(18)
六月の半分が過ぎた。梅雨前線はまだ遠い南の海上にあるが、数日のうちに北上して、遅い梅雨入りになるという。
リカが夜会に来なくなって、もう二週間が過ぎている。あの夜、結果的に事故は起こっていなかったが、それでもリカの記憶を呼び覚ますには十分だった。しばらくは藤田先生との勉強も休むらしく、俺はあれ以来一度もリカの顔を見ていない。
学校では普通に過ごしている、と智はいう。そのせいか、リカがいなくても夜会の様子はこれまでと変わらなかった。みんなが薄情なわけではない。リカはもともと口数が少なかったし、みんなにとっては、リカを励ます場所はここではなかった。登下校のさなかで、休み時間の教室で、すれ違う廊下で、きっとみんなはリカに声をかけ、見守っている。俺には手を出せないところで……。
俺もなにか――あの夜、声をかけてくれたリカに、今度は俺がなにかしてやれないか、そう思っても、リカに会うことができない。みんなと違って、俺にはここしかない。リカがここに戻ってこられるように、ここでリカを待っている--なんて馬鹿々々しい。俺の存在はこんなにも意味が無い。
「カズくん、最近イライラしてない?」
隣りに立つ智の声で、我に返った。最近アキはバイトの時間を増やし、遅れてくるようになった。ユウジとカオルは、少し離れたところでなにか聞かれたくなさそうな話をしていて、いま俺と智はなんとなく蚊帳の外に置かれていた。
「べつに、してないよ」
「リカのこと、気にしてるの?」
「……」
「大丈夫だよ。学校じゃ、これまでと変わらないから」
「ここに来てないんだから、これまでとは変わってるだろ」
言葉に険がこもっていると、自分でもわかった。
「んー、まぁ、そうだけど」
「俺にできること、なにかないのかな」
「そうだね、カズくんだからできることも、あると思うよ」
「でも、あれから一度も会ってない。これじゃなにもできない」
「カズくんから連絡とればいいじゃない」
「メールしか知らない。何回か送ったけど、当たりさわりのない返事しか来ない」
「なら直接会って話せば?」
「だから、会う方法がないんだよ」
智は一度目を見開いてから、
「あのねぇ、カズくん」
ため息をついた。
「リカはこのマンションに住んでるんだよ。毎朝このマンションを出て、夕方ここに帰ってくるんだから、リカに会うのなんて簡単じゃない」
「そのくらい考えたよ。けど、こんな所で待ち伏せてるなんて怪しまれるに決まってるじゃないか。それにメールが素っ気ないのは、俺には話したくないってことかもしれない。それなのに無理に会おうとしたら、かえって嫌な気にさせてしまう。いろいろ考えるんだよ、なにかできないかって。けど、いい方法がわからない。いろいろ考えてみても、ぜんぶ余計なことじゃないかって、かえって迷惑かもしれないって思ってしまう。いったい、なにをすればリカの力になれるのか……」
「逆なんじゃないかな」
「え」
いつの間にか、つま先へと落ちていた顔を上げると、智の視線とぶつかった。
「いい方法がわからなくてなにもできないって思ってるみたいだけどさ、逆だよ。なにもしてないからわからないんだよ。止まっているから、かえって迷っちゃうんだよ。リカのことを思ってるんでしょ。だったらなんでもいいんだよ。そんなことに正解なんてないよ。どんな方法でも、ぜんぶリカの力になるんだよ。だから行けるとこまで行くの、行き止まりまで。立ち止まるのはそれから。道の先がどうなってるかなんて、進まないとわからないんだもん。想像なんかいくらしたって、どうせなにもわからないままだよ」
そう、きっと智の言う通りなんだ。いつからか俺は臆病になってしまった。ずっと失敗続きで、これ以上失敗したくなくて、いくつもの可能性を考え、あらゆる障害を考え、思いつく限りの対策を考え、考えて、考えて、いつまでも考え続けて、そしてそのまま動けない、そんな人間になってしまった。まえの自分は、考えもないまま、あちこち首を突っ込んでは、無鉄砲にドタバタとやってきた、そんな自分だったはずなのに……。
「ねぇ、カズくん」
またうつむいていた視界のなかに、智の小さな顔が入ってくる。
「本気でリカの力になりたいって思ってくれてる?」
「ああ」
「それなら、明日の午後とか時間作ってくれない?」
「いいよ」
「絶対だよ? ドタキャンとか無しだよ?」
「ああ」
「じゃあ、協力してあげる。リカに会えるようにしてあげる。うちの学校、明日から三者面談なんだ。だから午後からは授業なくってさ――」
一三時一五分。鉛色の空は光を均一に配し、街を低いコントラストに落とし込んでいる。
智に指定されたとおり、高校の最寄りのバス停にバイクを止めてから、もう一五分がたった。国道から五十メートルほど奥まった校門からは、まだ一人の生徒も出てこない。
昨日、智は協力してくれると言った。智ならきっとうまくリカと会えるようにしてくれるだろう。けれど、ここまできても、まだ心は惑い続けていた。
(リカに会って、なにをすればいいんだ)
俺はただ、リカのことが心配なだけなんだ。できることがあるなら力になりたい、そう思っているばかりで、いったい俺になにができるのか、なにをすればリカの力になるのかわからない。
(じゃあ、なんのために会おうっていうんだ)
リカのためになにかしたい。でも、なにがリカのためになるのかわからない。それなのにリカに会う。いったいどうしようっていうんだ。リカに会ってなにをするんだ。
降りそうで降らない空模様のように、いつまでも自分の気持ちがはっきりしない。俺はなにをするつもりでここにいるんだ。こんな状態でリカに会って、意味があるのか。
「いや」
また考えている。考えたら動けなくなる。智が言ったように、行けるところまで行くんだ。伝えたいことがある。だから伝える。その先は出たとこ勝負。それしかない。結局それしかないんだ。
校門をくぐる生徒が一人、二人と現れ、すぐに集団になった。目の前を横切っていく生徒たちが、こちらに目を向けていく。バイクに寄り掛かって余裕ぶって見せているが、内心では早くここから離れたい。俺はどんな風に見られているんだろう。智が貸してくれたピンクのハーフキャップも恥ずかしい。肝心の二人がいつまでもやって来ない。焦れて智にメールしようかと思ったとき、人波のなかに二人の姿が見えた。含み笑いの智と、その隣りで不満げな顔をしたリカが、俺を見てさらにため息をついたのがわかった。
二人で目の前までくると、
「智から聞きました。私に話があるそうですね」
リカは挨拶も無しに切り出した。
「そんな大げさなものでもないけどさ。どこか話せるところ、ないかな?」
「どこかと言われても……」
「それなら――」
と、智が言った。
「森林公園がいいと思うよ。平日は人も少ないからおすすめ」
「じゃあ、そこでいいです」
リカはピンクのメットを勝手に被ると、さっさとバックシートにおさまってしまった。智がなにか耳打ちし、リカはまたため息をつく。
「じゃあ、カズくん。リカをお願いね」
シートにまたがると、リカの腕が遠慮ぎみに回ってくる。走りだした瞬間、リカの腕に力がこもった。背中に感じるリカの存在に、心臓が高鳴る。リカを怖がらせないよう、エンジンを低く回し、ゆっくりと速度を上げていく。




