた部屋はずいぶんと変わっていた。一階にあったはずのデカい本棚が置かれている。ベッドが無くなり、机は部屋の反対側へ動かされている。ブラインドだった窓はカーテンになり、天井の照明まで変わっている。
「ふうん」
部屋には入らずに、ドアを閉めた。やっぱり前のようには暮らせない、ということか。
廊下の奥側、もうひとつの引き戸を開く。がらんとした和室の部屋に、腰ほどの高さのタンスと、窓側に座卓が置いてある。前までこの部屋は、中身のわからない段ボール箱や、ほとんど使われないミシンなんかが壁際に積まれて、半ば倉庫のような状態だったのに。
カバンをおろして畳に座る。掃除してある。指を這わせても、埃ひとつない。こんなに物がないなんて、きっといろいろ処分したんだ。わざわざ部屋を用意してくれたのか。
ありがたいと思う。そうは思うが、でもやっぱりあの部屋がよかった。掃除なんかどうでもいいから、あの部屋に戻してくれ、そう言いたかった。
すぐに親父も帰ってきた。玄関で出迎えた親父は、一メートルほどの発泡スチロールの箱を抱えていた。
「おかえりなさい」
「おう、ただいま。お前もよく戻ったな」
親父はそれだけ言うと、台所へ入っていき、
「カツオ買ってきたぞ」
抱えていた発泡スチロールから、カツオを丸ごと一本取り出した。
「こんなに……、食べきれないんじゃない?」
途中まで夕食の仕度を進めていたお袋が苦笑いを浮かべる。
「なあに、平気だ、平気」
親父は出刃包丁とまな板をひろげると、鼻歌まじりにカツオをさばき始める。お袋がこちらに向かって肩をすぼめた。
和室へ戻り、畳に横になる。
親父も帰ってきた。もうすぐ夕食だ。そこできっと話が出る。就職できなかったことを問い詰められる。
どう言えばいいんだ。不況のせい、就職難のせい、それは間違いないけど、だから自分は悪くない、と言えるわけもない。
天井の木目模様が、おおきくうねり、渦を巻きながら走っている。
俺だって遊んでいたわけじゃない。いろいろやったんだ。一生懸命やったのにダメだった。どれだけやってもダメだったんだ。
『採用は見送らせていただくことに……』
本命にしていた広告会社から不採用の通知が届いたのは、あの一回目の内定率発表から三日とたたないうちだった。ショックから立ち直る暇もなかった。そこからつぎつぎと不採用の通知が届き、四月の終わりには希望していた会社の半数から、五月のGW明けには残るすべてから届いてしまった。呆然としたまま、同業種で規模の小さい会社を探したが、求人などまるでなく、ようやく見つけたところも一通目の書類で落とされた。ツテがないと無理だと噂で聞いた。
大学が毎月発表する内定率は、七月にようやく二割に届くかというところで、八割の学生が就職が決まらない現実に愕然とした。それでも、どこかには就職できる、まだそう思っていた。勤務地や給料の条件を何度も見直し、どんな業種でもかまわず応募した。落ち込む友人を励まし、決まった奴は祝福して「次は俺だ」と気勢を上げた。
夏の終わり。エントリーを送った会社は百を超えていた。簡単にできるネットからの応募は、その倍を軽く超えていただろう。数えてなどいられない。九割の会社からは、なんのやり取りもないまま不採用の通知が届き、面接や選考会の機会をもらえたのは二十にもならない。
九月。例年にない早々とした秋の訪れだった。この時期になっても、内定率はまだ三割にすら届いていなかった。
内定の取れない連中だって、なにも遊んでいたわけじゃない。全員がワープロや表計算の資格を持ち、英検や漢検、数検なんかを取っていた。企業の理念や経営方針を調べ、何度も面接のシミュレーションを繰り返してきた。俺だってそうだ。英検も漢検もスコアは上位だったし、ペン字講習も受けた。面接に活きる会話術』だとか『スーツの着こなし方』なんて本も読んだ。それでも先の道が現れない。
『誠に残念ではありますが……』
『不採用という結論に至りましたので……』
『検討を重ねましたが、ご希望に沿うことは……』
それは見えない弾丸のように、心を突き抜けていった。そのショックはいつまでも癒えることなく、そこへさらに何通もの不採用が突きつけられる。傷の上にさらに傷を負い、何度も抉られ続ける。もう、なにをやっても無駄なのではと、挫けそうになる気持ちを何度も支えなおし、新しい応募要項があれば、もうロクに条件も見ずにエントリーをいれて返事を待つ。郵便が届くたびに『これもダメにきまってる』と心に予防線を張り、それでも微かな、ほんの微かな希望を抱きながら封を切り、目に飛び込んでくる文字はまたも見えない弾丸となって、心を貫いていく。何度繰り返しても慣れることはない。いつしか予防線を張ることなど忘れ、「今度こそ頼む」と祈りながら封を切り、落胆し、やがて、なにも届かなくなった。
十月。あるのは派遣やアルバイトの募集だけだった。求人対象はとっくに次の学年に移っていた。派遣なんて考えていなかったけれど、話だけでも、と連絡してみると、いつから働けるのかと聞かれた。卒業してからと答えると、登録しておけば二月か三月に仕事を紹介する、と言われた。どこで、どんな仕事を、どれだけするのか、その時になるまでなにもわからないという。けっきょく登録はしなかった。いったいなんの仕事をするのかもわからない、そんな立場に身を落としたくなかった。
バイト先の本屋は正社員の募集はしていなかったが、それでも思い切って店長に相談してみた。いつも陽気でくだけた話し方をする人が、やおら表情を変え、「たいへん申し訳ないのですが――」と他人行儀に言った。社員は募集していないし、いまのアルバイトも三月で終了になる、と。
三年半働いてきて、役に立っていると思っていた。新人が入れば、仕事を教えるのはたいてい俺だったし、他の人は嫌がる重たい荷運びや真冬のガラス掃除だって、俺は文句を言わずにやってきた。誰も気づかなかった誤入力を見つけて、損害を食い止めたこともあった。あんなに褒めてくれたのに、俺を雇って本当によかったって言ってくれたのに、それなのに、もう俺は不要だなんて。
十二月。できることはなにも無かった。自分自身、なにもする気になれなかった。二百の会社からいらないといわれた自分は、なんの価値もない、なんの役にも立たない人間なんだ、本当にそう感じた。「人間の価値っていうのはそういうものじゃない」そう言ってくれる奴もいたけれど、じゃあ俺の価値は何で測られるっていうんだ。
この世界でなんの価値もない自分が、金を送ってもらって一人暮らしをしているなんて、罪悪としか思えなかった。けれど、ここまできた以上、大学だけは卒業しなければ……。
最低限、卒業に必要な日数だけ大学へ通い、それ以外はほとんど外へ出なかった。バイトも強引に辞め、部屋でゲームばかりしながら、
(あと○日で卒業、引越し)
カレンダーでそれだけを見て過ごした。大学の卒業式も出ず、学生課で卒業証書だけを受け取ると、すぐにアパートで荷造りをした。楽しかった大学生活は、最後を辛く虚しいものにして、今日ようやく終わった。
いったい、どうするのが正解だったんだ。内定率は最終的に八十二%まで上がったというが、それもフリーターや派遣が半分以上を占めていると聞いた。
やっぱり派遣でいいから登録しておくべきだったのか。でも、なんの仕事をするのかもわからない、だなんて。
俺はちゃんと働きたいんだ。好きなことは諦めたけど、それでもどこかひと所に根を下ろして、そこに貢献して必要とされたい。
やっぱり一日も早く就職するしかないんだ。そのためには自分を変えるんだ。この三ヶ月、いじけて投げ出してしまった自分を変えるんだ。戻ってきたのだって変わるためだ。環境を変え、自分も変える。やることは変わらない。求人を見つけて、履歴書を送って、面接でアピールする。
でも、それでいいのか? 同じことをするだけじゃ、また同じ結果になるんじゃないのか。もっと資格を取ったほうがいいのか。危険物取り扱いなんかがあれば違うのか。それとも会話術とか、交渉術とか、そういうものを学ぶべきなのか――。
「メシだぞー」
下から親父の声がかかった。畳に寝そべったまま、もう一時間半も過ぎていた。