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 カーテンの隙間から光が射しこんでいる。斜めになった光の帯のなかを埃が舞っている。時計は午後三時を過ぎている。好き勝手に寝て起きてするようになってから、いったいどれだけ経つのだろう。

 のそのそと体を起こす。頭が痒い。髪がべったりと重い。何日も前から不快に感じていたが、もう限界だ。

 そっと戸を開ける。父も母も居ないはずだが、それでも足音を殺して階段を降りる。家は静かだった。

 なん日ぶりかのシャワーで全身を洗う。髭をあて、滝行のように頭から何十分もお湯を浴びる。風呂をあがり、食パンを口に入れ、牛乳で流し込む。なんだか家の中が散らかっている。食器が溜まり、洗濯物が取り込まれたまま、山になっている。新聞のテレビ欄を見ようとしたが、どこにも見あたらない。まさかと思いながら玄関から細く覗き見ると、郵便受けに朝刊がそのまま残っている。親父もお袋もなにやってるんだ。

 サンダルをつっかけ、素早く外へ出て新聞を取り、家に入ろうとしたとき、

「おや、息子さんですか。こんにちは」

突然の声に振り向くと、門のところに見知らぬ男が笑いながら立っていた。

「息子さんに会うのは初めてですね。これからよろしくお願いしますね」

「はい?」

 あご周りがぽってりとたるんだ中年の男が、玄関先まで無遠慮に入ってくる。背は高いが体は太く丸っこい。

「お父さんは中にいますか?」

「まだ仕事から帰っていませんが」

 親父の知り合いだろうか。シャワーを済ませておいてよかった。

「そうですか。うーん……、息子さん、お父さんから聞いていませんか? 金額のこと」

「なんのことですか?」

「じゃあ、ちょっと中を見せてもらいますね」

 男は突然、家に入り込もうとした。

「ちょっと、なんですか。困りますよ」

 男の前に手を差し入れて立ちふさがると、

「そうですか? じゃあ外で話しましょうか」

がしりと手首を取られ、斜め下へ引っ張られた。

「ちょっと、うわっ」

 なにをされたのか、体がコマのようにくるんと回され、腕が背中へと回った。ミシリと肩の関節に痛みが走り、それを逃がそうと、思わず上体を下げたところへ、男の太った身体がのしかかってきた。

「な、なにを、あっ!」

 男を押し退けようとした瞬間、肩が悲鳴を上げた。手首を掴まれたまま右腕が背中へと回されていて、くいと引かれるだけで肩に激痛が走る。体はお辞儀のように水平まで下げさせられ、首の上に相手の大きく重たい体がのしかかっている。体を上げることができない。かといって下に逃げようとすれば、肩が無理な方向にねじれてしまう。

「なんですか、なにをするんですか」

 抵抗のそぶりを見せるとすぐさま腕を引かれ、肩が砕けそうな痛みに襲われる。身動きを封じられ、されるがままに道路まで引き出される。

「やめてください。なんだっていうんですか」

 言葉だけで精一杯の抵抗を示したものの、男はこちらを無視したまま、うっとりとした声で言った。

「素敵な家ですよね。いったい、いくら出せばいいんでしょうね」

 なんだって。

「ひょっとして、家を売る話になってるんですか?」

「はい。素敵でしょう。恐竜のいる家なんて他にありませんから。はやく欲しいんですけど、いくら出せばいいのか答えてくれないんですよ」

 なんだよ、それ。そんな話聞いてない。家を売る? どうして?  親父、なにか借金でもあるのか? 俺がこんな風になってしまったことと、なにか関係あるのか? この男は誰だ? ひょっとして暴力団かなにかなのか?

「息子さん、聞いていませんか」

「え……?」

「ですから、この家、いくらなら売ってくれるのか、聞いていませんか?」

「そんな話、ぜんぜん知りません。それより腕を放してください」

 ずっと頭を下げたままの姿勢が、こんなに苦しいなんて。体を揺すってわずかな抵抗を示す。

「家を売るなんて、いま初めて聞きました。なんでそんなことになってるんですか。うちの親、なにかあったんですか?」

 強引に首を回して見上げると、男はうす笑いを浮かべたまま家を見つめ、口の中だけで声に出さぬよう、なにかつぶやいている。その口の動きがだんだんと早くなっていく。小さく漏れ始める声のトーンが上がりだし、くすくすとした笑いが混ざり始める。なんだ、この人は。なにかおかしい。目を大きく開き、興奮したように、ひとりでおしゃべりに夢中になっている。

「もう放してください。僕はなにもわからないですから!」

 大声を出し、もう一度強く体を揺すると、男はビクッと体を震わせ、しゃべるのをやめて顔をこちらに向けた。ぽかんとした顔が何秒か続いてから、男はゆっくりと顔を戻し、こちらの腕を掴んだまま歩きはじめた。

「ちょっと、どこへ行くんですか、離してくださいよ!」

 横向きに引きずられ、サンダルが足から脱げそうになる。男の顔からは表情が消え、こちらの腕を掴んでいることも忘れているようだ。

「本当にもう離してくださいよ!」

 力任せに腕を引こうとするが、肩の痛みで大きく動かせない。男の握力はとても強く、まるで機械にロックされているようにびくともしない。男は妙に左右へゆらゆらと歩き、踏み出す足にも不思議なリズムがある。歩調を合わせづらい。ゆらゆらした歩きとは対照的に、視線にはまったく揺らぎがない。さっきまでの陽気さはなくなり、男は無表情に前を見つめたまま、どんどん歩いていく。

「どこへ行くんです。どうして僕を連れていくんですか」

 もう一度声をかけるが、男はなんの反応も返さない。ダメだ、誰かに助けてもらわないと。首を曲げてあたりを見回したとき、

「あれ、カズくん? おーい」

声がした。見ると制服姿の男女が歩いてくる。緩くウェーブした栗色の髪。元気が溢れているような笑顔。前田智と、その隣には、あの夜ムスッと一人だけ距離をとっていたアキの姿があった。

「おい、あれ、カイターだ」

 アキはそう言うと、俺がなにも言わぬうちにだっと走り寄り、男の前に立ちふさがった。

「おい、カイター。今度はなにを買うっていうんだ?」

 進路をふさがれた男は急にオロオロとしはじめた。

「な、なんですか。邪魔しないでくださいよ」

 智も遅れてアキの横に駆け並ぶ。

「ぼ、僕は恐竜の家を買って、そうしたら、この人と二人で住もうって、そう思ってるだけなんだから」

「な?!」

 驚いて振り仰いでしまった。なに言ってるんだ、こいつは?

 智とアキは、目を合わせてなにか意思を交わす。

「ごめんね、カイター。あの恐竜はね、もうあたしが先に買うって約束しちゃったんだ。だから別なの買って」

「なんで邪魔するんですか。それに僕は、そんな変な名前じゃない」

「うっせえ。いいから手ぇ離せ」

 アキが男の手首を掴む。握り込まれていた力が弛んだ。急いで手を引き抜き、男から距離をとる。アキが男の背中を突き飛ばす。

「おら、さっさと消えろ。人に迷惑ばっかかけてんじゃねえよ」

 男はすごすごと去っていく。角を曲がって見えなくなり、ようやく三人で顔を合わせた。

「大丈夫、カズくん?」

「ありがとう、助かった。なんなの、あの人。カイターっていうの?」

 ねじり上げられていた肩が、まだズキズキと痛む。

「それはあたしたちが勝手につけたあだ名。買いたがりのカイター」

「買いたがり?」

「なんだかね、ちょっと頭がおかしくなっちゃったみたいなんだ。時々ふらふらしてるの、去年くらいから。ね、アキ」

「ああ、うちも前やられたんだ。いきなり押しかけてきて、犬と犬小屋を買いに来ましたって、札束突きつけてきやがった。わけわかんねえ」

「なに、それ?」

「えっとねー、リカが言ってたんだけどね、例えば散歩とかしてるときにさ、ちょっと素敵な物見つけたとするじゃない? いいなー、ウチにもああいうの置きたいなー、なんて思ったりするもの。そんなときにね、頭の中に『じゃあ売ってあげますよ』みたいな声が聞こえちゃうんじゃないかって。それで本人はその気になっちゃう、そんな病気みたい」

「なにそれ、そんな病気あるの?」

「ねー、ワケわかんないよね」

 コロコロと笑ってから「でも、」と智は真顔になった。

「でも、あれでも昔は、すごいエリートだったって話なんだよ」

「あんたもガツンと言えよ」

 腹立たしげにアキが言った。

「ぼけっと言いなりになってっから、こんなメンドーなことになんだろーが」

「アキ、口が悪いよ」

「うっせぇ、ほんとのことだろ。だらしねえぜ、あんなおっさんに、いいようにされてよ」

「アキ、やめなよ!」

 アキは舌打ちして横をむく。二ヶ月前のあの夜、こいつはムスッとした顔で、離れたところから俺をにらみつけていただけだった。一度も言葉を交わしていなかったはずだ。それなのに、いまこいつは俺が困っているのを見た瞬間に助けにきてくれた。俺がなにも言わないうちに、だ。

「ありがとう、助かった」

 アキはちらりと俺を見ると、鼻をならしてまた横を向く。智がくすりと笑う。一緒に歩いていたところをみると、ひょっとしてこのふたりは恋人同士なんだろうか。だとしたら、あの夜こいつがムスッとしていたのは、俺が突然『彼女の昔の知り合いだ』と現れたことが面白くなかった、そんなところかもしれない。智はそんなこと思いもつかないようで、

「それよりカズくん、また夜来てよ」

と口にした。

「バイク乗せてくれるって言ったじゃん。なのに、あれから来ないんだもん。ずっと楽しみにしてるのに」

「ああ、うん」

「リカも乗りたいって言ってたよ」

「嘘つけ。リカは写真見たいって言ってるだけじゃねえか」

 割り込んできたアキに向かって、智はにんまりと笑う。

「ううん。あれはね、リカも乗ってみたいって思ってるよ」

 リカの名前を聞いて、昨夜の事を思い出す。廊下に立ちつくすリカの姿が思い浮かぶ。気配を殺して小さくなっていた自分と、なにかを感じとって動けずにいたリカ。たった一枚の戸板を挟んで、たがいに動けなかったあの短い時間が、スライドショーのようによみがえる。

 きっとリカは、ただ声をかけようと、「また来ませんか」と、それだけを言うつもりだったんだ。あの時、部屋に物音ひとつでもあれば、リカはそれをきっかけにして扉を叩いてきたはずだ。そして、それがわかっていたから、俺は息を潜め、いっさいの動きを止めてリカの接近を拒んだ。

 リカはどう思っただろう。発せられる拒絶の気配をどう感じただろう。俺が顔を出せなかった窓を、ひょっとしたら外から見上げてくれていたかもしれない。それはいったいどんな顔だったろう。雨の夜に、恐竜を睨みつけていたリカの顔が浮かぶ。

「どうかした?」

 首を傾げた智が覗き込んでくる。

「ん、いや……、そういえば、ずっと前なんだけど、夜中にあそこの街灯の下に立ってた人がいてさ、なんとなくリカに似てる気がしたんだけど、あれってやっぱりリカだったのかな」

「その日って雨降ってた? もしそうなら、きっとリカだよ。なんかね、リカ、雨の日にカズくんの家の恐竜見るのが好きなんだって」

「雨の日の恐竜? なんで?」

「わけは知らない。アキは知ってる?」

「知るわけねえだろ。そんなのリカに直接聞いてみればいいじゃねえか」

「そうだよ、今夜聞いてみなよ。リカ、かならず来るんだから」

「え?」

「おい、もう行こうぜ」

「うん。じゃあね、カズくん」

「ち、ちょっと待って!」

 歩きだそうとした二人を引き留める。

 今夜って言われても、俺は……、俺は……。

「俺は……、行ってもいいのかな?」

 智が不思議そうな顔をして、それからアキを見上げる。半身に立ち止まっていたアキがまっすぐに向き直る。

「よく知んねーけど、リカがあんたを誘ったんだろ? だったらいつでも来ればいいじゃねえか。コイツとも知り合いなんだし」

 アキが肘で智をつつき、智は体ごと押し返す。

「そうだよ。遠慮なんていらないよ。どうせ、ただしゃべってるだけなんだから」

「だけど、俺は……、その、ぜんぜん知らないっていうか……」

「来たけりゃ来ればいいし、来たくないなら来なきゃいい」

 アキはクルリと振り返って歩きだす。智はこちらを向いたまま、後ろ歩きで、

「カズ君のしたいようにしていいよ。けど、来るときはバイクね。あと写真ももっと見たい。じゃあね。アキ、待ってよ!」

そう言うと、アキを追って走っていく。

 二人は「来ていい」と言ってくれた。誰に会うことも、どこへ行くこともできない俺に向かって。昨日のリカも、きっと同じことを言ってくれるはずだった。行ってもいいのか? 許されるのか?


『今夜、また来ませんか』


 よみがえる、リカの声。胸の奥に小さな火が灯る。小さな火から生まれる熱は微かで、それでも心がゆっくりと動き始める。

 放ったらかしのバイク、一度エンジンをかけておこう。写真ももっとたくさんあるんだ。

 智とアキがゆるい坂道を下っていく。二人の後ろ姿は肩がぶつかりそうなほど近く、それなのに手と手は反発する磁石のようにつながろうとしないのが、なんだか可笑しかった。家に戻ろうと振り返った先に、恐竜の後ろ姿と、その向こうに誰もいない街灯が見えた。


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