黒板消し
昼休みが終わり、5限のチャイムが鳴る。脇に教材を抱えた数学教諭が教室の扉を開け、授業始まってるぞー、と面倒くさそうに言い放った。
清四郎は勉強が好きではなかった。特に理科系科目が苦手で、これは教師の陰謀だと常々思うのだった。本来、数学は人を選ぶことはないはずだが、教師が口にする数学は、ある種の人間を拒絶させる。
清四郎はきまって、俺は文系だから、という口癖を盾にしていた。だが彼は、国語科教員も社会科教員も科目自体も、嫌いで苦手だった。
黒板では連立不等式が、不愉快そうに勉強ができない清四郎を見下していた。逆に清四郎は連立不等式を睨み返していた。両者の関係は膠着状態で、数学の授業は時間ばかりを浪費する科目だ、とつくづく感じた。
5限が終わるとともに、連立不等式は日直の黒板消しによって消されていく。
神経質な日直だったので、その動作は縦と横のみで構成されていた。一番右から、一番左へ一直線に突き進む。そして黒板消しを少し上にずらし、左から右へ、右から左へ。
右、左。左、右・・・。
その工程を数回繰り返して、黒板は本来の姿を取り戻していった。とても気持ちの良い光景だった。
そうやってぼんやりと教室前方を眺めていたら、後ろから遠慮がちにシャープペンでつつかれた。振り向くとそこには、小太りで眼鏡をしたロングヘアーの女生徒が座っていた。
「最後の問題、西園寺はわかった?」
醜い唇を二つ動かし、その女は清四郎とコミュニケーションを取ろうとしている。彼は、いや、と一言だけ返し、改めて黒板の方を見た。
完璧に元の状態に戻っているその姿は、6限の教師に汚される宿命を背負っていた。後ろの席の女とは比べられないほどに、黒板は悲劇的に美しかった。
太陽は徐々にすべての影を伸ばしていく。北高の周辺1kmには届く6限の終わりを知らせるチャイムが、空気を震わせる。はるか南の空には夏らしい雲が座っていた。教室の窓は南に面しており、その雲がよく見て取れる。
終礼をそそくさとすました普通教室から、続々と生徒たちが各々の目的の場所に向かっていく。
清四郎は掃除当番にあたっていた。登板は席順に担当が決まっていくので、後ろの女も掃除用具の前にいた。彼女の湿っぽい二つの目が、清四郎に向けられてる。彼は、あまりにもそれが不愉快で、教室前方に向かう。
「ちょっと西園寺、楽するな。ちゃんと掃除して」
となじる彼女の声を無視し、黒板消しを右手に持つ。まだ何か言ってくるようではあるが、彼は右手に集中して黒板に向き合う。
身長170cmの清四郎にとって、黒板最上部はギリギリ届く範囲内だった。背筋を伸ばし右手を強く伸ばす。そして一番右から左に向かって、黒板消しを押さえつけながら、ゆっくりと歩く。スーッという軽やかな手触りを感じることができる。
だが、一番左に達して、自分が汚れを拭ったと思われるラインは、先ほど日直が生み出したものとは明らかに違うものだった。
清四郎の動きに合わせて後ろの席の女もついてきて、「黒板なんてする必要ないから、ほうきを持て」と言うものだから、彼は心底腹が立った。
日直が連立不等式を消す姿を、目の前の黒板に再現することで気持ちを落ち着かせようと試みる。右から左へ、そして左から右へ動かされる右手。
右、左。左、右・・・。
右手を中心に人間が構成されているかのように、そこから右肩、首、胴へとつながっている。
僕の右手や右肩や首や胴は、本当につながっているのか不思議に思った。