(19)
南から北へと線路を超える。市街から山あいへと近づくにつれ、道幅が少しずつ狭くなり、すれ違う車が減っていく。森林公園への誘道に入ってからは一台もなくなった。
「本当に人いないみたいですね」
公園の駐車場にバイクを止めると、リカはメットを外して、あたりをめぐらせた。管理事務所に隣接する駐車場には、関係者らしき車とトラックがあるだけだった。すぐそこに「森林公園入り口」と書かれたアーチがあり、そこから砂利の歩道が松樹の林の中へと伸びている。
さっきまでため息ばかりだったはずなのに、リカは両腕を上げて大きく伸びをすると、軽く笑ってアーチのなかへ飛び込んでいく。跳ねるように先へと進むリカを眺めながら、あとに続く。そう長くない松林のトンネルがまもなく終わるというところで、
「あ、あれ」
リカが走りだした。
リカはトンネルの出口で出迎える肉食恐竜に駆け寄ると、こちらに向き直って叫んだ。
「これ、和也さんの家にいるのと同じでしょ! ティラノサウルス!」
「ちがーう、そいつはアロサウルス!」
こっちも大声を返す。
「うそ? ずっとこれだと思ってた」
目を丸くするリカの隣りまでいって教えてやる。
「こいつ似てるんだよ。でも、中央広場にもうひとつ似てるのがいるでしょ。もっとデカいヤツ」
「ああ、いた気がする。あっちだったんだ」
松林を抜けた先は、灰色の雲が落ちてきそうな無人の公園で、その寂しい景色のなかを、なぜかリカははしゃぎ気味に走っていく。丘陵を切り拓いた森林公園は、樹林を壁代わりに残して全体を幾つかのエリアに区切ってある。
リカは芝生の坂を駆け下り、アスレチックエリアの始点まで行くと、制服のスカートも気にせずにロープネットを登り始めた。難なくネットをクリアしたリカは、そのまま揺れる吊り橋を渡り、地面から突き出た丸太の足場も、両手を広げてひょいひょいと飛び移っていく。俺もリカの後に続いてみるが、まるで様にならない。リカが何度も足を止め、俺が追いつくのを待ってくれる有様だ。丸太の平均台を渡るとき、
「おっと、わ、わわ」
あっ、とリカが伸ばした手に届かず、落っこちた。
「ふふっ」
リカはちょっと笑い、また進みだした。俺はアスレチックを諦め、横からリカを眺めながら歩く。
障害物をぐんぐん乗り越えていくリカは、夜とはまるで別人だ。夜のリカは、壁に寄り掛かったまま、黙ってみんなの話を聞いているか、ときおり小難しい歴史の話をしたかと思えば、今度は熱っぽく未来を語ったりで、こんなに活動的な姿を、智ならまだしも、リカには想像できなかった。
リカはアスレチックをすべてクリアすると、ゴール地点に待ちかまえていたステゴサウルスの頭をすれ違いざまポンと叩き、さらに先の、櫓のような丸太組みの展望台へと駆けていく。やれやれと後に続き、展望台の一番上まで登りついたときには、すっかり息が上がっていた。
「はぁ、疲れた。体力落ちた」
吹き抜ける風は湿度が高く、それでも汗を飛ばしてくれる。
「ふふっ、家にこもってるからですよ」
「だよなぁ。けど、リカだっていつもと違いすぎだよ」
「なにも違っていませんけど」
「違ってるよ。いつもはもっと、きりっとしてるっていうか、引き締まった顔しててさ、近寄りがたい感じじゃん」
「わ、私、そんな怖い顔してませんよ!」
「してるよ。こんなに笑っているのも初めて見た。どっちが本当なんだか」
「いつもと同じですっ!」
赤くなってぷいっと横を向いたリカが「あっ」と声を上げる。
「和也さん、あそこに見えるのがそう?」
手すりから身を乗り出してリカが指差すのは、円く石畳が敷かれた中央広場。そこには、四つ足で頭に三本角を生やした草食恐竜と、大きく口を開けてそれに対峙する、巨大な肉食恐竜が見える。
「そう、あれがティラノサウルス」
「そっか、あれか」
最強の恐竜は尻尾を高く上げ、大きく開いた口を低く前へと突き出して、自らの力を誇示するかのようにトリケラトプスへ咆哮を浴びせかけている。
リカは櫓の手すりに両腕を乗せ、じっとティラノサウルスを見おろしている。高い所から見渡すと、あちこちに恐竜の姿が見え、それなのに人の姿はない。冷えた風が吹き抜け、低い雲の下で森がザワザワと音を立てた。
「智からどこまで聞いたんですか?」
恐竜へ視線を向けたまま、リカが言った。
「事故でお父さんが亡くなった、って。あと、お母さんと上手くいってないことも、藤田先生が苦手だってことも聞いた」
「智はおしゃべりだな」
そう言うと、リカは手すりに置いた腕へと顔を伏せた。涙をこらえているのかと思ったのは一瞬のことで、リカはすぐに顔を上げ、くるりとこちらに向き直った。制服のスカートがひるがえる。
「和也さん、働くってなんですか」
「え?」
突然の話題の転換だった。
「ずっと考えているんです。父は、なんのために働いていたのかって。整備士の仕事が好きだったんでしょうか? それとも私たち家族の生活のため? どちらでもいいんです。どちらだとしても、それならなぜ自殺なんかしたんでしょう」
「智からは自殺じゃなくて事故だったって聞いたよ。体調が悪くて、その、倒れたタイミングが悪かった、って」
リカは苦しげに微笑むと、左手を制服のポケットへ入れた。
「これ、父が最後にくれたんです」
リカが取り出したのは、手のひらほどの大きな銀の十字架だった。パンクやデスメタルなんかのバンドがアクセサリーにしそうな、ゴツくてギラギラとイミテーションダイヤが並ぶ十字架は、リカが持つには重そうだった。
「こんなの、ぜんぜん私の趣味じゃないのに、誕生日プレゼントだって、それも一週間も前に……。そして次の日に父は死んだんです。それは、やっぱり自殺なんだと思う」
風がリカの長い髪を散らす。リカはもう片方の手で髪を押さえ、もう一度尋ねてきた。
「和也さん、働くってなんだと思いますか?」
なんと答えればいい。思いつくことを言えばいいのか。それともリカの望んでいる答えがあるのか。
「生きるために必要なこと……かな」
「働かないと生きていけないんですか?」
「お金と、それからやりがいっていう意味でも、そうじゃないかな」
「だったら、どうして働いていない和也さんは、まだ生きていられるんですか」
ガツッと、なにかが胸のなかを鷲掴みにして、かき乱そうとする。それをこらえて、丁寧に言葉を返す。リカはいま、俺を試している。そんな気がする。
「このままだと、俺は生きていけなくなる。だからやっぱり間違ってないはずだよ」
「ううん、間違ってると思う。働いてないから生きていけなくなるんじゃない。お金がなくなるから生きていけなくなるのよ。そうでしょう」
「…………」
確かにリカの言う通りだ。生きていくだけなら、単に金の問題、それだけだ。
「お金を手に入れることが働くってことなんですか? それって会社とか他の誰かを儲けさせて、そのおこぼれをもらうってことですか?」
「金がなければ生きていけないだろ。だからどこかで仕事して、生きていくための金を手に入れる。べつにおかしくない。それが働くってことだろ」
「お金を手に入れるだけなら、誰かに気に入られるように振る舞ったほうが早いわ。ふふっ、誰かの愛人になってお金をもらっても、結婚して旦那さまに稼いできてもらっても働いてるってことになるのかしら。もし、すごいお金持ちの家に生まれた人が、親に媚びて甘えてゴマ擦って、たくさんお小遣いをもらって、三十、四十になってもそうやって暮らしていたら、それはそういう仕事ってことかしら」
「そんなの仕事のわけないだろ。なんでそんな言い方するんだ」
「和也さんが、お金を手に入れることだって言ったからよ。そんなことなら親からお金をもらっても、誰かにお恵みをもらっても同じだわ。乞食の生き方と変わらない。誰かの弱みを握ってたかったって同じよ。お金を手に入れるだけなら、汚いやり方のほうが簡単だわ」
「俺は別に、どんなやり方でもいいって言ってるわけじゃない。それに、金のある家なら子どもに金をやってもいいじゃないか。それで子どもが生きていって、なにも悪くない。それが乞食の生き方だなんて、おかしいだろ」
「なら、和也さんだって親に言えばいいじゃないですか、金くれ、それで暮らすからって」
「うちは金持ちじゃない」
「お金がある親にだったら言えるんですか? まいにち遊んで暮らしながら、なんの恥じらいも後ろめたさもなく『金くれ』って、平気でそんなこと言えると思う?」
「それは……、平気じゃないだろうけど」
「でしょう。金をくれ、なんて言うの、家族にだって心苦しいわよ。それが普通だわ。周りの人の負担になったり、嫌な思いをさせても平気だとしたら、そんなのどこかおかしい。親に負担をかけて辛いって、和也さんだって言っていたじゃないですか。逆なのよ。誰かの役に立ちたいって、和也さんだって思うんじゃないんですか。それが自分を認識してもらう、存在を認めてもらうことなんだから。自分と誰かとのつながりなんだから。まえに和也さんが、どこにも行くところがないって言ったのは、そういうことだと思う。体を移動させるだけなら、海でも山でも行けるのに、映画でもゲーセンでも、図書館で本を読んでもいいはずなのに、それなのに行くところがないっていうのは、自分の存在を認めてくれるところがないってことだと思う。だから夜の集まりでみんなといることが心地いいんですよ。たぶん、働くってそういうことなんだと思う」
「ちょっと待って、リカ」
今日のリカは、話がピョンピョンとジャンプして、なにを言いたいのかわからない。仕事イコール金を稼ぐことではないと言っているんだろうか。正しいような気も、間違っているような気もする。
「和也さんは誰かの役に立ちたいって思ったこと、ないんですか」
「そうなれたらいいだろうけど、あんまり真剣に考えたことはない」
「写真でみんなを楽しくさせるのも、役に立つことでしょう」
「そんなの、役に立つなんていわないだろう」
「立ちますよ! そういうことですよ!」
苛立ちのこもるリカの声。だめだ、一度流れを切らなければ。
「リカはどうなのさ。なにか人の役に立つような、やりたいことがあるんだろ」
「わたしはっ――」
反射的になにか言いかけた言葉を、リカは飲み込んだ。一旦うつむいた顔がすぐに、くっと上がり、しかし、開いた口は少しパクパクとしただけで、またうつむいてしまう。リカの周りの空気が、すうっと、ほどけた。
いつだったかの夜に似ている。あのときも夢はあるのかと聞いて、リカはけっきょく答えなかった。
黙り込んでしまったリカの背後に、灰色の空と黒く染まった森が広がっている。遠く、暗い木々の天蓋よりも高く首を出した恐竜が、じっとこちらに目を向けている。このままいても、きっとリカはなにも言わないだろう。
「リカ、少し歩こう」
リカは小さくうなずいた。




