フック船長、子供の姿で現代に立つ
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チックタックチックタック……
時計の音がする。あの音は嫌いだ。そして怖い……。
なぜかって? それは――あの音が聞こえるということはヤツが近くにいるということだからだ。あの――巨大なワニ。
私の左手を食べた『チクタクワニ』がな!
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大きな口が上下に開き私を飲み込もうとする。鋭い牙が並び、喉の奥は真っ暗な闇である――。
「うわぁぁぁッ!」
私は目覚めると同時に大声をあげた。いや、大声をあげたから目覚めたのか?
まあ、そんなことはどちらでもよい。しかし――我ながら情けない声をあげてしまったものである。
「――気がついたの? よかったぁ、揺すっても起きないから救急車を呼ぼうとしていたのよ」
そんな声に見上げれば、私の横に女がいた。驚いたことに大人の女だ。
「大丈夫? なんでこんなところで倒れてたのか憶えてるかな?」
膝をついているその女が心配そうに私をのぞき込んでくる。
大人といっても私よりもずいぶん年下のようだが……。この女、目上に対する言葉使いというものを知らんのか?
「なぜと言われても……ん? う゛う゛ん……」
なぜと言われても記憶が定かではないのだ――そう答えようとしたのだが、自分の声に違和感を感じた私は軽く咳払いをする。寝起きだからなのか、いつもよりも声が高いようだ。
それにしてもこの女。いつまで私を見下ろしているつもりなのか。
「動けるの? なんで倒れたのかわからないから無理しない方がいいよ」
女は立ち上がろうとした私にそう言うが、それを無視して立ち上がる。
「これは……。なんだ? ここは巨人の国なのか?」
立ち上がってみて私は再度驚いた。この女よりも少しだけ高くなっただけだったのだ。
目線は女よりも高くはなったが、それでもこの女が膝をついている事には変わりない。女が立ち上がれば、おそらく私の倍以上の身長となるだろう。
「巨人の国? キミおもしろいことを言うのね。やっぱりそんなコスプレをしているからフック船長になりきっているのかな?」
女がクスクスと笑う。
コスプレ?――私の格好はフリルのついた絹のシャツに真っ赤なジャケット。いつも通りの服装である。コスプレというのがなんのことなのかはわからんが、私を知っているのなら話は早い。
「いかにも。海賊船ジョリー・ロジャー号の船長、ジェームズ・フックとは私のことである。女、答えよ。ここは何という国なのだ」
「国? ここは日本だよ。それよりも親御さんはどこにいるのかな? 迷子なら一緒に交番まで行ってあげるよ」
「ま、迷子だと!?」
私は目を見張る。
このジェームズ・フック。多くの手下を従える海賊船の船長である。大人であっても、私の半分ほどしかなさそうな年齢の小娘に子供扱いされるいわれなどない!
「誰が迷子か! どこをどう見れば私が子供に見えるのだっ!」
「どこをどうって……見たままだよ。本当に大丈夫? 倒れた時に頭でも打ったのかな……」
女は再び心配そうな目で私を見つめてくる。
そんな様子に私は口もとがヒクついた。そして気付く。握っている右の拳がやけに小さいことに。
「なんだこの手は……?」
嫌な予感がした私は周りを見回す。
今が夜であるということがわかるだけで、ここは見たことのない風景である。それなりに広い広場に噴水があり……。
「噴水……そうだ!」
私は駆けだした。水があるのなら自分の姿を確認することができるはずだ。
焦る気持ちから足がもつれるが、私はなんとか噴水の縁にたどり着いて水面をのぞき込む。
「な、何ということだ……」
右手で自分の顔に触れ、何度も確認するが映るものは変わらない。
それはまぎれもなく子供の顔――このジェームズ・フックがまだ子供であった頃の顔であった。
「急に走り出して、どうしちゃったの? はいこれ、帽子を忘れてるよ」
追いかけてきた女が帽子を差し出してくる。それは羽根飾りのついた自慢の帽子である。
私は帽子を受け取り目深に被る。
「ここは日本だと言ったな? 聞いたことのない国だ。女、再び問う。この国はネバーランドのどのあたりにある国なのか」
女の顔をまともに見られないのは、今だ嫌な予感が続いているからである。
「ネバーランドって、あのピーターパンのお話に出てくるあれ? あれはお話のなかにある所で、現実にある場所じゃないんだよ。――あ、でも、信じていればいつかそこに行けるかもね」
女の言葉に、私は奥歯を噛みしめた。
やはりここはネバーランドではないらしい。最後の一言は、子供の夢を壊さないよう気遣ったのであろう。しかし私は知っている。ネバーランドは実際にあるのだということを。なぜならば――
私はそのネバーランドにいたのだから。
「私はネバーランドに戻りたい。女よ、今一度聞かせてくれ。ここがネバーランドではないのなら、なぜピーターパン――あの小僧のことを知っておるのだ?」
私は目線を上げ、帽子の縁を持ち上げた。
あの小僧は時折別世界へ行き、その世界の子供をネバーランドに連れてくることがあった。この女、あの小僧のことを知っているのなら、ネバーランドへ戻る手がかりになる情報も持っているかもしれない。
「どうした? なぜ黙っておる」
女は問いに答えることなく、青ざめた顔でじっと私を見つめている。正確に言えば、女は帽子を上げた私の左手を見つめていた。
「そ、その手――どうしちゃったの……」
私の左手はなく、手首から先はカギ爪になっている。女はこれに驚いたらしい。
「これか? これはあのいまいましい小僧に切り落とされ、ワニに――」
「どうしよう! これって幼児虐待!? 自分の子供に酷いことする親がいるってニュースは見たことはあるけど……こんなの酷過ぎるっ!」
「いや、だから、これはピーターのやつに切り落とされて――」
「もしかして交番に連れてっても……お家に帰ったら、もっと酷いコトされちゃうのかな?」
「私の話を聞け。左手はワニに喰われてしまってだな――」
「わかった! だから逃げてきたのね! けど行くところもなくて、キミはこんな夜まで歩くしかなかった。歩き疲れたキミは休もうとこの広場まで来たんだけど――。ああ……なんて可哀そうなの!」
女はグイっと私を引き寄せ、私を強く抱きしめた。
ダメだ。この女、人の話を聞きやしない。
「とにかく、今晩はお姉さんの家にいらっしゃい。明日、警察とか児童保護をしてくれるところへ連絡してあげるわ」
鼻息荒い女を見て、私は今は何を言っても無駄だと諦めた。
「女、私は腹が減っておる。金は出してやるから、何か食える店へ連れていけ」
私がそう言うと、女は目じりの涙を拭って微笑んだ。
「そうよね。ずっと歩いてたんだもん、お腹減ってるよね。この近くにファストフード店があるから、そこで何か食べよ。あと――お姉さんの名前はね、大里茜っていうの。出来たら『女』じゃなくて、『大里さん』とか『茜さん』って呼んでくれるとうれしいな」
立ち上がった女――アカネは私の右手を引いて歩き出す。
どうやらファストフードとかいう店に行くようだ。途中で「なんでコスプレしているのか――は、訊かない方がいいのかな……」というつぶやきが聞こえてきたのだが、私は聞こえないふりをする。なにを訊ねられても答えようがないのだ。逆に私の方から話を振り、『チクタクワニ』に喰われたはずの私がなぜこの世界に来たのかのヒントを掴もうと思う。
私はまだ生きている。ならば、私はネバーランドへ戻らなければならないのだ。
◇
う~む……。この『はんばーがー』とかいうサンドイッチはじつに旨いものである。手下たちにも食わせてやりたい。飲み物がワインでないのが残念ではあるが、口の中がざわざわするこの『こーら』というものも悪くはない。
「そんなにおいしい? もう一個買ってこようか?」
その言葉に、私は指を二本立てる。
「はいはい、ハンバーガーもう二つね。ちょっと待ってて」
席を立ったアカネは笑顔で手を振り『れじ』とかいうところへ向かって行く。
先ほど、ここはやはりネバーランドとは違う世界であるということを知った。
金は私が出すつもりだったのだが、なぜか私が持っている金貨では支払いができないらしい。結局アカネに払わせることになってしまったのだが――。なぜあんな紙切れに金貨よりも高い価値があるのか理解不能である。
それともう一つ。この世界にはまだ時計が存在しているようだ。ネバーランドに時計はない。あの小僧が全て壊してしまったからだ。最後の一個を私が持っていたのだが、それは切り落とされた左手と共にワニのやつに喰われてしまっている。
もしあの小僧がネバーランドではなく、この世界を住処にしようとするならば、この世界の時計も全て破壊されてしまうのだろう――。そんなことを許すわけにはいかない。
「はい、お待たせ」
アカネが戻ってきた。
トレーには『はんばーがー』が三つある。
「二つでよかったのだぞ」
「フッくんの食べっぷりを見てたら、もう一つ食べたくなっちゃってね」
アカネはペロッと舌を出して席に着く。
『フッくん』とは私のことらしい。『船長』と呼べと言ったのだがアカネは笑って誤魔化すだけ。子供扱いされるのは気に入らないが、今の容姿が容姿だけに仕方ない。それに、アカネにはいろいろと訊きたい事もあるのであまり強く出ることも出来ない――。
「ほほう。では、その物語のなかではこのジェームズ・フックが悪役というわけだな」
「フッくんじゃなくて、ピーターパンのお話に出てくる『フック船長』が、だけどね」
『こーら』を飲み終えて残った氷をボリボリ噛む私に、アカネは両肘をついた手に顔を乗せながら微笑んでいる。
アカネの話では、あの小僧やこのジェームズ・フックは創作された物語のなかの人物らしい。
子供たちの国を脅かす『フック船長』を『ピーターパン』がやっつけるというような物語――。まあ見方によってはそう見えなくもないが、とんでもない誤解をされているようである。それと、アカネの話からなぜ私が子供の姿でこの世界にいるのかを知ることは出来なかった。
物語は『フック船長』が『チクタクワニ』に食べられたことでネバーランドが平和になったところで終わっており、その後のネバーランドがどうなったのかがわからない。
冗談ではない! ずる賢く残忍で、ネバーランドの秩序を乱したのはあの小僧の方ではないか!
私が氷を噛んでいるのは、そんな自分の怒りを抑えるためでもある。
「それにしても……わかってはいたけど、フッくんのその格好って目立つよね」
アカネが周りを気にするので、私も周りに目を向けた。
“この辺りでコスプレのイベントってあったっけ?”
“そんなのいいじゃん似合ってるし。それにあの子可愛いし”
同じ服を着た女たち。大人に近いそんな子供が私に目を向けている。
彼女たちだけではなく、別の席に座っている者達の多くも私をチラチラと見ている。どうやら、私の服装はこの世界では浮いてしまうようだ。
「そ、そろそろ出ようか」
注目されているのを意識してしまったのか、アカネはバッグ手にして立ち上がった。
「ん」
口内に残っていた氷を流し込み、私も立ち上がる。
そしてまた後で食べる用の『はんばーがー』を購入し、私たちは店を出た。
◇
私たちはまた噴水のある広場に戻ってきた。
夜も更けているからなのか、私たち以外誰の姿もない。
「フッくんどうしたの? フック船長が悪者っていうのが気に障ったのかな」
不意にそんな事を言われ、私は思わずアカネを見上げた。
「気付いておったのか」
「もちろん。氷を食べて誤魔化してたけど、目が怒ってたもん。やっぱり、フック船長が好きだからそんなコスプレしているんだね」
「だ・か・ら、私がそのフック船長なのだと言っておろうが」
「はいはい。そんなふくれっ面しても、可愛いだけだよ」
私が何度説明してもアカネには意味がないようだ。
「まったく。これでは本当はピーターパンが悪者なのだといっても信じてくれそうもないな」
立ち止まった私があきらめのため息を吐くと、アカネも立ち止まり振り返る。
「そうなの? ピーターパンが? ――なんで?」
少し考えたのだろうが、その答えがわからなかったらしい。
「ピーターパン――あの小僧はな、ネバーランドの子供たちから時間を奪い去ってしまったのだよ。そのせいで、子供たちは大人になれなくなってしまったのだ」
「それって悪い事なの? 私は大人になっちゃったけど、出来ることならずっと子供のままでいたいけどな」
アカネは困ったように笑う。
私はそんなアカネを見据えた。
「考えてもみろ。大人とは子供が成長した姿である。身体の大きさだけを言っているのではない。子供は時間という時を過ごしながらたくさんのことを経験して成長していくものだ。ピーターパンが奪い去った時間というのはな、子供たちが何を経験してもそれを成長の糧にすることができない呪いのことなのだ。その結果、子供たちは身勝手なまま。他の者に対する本当の優しさや愛しみを覚えることなく身体だけが大きくなっていく――。このままではネバーランドの人々に未来などない」
「ネバーランドって子供が子供のままでいられるところじゃなかったの?」
「心が――という意味では今のネバーランドはそうなってしまっている。しかしそれだと世界はどうなる? 子供が子供のままでいられると言われれば聞こえは良いかもしれんが――――。とにかく、私はまだこうして生きている。ならばネバーランドへ戻らなければならない。ピーターパンの呪いを解くには奴を倒すほかはないのだからな」
「なんだか、フッくんが大人に見えるよ」
「ふん。何度も言っておるが、私は大人だ」
「そうだね。こんなにちっちゃくて可愛いけど、心は大人なんだよね~」
「……アカネ。私の話を真面目に聞いてくれていたのではなかったのか?」
しゃがんで頭を撫でてくるアカネに私の肩が震えだす。
「聞いていたよ。大人びたフッくんも可愛いね~」
「全然わかっておらんではないか」
なんだかとても悔しくて涙が出そうになってくる。これも身体が子供になってしまったからなのかもしれない。
「それにしても、けっこう遅い時間になっちゃったね。仕事が終わったのも遅かったし、ご飯食べに行っちゃったし、泊めてあげるから早く帰ろうね。明日は休みだから、フッくんに付き合ってあげるよ」
アカネは左手首の時計に目を移す。
時間の針は11時32分をさしている。この世界は24時間周期だから、23時32分となるそうだ。
アカネが腕時計を見せてくれたのだが、私は思わず一歩引いてしまう。どうも時計は苦手である。それはあのワニを思い出してしまうからだ。
「なに? もしかして、フッくんは『フック船長』だから時計が怖いのかな?」
アカネに図星を指され、私は顔が真っ赤になるのを感じた。
「べ、別に怖くなんてないぞこんなもの」
私はアカネの時計を指ではじく。すると、どこからか音がしだした。
「あれ? なんだろう、この音……」
アカネも気が付いたようだ。彼女は何の音だかわからないようだが、私は違う。
私は何度もこの音を聞いている。それはかつて私が愛用していた時計の音――。そして、今はアイツの腹のなかにあるはずの時計の音だ。
チックタックチックタック……
その音はどんどん大きくなる。そして宙に渦巻く大穴が開いたかと思うと、その穴からアイツが現れたのだ。
「ひヤぁぁぁぁぁ……ッ!」
その叫び声はアカネのものではなくこの私が発したものである。
いろんな世界にどんな恐ろしい生物がいようとも、私が心底怖いただ一つの生物は――
「な、なんなのこのバカでっかいワニは!?」
アカネも驚くこの『チクタクワニ』だけである。
<ドウモ噛み応えがナカッタトオモエバ、オレの口内にアル異世界の門をトオッテイタトハナ>
身の丈20メートルはあろうかというチクタクワニが私を見据えてくる。
どうやらネバーランドでチクタクワニに喰われた時、私はその口内で咬まれないようもがいているうちに異世界の門というものをくぐり抜けてしまったらしい。
今までピーターパンがどうやって異世界の子供たちを連れてくるのか不思議に思っていたのだが、それはこのチクタクワニが一役かっていたようだ。
「わ、ワニがしゃべった!?」
驚くアカネ。
「こちらの世界のワニはじゃべらんのか?」
「しゃべらない。ぜぇったいにしゃべったりしないっ!」
なるほど。世界によって話ができるワニと話ができないワニがいるらしい。
――と、私は冷静を装ってみるものの心は正直なものである。チクタクワニが現れた途端、私はアカネにしがみついていた。
怖いのはアカネも同じようで、私たちは抱き合うカタチになっている。
<フックよ、オマエの左手はウマカッタゾ。コンドコソオマエモ喰ってヤロウ>
そんなことはまっぴらご免である! 私は一目散に逃げだした。
ネバーランドへ戻りあの小僧を倒すつもりでいたのだが、またチクタクワニに喰われなければならないとなると話は別である。宙に渦巻く黒い穴へ入っても戻れるのかもしれないが、それをするにはやはりチクタクワニへと向かって行かなければならない。
私は怖い。私は自分の左手を食べたチクタクワニが怖くて仕方がないのだ!
「アカネ、ついてきておるな! どこでもいいから隠れられる場所はないかっ!」
私が振り向くと、そこにアカネの姿はなかった。
「愚か者め! 恐ろしくて動けなかったか!」
アカネはまだチクタクワニの前にいた。
しかし様子がおかしい。アカネは立ち上がっており、チクタクワニに両腕を広げている。
<ムスメよ。ナンのマネだ?>
チクタクワニの疑問はそのまま私の疑問でもあった。
襲われそうになった時、自分の身体を大きく見せて相手を威嚇するのは野生動物の間ではよく行われている事である。だがチクタクワニにそれが通用するわけがない。どんなに自分を大きく見せても、チクタクワニはその10倍は大きいのだ。
「フッくんを食べるって言ったわね。そんなことさせないんだから!」
震えた声ではあるが、アカネは確かにそう言った。
<ジャマをするつもりナラバ、まずはオマエから喰ってヤロウか?>
「やれるものならやってみなさいっ!」
息巻くアカネ。
「アカネ、刺激をするんじゃないっ! ソイツが脅しているだけだと思っているのなら、それは大きな間違いだぞ!」
私が叫ぶものの、アカネはその場を動かない。今も両腕を広げてチクタクワニを見据えている。
<フックの言うトオリだ。まずはオマエカラ喰ってヤルっ!>
チクタクワニが大口を開けた。その喉の奥に光っている部分がある。あれが異世界の門というものなのだろう。――そして私は背を向ける。
もうアカネは助からないが、アカネが喰われている間により遠くまで逃げることができるはずである。
「アカネ……すまん!」
声を噛み殺した私の耳にアカネの声が聞こえた。
「フッくん、遠くまで逃げるのよ!」
意外な言葉に、私は思わず振り向いた。
アカネはこちらを見て微笑んでいる。怨み言の一つもないという顔で微笑んでいるのである。
大口を開けたチクタクワニがアカネを喰らおうと迫っていく。
私は運が良かったが、アカネも異世界の門を通って逃げられる可能性は極めて低い。私たちが先程食べた『はんばーがー』のように、アカネもチクタクワニにおいしく食べられてしまうだろう。
倒れていた私を心配してくれたアカネ。誤解ではあるが、私の身の不幸に怒ったアカネ。そして私に微笑んだアカネが喰われてしまう。
そんなこと――そんなこと――……
「そんなこと――――させるわけにはいかないだろうがッ!」
私は踵を返してアカネへと駆けた。
チクタクワニの顎は閉じかけている。
「ま・に・あ・えぇぇぇッ!」
私は閉じゆくチクタクワニの口内に飛び込んだ。
その瞬間チクタクワニの顎が閉じる。
誰かがこれを見ていたのならば、私たちは食べられてしまったに違いないと思った事だろう。
しかしそうではない!
「ぐ……ぬぬぬぬ……」
私は徐々にチクタクワニの顎を開いていく。
私もアカネもまだ食べられたわけではない!
「ぬぅぅぅおぁぁぁッ!」
渾身の力を込め、私はチクタクワニの顎を弾いた。
勢いよく開きすぎたチクタクワニの顎が外れた音が鳴り響く。
<オゴォォォォォォ……ッ!>
激痛に叫ぶチクタクワニ。しかし、顎が外れてもコイツには巨体という武器がある。
こちらを押し潰そうと転がってくる巨体。
「アカネ、飛ぶぞ!」
私は頭を抱えてしゃがみ込むアカネを抱えて後方へ飛ぶ。
なんとかあの巨体から逃れることができた。あとは――
「あの喉の奥。光のなかへ飛び込めばネバーランドへ戻れるのだな!」
チクタクワニの顎が外れている今、それを成す絶好の好機である。
「危ないよフッくん。今なら逃げられる、一緒に逃げよう!」
私の右手を握り、そう急かしてくるアカネ。
そんなアカネに私は片膝をついた。
「短い時間ではあったが、アカネには世話になった。飯を食わせてもらっただけではなく、勇気とは何なのかを思い出させてくれた。このフック、今宵の恩は一生忘れんぞ」
私はアカネの手の甲にキスをし、羽根飾りがついた自慢の帽子を被せてやる。
「さらばだアカネ。達者で暮らせよ」
アカネを手をそっと解き、私はチクタクワニへと駆けだした。
チクタクワニはなにやら怨み言を言いたいようだが、あいにく顎が外れているので話せない。
「まったく、左手を喰われたくらいでどうかしていた。冷静になれば、あんなワニなど恐れる必要などないではないか」
私はさっきまでの自分を鼻で笑う。
「チクタクワニよ、存分に教えてやろう。ネバーランド最強の大海賊。海賊船ジョリー・ロジャー号船長である、このジェームズ・フックの力をな!」
しなる尻尾を避け、私はチクタクワニの鼻先をぶん殴る。
<ギャァァァァァァッ!>
その叫びは苦痛に満ちていた。
チクタクワニは私に背を向け、閉じかけている黒い穴へと逃げ込もうとする。
「おいおい、私を置いていくな」
私はチクタクワニの背中に飛び乗った。
黒い穴の向こうからはネバーランドの匂いがする。どうやら、やはりこのままでも戻ることができそうだ。この穴はチクタクワニが通るための異世界の門なのだろう。
「フッくん!」
地上からアカネが私を呼んだ。
その頭には羽根飾りがついた帽子を被っている。
私は親指を立ててその声に応えた。
アカネがどういう顔をしたのかはわからない。それを見る前に穴は閉じてしまったのだから。そして同時に私の身体に変化が起きた。身体が膨らむような感覚がする――。ネバーランドへ帰るころには元の身体に戻っているに違いない。
アカネがいる世界では、『フック船長』は悪役だそうだ。だが今夜からアカネの考えは変わるはず。私の言ったことを信じてくれる事と思う。
他の誰もが信じまいと、アカネが私の話を信じてくれればそれでよいような気がする。まあアカネも信じられないという可能性もあるが、それでも私がなすべきことに変わりはない。
あの小僧を倒し、奪われた子供たちの時間を取り戻すのだ!
黒かった視界に見慣れた世界が開けた。
さあネバーランドよ、このフック船長が帰ってきたぞ!
――あ。後で食べようと思ってた『はんばーがー』を忘れてきてしまった……
ぐすん。
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