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 いつものように玄関を出た瞬間、なにかが違うと感じた。振り仰ぐと北側の空が明るい。

 ああ、今夜は整備があるのか。駅に隣接している整備基地が稼働して、敷地にある水銀灯の光が空へと溢れているのだ。

 駅へ近付くほど、普段との違いが大きくなる。いつもは夜闇に沈んでいる家々がいまは片面を青白く染め、反対面には濃密な闇を作っている。立ち並ぶ街路灯の光はいつもより暗く、なのにいつもより遠くまで見通せる。

 駅前まで来ると、駅舎の背後から溢れる水銀灯の光がマンションの四階から上を真っ白く照らし、あちこち乱反射した光が夜の溜まる奥までうっすらと射している。雪の降った夜のような淡い明るさが、夜の力を弱めている。

「なんか、落ち着かねえな」

「らしくないこと言って」

 アキのつぶやきに智が応じ、みんながそうだそうだと囃し立てる。しかし、じっさいアキの言う通り、今夜はなんだか話が弾まない。いつもと違う配光は、座りこむ俺たちを穏やかになだめ、みんななんとなく沈黙して、整備場の奥から響いてくる機械音に耳を傾けている。カーン、カーンと一定のリズムで金属音が響き、それはマンションの外壁に反響して、不思議な居心地のよさで俺たちを包み、吸い取った言葉を、また遠い金属の響きにして返してくる。

(こういう静かな夜もいいな)

 そう思ったとき、智がリカの耳元に口を寄せ、

「こういう静かな夜もいいね」

同じことをささやいたのが聞こえた。

 リカが小さくうなずく。なにか心が揺れた。嬉しいような恥ずかしいような困ったような、いろいろな思いが混じりあった、そんな俺の気持ちに冷や水を浴びせるように、突然サイレンが響いた。


 短く二回、数拍おいてもう二回。全員が立ち上がっていた。どこかで犬が遠吠えを始める。同じリズムでもう一度サイレンが鳴る。駅舎の窓に明かりが点く。いつの間にか機械音は止み、沈黙した整備場を水銀灯の眩しい光が照らしている。

「なんだろう」

「事故かな」

「ちょっと見てこようぜ」

「ああ」

 アキたちが駅へと走りだそうとしたとき、

「わたし行かない!」

リカが叫んだ。

 リカは青ざめた顔で身体を硬くしている。智が駆け寄る。

「リカ、だいじょうぶ?」

「いい、わたし行かない」

 リカは同じことを繰り返す。

「なんだよ、リカ。平気だって。どうせたいしたこと――」

「ごめん、智。わたし先帰る」

 アキの言葉を遮り、リカは身を翻す。

「リカ、部屋まで一緒に行こうか」

「いい」

 リカは目もくれず、逃げるようにエレベーターに乗り込むと、智の視線にも気づかずに上へとあがっていってしまった。アキ達は顔を見合わせていたが、

「おい智、様子見てこようぜ」

もう一度声をかけられても、智はじっとマンションを見上げたまま動こうとしない。アキが俺へと視線を向けてくる。首を振ると、

「じゃあ、オレらで見てくるわ」

アキたちは走りだす。不安げな智の横顔につられて見上げると、マンションの外壁からも二人ほどが首を出し、整備場の様子をうかがっている。顔を戻すと智の視線とぶつかった。智は作り笑いを見せたが、すぐにしゃがみこみ、膝に顔を埋めてしまった。

 なにかあったの―― そう聞けずにいると、

「ねぇ、カズくん……」

智は顔を埋めたまま、口を開いた。

「リカは、カズくんの家で勉強教わってるでしょ」

「ああ」

「なら、リカのこと、少しは聞いてる?」

「いや、べつになにも」

「……リカがお父さん亡くしてることは、知ってる?」

「いや……、知らない」

 智は少し沈黙してから続けた。

「アキたちも詳しいことは知らないから、だから、さっきみたいなのも仕方ないんだ……」

 智は顔を上げ、整備場へ目を向けた。

「リカのお父さんも、あそこの整備士だったの。そして仕事中に事故にあったんだ」

「事故?」

「三年前の一二月、雪の夜だったよ。私たち中三でさ、受験の直前だったんだ。リカのお父さん、体調が悪かったのに無理して出勤して、電車の前に倒れこんじゃって、それで……」

 整備場で人が死ぬような事故が起こっていた。しかも、それは毎日顔を合わせているリカの家族のことだったなんて。

「でもね、リカは自殺かもしれないって思ってる」

「え、」

「その頃、リカのおとうさん、ものすごく忙しかったんだって。すごく大変で、辛くなっちゃったんじゃないかって、リカはそう思ってる」

 智はうつむいて、静かに息を吐いた。

「リカね、お母さんともうまくいってないの。家の中も荒れててね、お母さんも大変なんだろうけど、家の中のことは全部リカがやってるの。リカのお母さんとカズくんのお母さんって、同じ病院で働いてるんでしょ」

「そうらしいけど」

「それでカズくんのお母さんに家庭教師の先生紹介してもらったんだよね。でも、その先生も本当は苦手なんだって。考え方がぜんぜん合わないって言ってた。ずっと我慢してるって」

「え、結構すごい先生のはずだけど」

「うん、でも、いろいろと変なこと言うんだって」

 智は立ち上がって続ける。

「自分は宇宙の意思に従ってるとか、あなたも神の言葉に従いなさいとか、カズくんの両親のことも、いろいろ言ってるみたいだよ」

 あの藤田先生が? にわかには信じられない。

「けどね、そのこともお母さんには言わないの。気をつかってる。『やめたいって言えば』って言っても、自分が我慢すれば済むからって」

 なんだか、リカのイメージと違う。

「なぁ、リカはもっと強い子だろう。どんな話をするときでも、理想からいえばこうあるべきだ、そのためにはこうするべきだって、いつもそんなことを言うじゃないか。どんなことでも絶対に曖昧にしないで、白黒はっきりするまで立ち向かうような、リカはそういう子だろう」

「違う、違うよ。リカはそういう子じゃないよ。立ち向かっていけるような子じゃないよ。たしかにリカは、よく理想とか未来とかの話をするけど、それもお父さんのことがあったからなの。お父さんが死ぬことになったのはどうしてか、なにが悪かったのか、どうすればよかったのか、リカの考えの大本はそれなの」

「どうしてそれで未来の話になるのさ?」

 智はすこし視線を外し、かすれたような笑みを浮かべた。

「お父さんの事があってから、少しの間リカと交換日記してた。なにかしてあげたくて、でもどうしていいかわからなくて、そんなことしか思いつかなくて……、お節介かなって思ったけど、無理やり付き合わせた。初めはつまらない、本当にただの日記だったけど、リカはだんだんと自分の考えを書いてくるようになったの。どうしていればお父さんは死なずにすんだのかって、そればかり。自分がもっといい成績をとっていればよかったのか。逆にめちゃくちゃ悪い成績だったらよかったんじゃないか。夏休みの家族旅行を嫌がったからいけなかったのか。合唱部に入ったのがいけなかったんだ、朝ごはんを和食にしていればよかった、自分が男に生まれていれば、どうしていればお父さんは死なずにすんだのかって、ずっとそればかり、独り言みたいに」

「部活も朝ごはんも、そんなのぜんぜん関係ないだろう」

「うん。だけどあの頃のリカはそうだった。答えのないものをずっと考えてて、いつまでも同じところをぐるぐるとまわってた」

 答えのないものを、いつまでも……。

「思いつくまま書き綴ってくるばかりで、話もちゃんとしてなくて、いつもいつも同じような内容で、ただの独り言で……、あたしなんか、いてもいなくても、関係……なくて……、続けるのが辛かった。あたしのやってることは無意味だって思えて、やめたいって言いたくて、でもリカのこと……、放っておけなくて、ずっと言い出せなくて……」

 智が鼻をすする。

「でもね、いつの間にかリカの言葉は少しだけ変わっていたの。どうしていればお父さんは死なずにすんだのかっていうところから、お父さんの苦しみはどこから来たのか、って変わっていったの。自分たち家族が悪かったのか、会社が悪かったのか、ひょっとして社会全体が悪いのか、日本中にこんな苦しみがあって、自分のように辛い思いをする人が、これからも現れるんじゃないのか――」

 智はマンションを見上げる。

「リカは最後にね、いつか人間は変わるはずだ、って書いてきた。これまで人間が進歩してきたのなら、これからも進歩しつづけて、未来では誰もこんな思いをしないようになってほしい、そういう世界まで人間がたどり着けるなら、自分も報われるって……、それで日記は終わったの」

 思いもしなかった。リカも苦しんでいる。リカの家庭のことも、藤田先生を苦手だと思っていることも、俺はリカのことをなにも知らないまま、勝手にどんな物事にも立ち向かっていく強い女の子だと思っていた。あの力のこもった瞳は、どんな困難でも切り拓いていく強い意思だと思っていた。そうではなく、こらえている悲しみの光なのか、それとも遠い未来へ向けた祈りなのか……。

 煌々と水銀の輝く整備場。その奥から微かなさざめきが伝わってきた。続いてモーターが回転を始める音が響き始める。管楽器が音合わせをしているような柔らかな音が、滑らかに音階を上げていく。規則的な金属の打音が加わる。整備場が再び稼動しはじめた。智は携帯を取り出すと、二つ三つキーをつついて耳に当てた。

「アキ、どこ? ……うん、……そう、じゃあ先帰るね」

 電話を切った智が「帰ろ」と言った。

「事故はどうだったの?」

「変わった様子ないって。べつに騒ぐことでもなかったのかな」

 マンションを見上げると、顔を出していた人もいなくなっていた。

 なにも話さずに歩き、智の家の前でおやすみだけを言ってわかれた。

 そして、リカは夜会に来なくなった。


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