(12)
アラーム。
(んん……)
手探りで携帯を引き寄せる。
(朝……、朝かよ……)
酷い気分だった。のっそりと体を起こす。目を開けた瞬間、視界がグルリと回転した。とっさに両手で顔を覆う。なんだ、これ。視界を閉ざすと、今度は体が浮いていく。いや、落ちていく。思わず突いた手には、確かに布団とその下の畳の硬さがあるのに、体は落下している。薄く目を開け、まぶたの隙間から覗き見る。眩しい。光が突き刺さってくる。目が開けられない。重い。体が重い。空気が粘土になって、のしかかってきている。どっしりと重くて、体を起こしていられない。
布団に手を這わせるようにして、恐る恐る体を横たえる。体が沈んでいく感じがする。空気が欲しい。肺の奥まで、奥の奥まで空気を取り込みたい。何度も呼吸するが、吸い込んだ途端に飲み下すようになって吐きだしてしまう。なんだ、これ。呼吸が自由にならない。
細く目を開けてみる。眩しさは薄らいだが、体の重さと呼吸の苦しさはなくならない。首を回すこともできない。重い腕を伸ばし、指先で携帯を探って引き寄せる。
七時三十分……、いまので三十分たったのか? 早く、起きなくちゃ……。
長い時間をかけてうつぶせになり、もっと時間をかけながら身体を起こしていく。両手をついたまま座る姿勢までいき、けれど、そこからどうしても体が動かない。
(どうした、俺。なにやってるんだ、早く起きろよ)
しかし体は重力に引かれ、ぐんにゃりと突っ伏してしまう。
(しっかりしろよ。どうしたんだよ)
自分に声をかける。
(親父と顔を合わせ辛いのか。それとも不採用の連絡にヘコんでるのか。あんな会社、採用されなくてよかったんだ。早く起きて、次のところを探さないと)
体が反応しようとする。腕が体を押し上げようとする。
(そうだ、動け、動け)
しかしまた体は潰れてしまう。
なんだよ、どうすんだよ。わかった、あと五分だけ、こうしていよう。そうしたらとにかく下に行こう。
……。
…………。
………………。
おい、もう十分たつぞ。
……。
…………。
おい、もう二十分過ぎたぞ。とりあえず下に行こうぜ。なあ、俺、がんばれよ。
……。
…………。
………………。
だめだ、どうして動けないんだ。気持ちを入れ替えるって決めたのに、動かないとダメなのに、どうして動こうとしないんだ。
親父が出かける音が聞こえ、それからすぐにお袋も出ていった。家から人の気配が消えると、ようやくのそのそと下へ降りることができた。
今日もテーブルには朝食が用意してある。壁に手をつきながらソファへ進む。どさりと座りこむ。大きく息をつく。
……やらなきゃいけないだろ……やらなきゃいけない……
そのまま、時間が跳んだ。
……いろいろやらなきゃ……いろいろ……なんだっけ……就職活動だ……やらなくちゃ……
……なにか必要な物あった気がする……食事、とらないと……バイクの修理しなきゃ……やらなくちゃ……どれからやれば……
思考が止まる。肉体が虚空を見つめたまま固まり、意識はバラバラになる。バラバラになった意識は海を漂う漂流物のように、散らばり、たゆたい、少しずつ離れ、また近づき、時おり一カ所に集まったその刹那、
(ああ、やらなきゃ……)
そう思っては、またほどけて消えていく。
二時間おきに意識が生まれ、同じことを思って、消えていく。何度も時間を跳び越える。そして夕方になる頃、ゆっくりと視界が透き通っていった。
エンジンの音をぼんやりと聞いていたような気がする。ソファからゆっくり立ち上がり、明かりを点ける。色彩が戻ってくる。
(また、無駄にしてしまった)
強烈な罪悪感が湧いてくる。これじゃ、また親父になにか言われてしまう。ダメだ、こんなんじゃダメだ、こんなんじゃ……。吐いた息が震えた。
明日は今日の分まで行動しなきゃ。でもバイク壊れてるのに。あれ、さっきエンジンの音がしていたような……。
静かに玄関まで移動して耳を澄ます。なにも聞こえない。そうっと外を覗きみると、バイクの向きが変わっている。パンクしたはずのタイヤが元に戻っている。玄関脇のポストに、不自然に膨らんだ無地の封筒が差し込まれていて、中からバイクの鍵と、親父宛の請求書が出てきた。
『お父さんも反省してた』
ひょっとして、親父が修理を頼んでくれたのか。
ありがたいと思った気持ちを、もっと強い感情が一瞬で覆っていく。
(なんで勝手なことすんだよ)
苛立ちが胸にうず巻いていく。知らないうちに物事を進められたことが、ひどく不快に感じる。封筒をポストに投げ捨ててリビングに戻ると、食卓の上に手つかずの朝食が残っている。手をつけず、二階へ上がる。
(明日はちゃんとやらなければ)
今日できなかった分まで、明日はがんばらなければ。そうしなければ、本当にダメになる。仕事探しすらしなくなってしまったら、俺は……本当に俺は、どうしようもない存在になってしまう。明日は絶対に、絶対に行動しなくては。
それなのに翌日も起きられなかった。自分をどんなに励ましても、説得しても、布団から起きだせない。しっかりしろ、と自分を叱っているうちに、いつの間にか微睡みが訪れ、ふと気がついた時には、また夕方になっていた。
布団から抜け出し、なにかの痕跡を作って部屋に戻る。
このままではダメだ。とにかく起きなくては。起きてさえしまえば、きっと動ける。明日は必ず! 明日こそは必ず! そう思っても朝になると起き上がれない。次の日も、その次の日も、体はノロノロとしか動かず、それもすぐに止まってしまう。
『起きろ、起きろよ、起きなきゃダメなんだよ』
頭は必死に命令を送る。しかし、体は動こうとしない。電池の切れたリモコンを懸命に押しているように、どんなに指令を送っても体はまったく反応しない。
なんでだ、なんで俺は、動こうとしないんだ。
ようやく、トイレのついでに体は起きだすと、今度はそのまま居間のソファでパタリと横になってしまう。
動けない……
なにもできない……
ダメなのに……
やらなきゃダメなのに……
やらなきゃダメなのに……
時間だけが流れる。バラバラにちぎれた意識、撒き散らされたゴミクズのような意識、それが綿を抜かれた人形の中に詰まっている。人形は放り捨てられたように転がり、なかで心臓だけが鼓動を打っている。バラバラになった意識は、夕方になってようやくひとつになり、体へと接続され、感覚がクリアになる。そして、また一日を無駄にしたことを自覚する。
『なんでだ』
『なんでできないんだ』
強く、強く、自分に言い聞かせる。
『甘えるな』
『明日は絶対に!』
『明日こそは絶対に!』
『絶対に、どんなことがあっても、明日は!』
強く、強く、どんなに強く自分に言い聞かせても、また起きられない。そんな自分を責め、固く決意し、それでも動けない自分をまた責める。自己嫌悪を繰り返す。今日も、昨日も、一昨日も、いつからなのか、もうわからない。明日も、明後日も、その先も繰り返していく。
いつの間にか、ひと月が過ぎていた。いつからか起きることを諦めていた。日付の感覚も、時間の感覚もはっきりしない。生活はもうめちゃくちゃだった。最後に風呂に入ったのはいつだろう。食事はいつ摂ったんだろう。いつから寝ていたんだ。起きてからどれだけ経ったんだ。お袋がなにか言ってきたのはいつだった……。
区切りのつかない時間がいつまでも続いている。見えるものも、聞こえる物も、すべてがぼんやりとする。投げ捨てられたペットボトルの底に座っているような感じ。汚れ曇ったプラスチックの壁を通して世界を見ている。ぼやけた外の世界。自分とは関係のない、手の届かない世界。
自分の内側も、なにかに覆われている。空腹も、渇きも、眠気も、疲労も、なにも感じない。なにもしようと思えない。感覚の波も、感情の波も起こらない。食事をとろうとも、着替えをしようとも思えない。トイレに起きたときに、なにかモソモソと口に入れ、また眠り続ける。永遠に眠っていられると思う。そうかと思うとなにをしても眠れない。座り込んだまま、ぼんやり壁を見つめている。せめて本でも読んでいればまだマシと、開いてみても、なにが書いてあるのかわからない。マンガすら理解できない。視線は字列を追うのに、目に入るものが意味をなさない。絵も文字も頭蓋をすり抜け、こぼれ落ちていく。そして気がつくと、本を持ったまま何時間も眠りこけている。
(いったいなんのために……)
真っ黒な霧に囲まれている。足もとは底の見えない割れた地面が、どこまでも広がっている。
これまで死について考えたことはあった。死は恐ろしく、死んだらどうなるのか、どうすれば死なずに済むのかと思っていた。
いまは逆だった。なぜ生きているのか。どうすれば生きずに済むのか。死にたいわけではないが、生きていく理由がわからなかった。
また一ヶ月が過ぎた。夜のあいだは起きていられるようになった。夜はぜんぜん眠くならない。昼間は起きていられない。白んでくる空を見て眠りにつく。両親が帰ってくる前に起きだし、適当に口に入れて、急いで部屋へ逃げ込む。マンガは読めるようになった。なぜかアニメと古い映画が面白い。流行りのドラマは茶番にしか思えない。
必要な物をネットで注文し、両親のいない時間を受け取り指定する。親の目に止まらぬよう、身を潜め、パソコンでゲームをし、映画やアニメを見て過ごす。なにかを見ているときは忘れていられる。けれど終われば現実に戻る。
こんな状態がいいわけない。普通の生活のほうがいい。絶対にその方がいい。そう思う。そうは思う。けれど、どうすれば抜け出せるのかわからない。
突然、両親が医者に行こうと言ってきた。なんでいきなりそういうことを言うんだ。なんで勝手に話を進めるんだ。外へ出ることも苦痛だが、それ以上に予定外の事象が嫌で嫌でたまらない。急な物事には対応できない。そんな心がまえになっていない。それなのにしつこく外へ連れ出そうとするから、親父とつかみ合いになってしまった。力では負けなかった。親父を部屋の外へ蹴り飛ばすと、それからはなにも言ってこなくなった。
なにもない日々が流れていく。なにも起こらないことが辛い。辛いのに、このままであってほしいとも思っている。
なにかが起これば、なにかをしなければならなくなる。
なにも起こらなければ、なにもせずにいられる。
これは逃げだということも、逃げ切れないこともわかっている。誰かが本気で終わらせようとすれば、簡単に終わってしまうことも。だからといって自分から抜け出すことはできない。なにもしたくない。でもなにか変わってほしい。気持ちが波のように上下する。なんでもいいから仕事に就くべきだ。そうすれば抜け出せる気がする。なんどもそう思った。けれど就職なんかできるわけがない。何カ月も引きこもりの、こんなだらしない俺を雇ってくれるところなんかあるわけがない。こんな状態で就職活動なんかしても落ちる。ぜったい落ちるとわかっている。いま落ちたら、自分はどうなってしまうか。出版などと言っていた気持ちは、とうにどこかへ行ってしまった。だからといって、工場で作業をしたいわけでも、机に座って書類仕事をしたいわけでもない。
なにか資格でも取れば変わるのか。夢中になれる新しい趣味でも見つければ変われるのか。いっそ開き直って、わがままに、好き勝手に生きてみようか。そんなことを思うだけで、実際はなにもできやしない。
一日一日が、まるで川のようにどんどんと流れていってしまう。その流れ過ぎるさまを、座り込んだまま見つめている。いつからこうしているのか。いつまでこうしているのか。そんな自分から目を背け、ゲームやアニメに没頭する。そうでもしなければ一日を生き抜けなかった。
リカと藤田先生がやって来る夜も、また苦痛だった。
常に両親の目に止まらぬように、耳に入らぬように、と過ごしているのに、いまは壁一枚向こうにリカと藤田先生がいるのだ。
壁越しに藤田先生の長い講釈が聞こえる。リカの声は聞こえない。
リカ達の集まりに紛れ込んだあの夜から、もう二ヵ月がたっている。あの高校生たちとは結局、あの夜だけの関係でしかなかった。だからといって自分がいまこんな状態でいるなんて知られたくはない。
カチリ、カチリと、完全静粛でパソコンを使う。体を動かす音も出ないよう潜み居る。時計をにらみ、もう少し、もう少しと窮屈な姿勢をこらえ続ける。
やがて、物の動く雑然とした音が響いた。椅子の動く音とくぐもった声がする。終わった。この後、いつもリカが先に、少し遅れて藤田先生が階段を降りていく。あと少し、あと少しだけ、このまま動かずにいれば、ようやくひと息つける。
壁の向こうを気配が移動する。続いてドアの開く音。きっとリカが廊下へ出た。そして、階段を降りる足音が……、…………聞こえて…………こない?
一瞬で体が硬化した。首から肩、つま先まで、全身の筋肉が硬直し、すべてそのままで動きを止める。
リカが階段を降りていかない。すぐそこに、薄い戸板を挟んだ、ほんの数メートル背後に、リカがいる。心臓の音が上がる。背中に神経が集まる。顔は前を向いて固まったまま、見えるはずもないのに眼球が後ろを確認しようと動く。なぜ帰らない。どうして降りていかない。そこでなにをしているんだ。
大きくなる呼吸を懸命に抑える。今にも扉が叩かれそうな気配を感じる。部屋中に緊張のオーラが満ち、それは引き戸の隙間から廊下に溢れて、きっとリカにも伝わっている。俺がこの部屋にいると、リカはきっと気づいている。どうしてそこにいる。なにをしようとしている。どうして扉を叩いてこない。なにか迷っているのか。
(だったら、そのまま帰ってくれ!)
目を固く瞑り、拒絶の思念を戸口へ向ける。ミシリと音がした。やっぱりいる! 衣擦れの音を立てぬよう、おそるおそる首を回す。視界ぎりぎりに引き戸を見据える。あの向こうにリカがいる。
『今夜、また来ませんか』
二か月前のリカの言葉が浮かぶ。
『辛そうな人を見ると、つい……』
ひょっとしたら、リカなら助けてくれるんじゃないのか。リカならわかってくれるんじゃないのか。なにもできない、なにもしようとしない、こんなみっともない俺を、またあの集まりに誘ってくれるんじゃ……。
だが、いまの姿はどうだ。何日も風呂に入らず、着替えもせず、髪も髭もぐちゃぐちゃのこんな姿を見せられるわけがない。
そう、俺の勝手な願望なんだ。二か月前に一度会っただけの女の子が俺を助けてくれるなんて、そんなことあるわけがない。リカに俺を助ける理由なんてない。それに、きっと俺は変われない。誰がなにを言ったところで、俺はここから抜け出せない。
黒い霞が周りを覆っていく。
わかってくれるはずがない。助けてくれるはずがない。
霞は薄く薄く、けれど幾重にも自分を包んでいく。その濁りは徐々に濃さを増し、ついには真っ黒な闇となって覆いつくす。
なにも変わらない。抜け出せるわけがない。余計なことをしないでくれ。放っておいてくれ。声をかけないでくれ。俺を見ないでくれ。
止まっていた時間を動かしたのは俺でもリカでもなかった。隣りの部屋から椅子のきしむ音が聞こえ、廊下へ出た藤田先生の声がした。
「あら、リカちゃん、どうかしたの?」
「いえ、なんでもありません」
二人の足音が階段を降りていく。遠退いていく。行ってしまう。いますぐ戸を開けて声をかければ、リカはきっと……、いや、ダメだ、この汚らしい姿ではダメだ。階下から聞き取れないやり取りが二、三聞こえ、玄関扉の音がした。リカはいま、すぐ下にいる。いますぐ目の前の窓を開けて顔を出せば、すぐ下に……、だが、こんな姿では……。
腕を抱きかかえ、畳に倒れ込んで縮こまる。気持ちを押さえこむ。
なにかが、潰れていく。




