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 うちの図書室は、室と呼ぶには大きくて、館と呼ぶには小さい大きさだ。天井全体に窓が嵌め込まれているので、こんな梅雨どきだっていうのに、まだまだ光が差し込んで明るい。これで蛍光灯じゃなかったら、もっとここにいたいと思うのに。校舎自体は割と古めかしい造りのくせに、ここだけはモダンな装いをしているのは、ここが増築された新しい建物だからに他ならない。折角の建築物だというのに、ここはメインの校舎からは少し離れていて、そのせいであまり生徒が寄りつかないのだとか。


 鈍く銀色に光るゲートを押しのけて図書室に入ったら、ゆっくりとした歩調で目当ての場所へ向かう。まっすぐ日本文学の棚に向かうべきだろうか? それとも、どこかで少し時間をつぶしてから? そもそも、あの短い手紙には、時刻の指定がされていなかった。それはどうして? まさか、朝からずっとあそこで待っているとか?

いやいや。そんなわけは。


 いやでも、本当に長時間待っているんだとしたら、少し気の毒かな。

 いや、待て。そもそも、本当に誰か待っているとでも?

 でも、この時世に誰があんな古風すぎる悪戯を仕掛けるというんだ?

 じゃあ、何故、差出人の名が書かれていない?

 だから、それは……。


 頭の中で、僕が分裂する。分裂した僕は、小さな僕たちになって、喧々囂々と議論を始める。どの意見も一理あるし、どの意見も下らないと一笑にふせられる類のもの。


 そもそも、ここに来た時点で、誰かが待っているという可能性を期待しているわけじゃないか。だったら、誰がいるのか、誰かいるのか、確かめてみるだけ、いいじゃないか。

 ああ、それは一理ある。

 そうだな。確かめて、誰もいなければ、本でも借りて帰ればいいだけだしなあ。


 理屈が干渉できない、好奇心エリア担当の小さな僕の意見を聞いた途端、他の僕たちはうんうんとしきりに頷き始める。


 満場一致ってわけか。つくづく、僕という人間は単純にできている。

 微笑んでやりたい。この愚かなまでに単純な、僕の脳細胞たちを。


 もしかしたら、本当に微笑んでいたのかもしれない。こんなに穏やかで平和な気持ちになるのは、久しぶりだ。珍しい。これだけでも、あの手紙に価値があるってもんだ。



 日本文学の棚は、図書室の一番奥。人気がないわけでもないだろうに、何故か人目につかない、誰にも気付かれないようなところに置かれているこの不憫な棚は、それでもたくさんの文豪たちをその腕に抱えてどこか誇らしげだ。


 わざわざここを指定してくるということは、この差出人は図書室の間取りに詳しいということか。


 渋い警視、もしくはハードボイルド気取りの探偵のような口調で、僕が僕に囁く。


 だからなんだっていうんだ。


 往年のハリウッドスターみたいな爽やかに不良な笑顔で、もうひとりの僕が応じる。


 ちょうど、森鴎外と書かれた背表紙を視界に入れたときだった。今まで明るかったはずの図書室の蛍光灯が一斉に消えた。


 停電か?と訝しむ暇もなく、今度はごろごろと不穏な音が頭上から鳴り響く。遠くの空に光ってみえたのは、これか。梅雨というよりも、雨期みたいだな。そんな感想を抱いていると、いよいよ本格的に降り始めた。


 灰色なんて生易しいものじゃない。塗りたくられたタールみたいな色をした空は、不気味に立体的な雲に援護されて、CGの見本みたいだ。狂った扇風機を彷彿とさせる風が、そこら中に吹き荒れる。大粒の雨が、これでもかと天窓を叩く。どんなに叩いたって、こっちには入ってこられないのに。子供の頑固さをもってして、雨粒は必死の形相でこちら側への侵入を試みる。窓にたたき付けられる雫の音、空から降り注ぐ雲の不機嫌な唸り声、暴れ回る癇癪持ちの風の駄々。おかげで、森鴎外の字もよく見えなくなってしまった。さぞかし、森先生はご立腹だろう。


 誰かが来るという保証もないのに、ここに僕がいると、その誰かが知っている保証もないのに。でも、なんだか、離れがたい。もう少し、ここにいてもいいか。


 古びた背中を見せる森鴎外の本でも手に取ってみようかと、腕を伸ばした。


 確か、このあたりに。


 感覚だけを頼りに腕を伸ばし、手を伸ばし、指先に神経を集中させる。


 固い布の粗い表面を想像していたのに、僕の指はまったく違ったものを触った。


 いや。違う。触られた。


 人差し指と中指、それに薬指の上に、何かが乗っている。爪から第二関節までを支配するその感触は、たぶん、指。それも、とても冷たい。


 氷を触ったのではない。あんなに、センセーショナルじゃない。冷凍庫に手を突っ込んだときとも違う。あんなに、冷気は感じない。プールの水に足を入れたときとも、違う。あんなに、心萎える期待と裏切りじゃない。


 大して力は感じないのに、重くはないのに、その存在感だけはひしひしと感じる。自分のではない指に刻まれた指紋の皺ひとつひとつを、爪が数えられるような。指だけは、この世界のどこにいるよりも安全なような。皮膚から伝わる刺激が、身体全体を強張らせるような。


 「誰?」

 あえて、そちらには顔を向けず、囁いた。


 「お待ちしておりました」

 空気を、最小限だけ震わせるような発声で、囁き返された。


 「手紙は、君が?」

 「はい」

 「そう」

 「私が誰か、お尋ねにならないのですか?」

 「聞いて欲しいの?」

 「いいえ。聞かれても、答えられる類ではありません」

 「そう」

 「何故、ここへ?」

 「君が呼んだからでは?」


 ふ、と鼻息が洩れた。可笑しい。幸せだ。


 「……愚問でした」

 「いや。可笑しいよ。とても、楽しい。ありがとう」

 「時間が、あまりありません」


 重ねられた指が、少しだけ震えた。葉っぱの上に乗っかって、雨粒が河に落っこちただけで、葉っぱごと大きく身体を揺らす、世界最小のトカゲを思い出した。


 「お慕い申し上げておりました」

 「……そう」


 唸り声を上げていた風と共に、雨雲が足早に去っていく。蛍光灯もいつもの定位置に戻ろうと、ちかちかと点滅を繰り返す。あれだけ暗くなっていた室内は、いつの間にか、明るい日常の顔を取り戻していた。


 そして、それと引き替えに、あの指が消えた。


 顔を傾げて本棚に目をやったけれど、そこには森鴎外がすまし顔で鎮座するだけ。


 誰だったのか、聞けば良かったのかな。


 そんなことを思ったけれど、もうあとの祭り。


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