大人はわかってあげない 2
プロ野球の公式戦では、五回の表裏の攻防が終わればグラウンド整備が行われる。すなわち、観客にとってはそこが絶好のお手洗いタイムということだ。
「まったく、下り坂に入ったFAの選手に大金突っこむくらいなら先に女子トイレを増設しろっての」
特に贔屓にしているわけでもない地元球団に対し、舌打ちせんばかりに悪態をつく。
お昼休みの銀行のATMか、初詣の賽銭箱前か、はたまた巷で人気のラーメン店かというくらいにトイレまでの行列が続いていたら、そりゃ心がささくれだつのも当然でしょう。残念ながら私はそんなに人間ができていない。
まあ、すでにおかわりまでしたビールが効いているのは認めるしかないな。
じりじりとしか進まない列から解放されたのは、並びだして十分以上も経ってからのことだった。むしろよくその程度ですんだとみるべきか。
席で一人待ってくれている島ノ内くんへの手土産として、通路の売店でフライドポテトを買った私は少し早足で階段を上がり、賑やかなスタンドへとようやく戻ってきた。
太陽はとっくに沈み、辺りはすっかり夜となっている。けれどもスタジアムに備えつけられた大型の照明が、眩いばかりの光でゲームが再開されたばかりのグラウンドをぽっかりと浮かびあがらせていた。
「すいませーん、ちょっと通りまーす」
他の観客たちが座っている前をにこやかに一声かけながら通り抜けていく。
島ノ内くんが待つ席のすぐそばまでやってきて、ようやく私はちょっとしたイレギュラーなイベントが起こっているらしいことに気がついた。
「えー、じゃあこの春からうちらと同じ南高生なんだー」
「後輩くんかー。やっぱりまだ初々しくて可愛いよねー」
いかにも女子高生です、とでもいうようにきゃっきゃとはしゃぐ二人の少女が島ノ内くんを挟みこむ形で立っていたのだ。
むう、と思わず私は唸る。
正直言って面白くない光景ではある。だが、彼にとってまったく見知らぬ他人と会話を交わすことがいいトレーニングになるのも承知しているつもりだ。いつまでも私のようなおちゃらけた教師とばかり話していたのでは、この先もっと成長していく彼のためにならないはずだから。
割って入るのも躊躇われ、「さてどうしたものか」とひとりごちる。うつむき加減の島ノ内くんの様子は相当に戸惑っているように見受けられた。
彼が困っている顔をしているのは少し胸が痛む。甘いなあ、と思いつつも彼に助け舟を出すべく、歩み寄っていった私は片方の少女の肩をぽん、と弾むように軽く叩いた。
「うちの弟に声をかけるとはなかなかお目が高いね、お嬢さん方」
本当に余裕がなかったのだろう。肌寒い四月の夜だというのに額に汗をかいている島ノ内くんは、私の顔を見てはっきりと安堵したような表情を浮かべた。
対照的に二人の少女はこれ見よがしなほど残念そうな調子でため息をつく。
「なーんだ、家族と一緒かあ。あーあ」
「けどちょっと年の離れたおねーさんなんだね」
「うんうん、親子でもいけそー」
おい、余計なこと言ってんじゃねえぞクソガキどもが。
そんな剣呑な感情がもうちょっとで顔に出かかるも、そこは大人としての度量で何とか堪える。
「ごめんねえ。うちの弟、ちょっと恥ずかしがりなところがあって」
引きつりそうになっている顔の筋肉をどうにか笑顔へと変え、それとなく女子高生二人にお引き取りを願った。空気を読むのは君たち得意なはずでしょ。
案に相違なく、少女たちは体の向きをさっと転じた。これ以上は時間の無駄だと判断すればさすがに見切りが早い。
「じゃーね陸くん。今度は学校で会おうねー」
「校内で見かけたらちゃんと声かけてよー」
互いに島ノ内くんへと声をかけ、手を振りながら足取り軽く去っていく。
さっそく下の名前で呼ぶとは油断も隙もない。まあ、どんな形であれ好意的に接してくれるのであれば私としては文句はないが。
最初に出会った一年生の頃はまだまだ小学生の延長でしかなかった島ノ内くん。そんな彼が今では男性アイドルグループ顔負けの容姿となりつつ、いじめや不登校という苦難を乗り越えてきたために目だけは恐ろしく大人びている。こんな少年は探したってそうそう見つかるものではない。ちょっかいを出してきた彼女たちの気持ちもわからないではないのだ。
もっとも島ノ内くん自身はかなり気疲れしたとみえ、彼にしては珍しくだらしない姿勢をとっている。椅子に浅く腰かけたままで彼が言った。
「助かったよ、先生」
「いやあ、随分とおモテになってたご様子で」
どこか皮肉っぽい響きを伴っているのは否定しない。
軽く受け流されるかと思ったが、さにあらず。
「そんなんじゃないってば。だいたい、ぼくはさっきの人たちみたいな出会いを求めてるミーハーな感じはあまり好きじゃない。ここは野球場で、ぼくたちは野球を観にきているんだから」
真剣そのものの眼差しで島ノ内くんが力説した。
「そうかなあ」
私は小首を傾げてみせるのだが、こういう場合の角度は常に一定だ。無意識のうちに昔練習した「自分がいちばん可愛く見えるポーズ」が出てしまう。今となっては忘れてしまいたい記憶として一、二を争う恥ずかしい過去なのだが。
「スタジアムに足を運ぶきっかけがそういう動機でも別にいいと思うけどなあ。ほら、そこから野球自体を好きになってくれるかもしれないでしょ?」
そうやんわりと反論しつつ、島ノ内くんのなかにある以前と遜色ない野球への熱によってつい昔を思い出してしまう。
うちの中学の野球部は市内でも強豪の部類に入っていた。そんなチームにあって、島ノ内くんは二年生でありながら中学総体市予選のレギュラーとして抜擢されたのだ。
だが好事魔多しとはよく言ったもの、状況はたったのワンプレーで暗転する。セカンドを守っていた彼のエラーによってチームはサヨナラ負けを喫してしまった。
それだけならまだいい。これまで以上に練習へ必死に取り組み、挽回の機会をうかがえばいいのだから。
結果からいえば彼にそんな機会は巡ってこなかった。それどころか、いじめのターゲットとされ精神的にぎりぎりのところまで追いつめられていく。実態を聞けばそれはまさに迫害と呼ぶべきものだと言い切れる。
これはぽつりぽつりと断片的に島ノ内くんが語ってくれたのを繋ぎあわせた話だ。
総体市予選で敗れたのち、練習が終わった後の部室ですでに引退したはずの先輩たち数人が毎日待ち構えているようになった。島ノ内くんを最もきつく睨みつけてくるのはレギュラーの座を奪われた三年生であり、彼の「じゃあやるぞ」という合図によって私刑さながらの時間が始まる。
無理やり参加させられた二年生たちも揃ったところでまず最初の煙草に火がつけられ、一口喫ったら隣の生徒に回される。そうやって次々に部員たちの手を渡っていく煙草がもう喫えないくらいまで短くなってしまえば、持っている人間が責任を持って火を消さねばならない。
そして灰皿代わりとされたのが島ノ内くんの腕だった。
最初のうちはためらいをみせる部員も多く、島ノ内くん自身も抵抗していたらしい。だが人とは慣れる生き物だ。恫喝混じりの暴力によって、次第に異常な状況下にあってもみんな麻痺していったのだという。島ノ内くん本人すら。
それでも夏が終わり秋がやってくる頃には、彼の心は限界を迎えることとなる。ぴたりと学校へ来なくなってしまったのだ。
思えば私は何の覚悟もなく教師という職を選んだ。
二十代の半ばとなった今でもまだ半人前にすぎないが、一年生のときの島ノ内くんを副担任として見知っておきながら、彼が不登校になったと他の教職員から聞かされても「ま、人それぞれ事情はあるよね」くらいの感想しか浮かばなかった自分はきっと教師ですらなかったのだろう。
食いっぱぐれることなく適度に実績を重ね、いずれ誰か同僚の男性教師とでも結婚して子供も二人くらい産み、成功者とまではいかなくとも何ひとつ不自由なく生きていく。そんな人生プランを当時は大真面目に思い描いていたのだから笑うほかない。大人になったつもりでいても、その実私は何も知らない子供でしかなかったのだ。
あの日、校区内にある昔ながらのバッティングセンターからかかってきた電話をたまたまとっていなければ、私の人生はたぶんまるで違うものになっていたのではないか。
学校をさぼってひたすら打ち続けている子がいる、受話器の向こうの店主は潜めた声でそう言っていた。いつもならぼんくらの私だが、なぜかこのときばかりはピンときた。島ノ内陸だ、と。
授業が手空きだったのをいいことに私はすぐ学校を飛びだした。止められてはかなわないと考え、誰にも何の伝言も残さずに。後でしこたま怒られればすむだけの話だからだ。
車のハンドルをぎゅっと握り、アクセルを踏みこみながら私は何度も「おかしいな」と首をひねっていた。熱血教師なんて今どき流行らないし、もちろん私の柄でもない。だけど心臓は強く脈打ち、全身を激流のごとく血が駆けめぐる。
今、ここで動かなければ。頭ではなく体がそう教えてくれていた。
駐車場に荒っぽく車を停めた私は、施設内へ入るや店主への挨拶もそこそこにぐるりと周囲を見回した。
ひと目でわかった。泣きながらバットを振っている異様な雰囲気の少年がいたのだ。
「もうやめなさいッ!」
自分でも思わず驚くほどの大きな声が出た。
突然やってきた私の剣幕に動揺したのか、それとももう握力の限界だったのか。がらん、と島ノ内くんはその場に金属バットを落としてしまう。彼の両手は皮が破れたのだろう、血で真っ赤に染まっていた。
無表情のまま涙を流していたあのときの姿はさながら殉教者のようであり、現在私の隣で「そもそも野球ってのはさ」と熱っぽく語っている彼からは想像もつかない。
ここまで来るまでに大勢の人たちが助けてくれた。真っ先に相談した八子先生のみならず、普段は陰険で嫌みったらしい物言いばかりする学年主任の楠間先生やセクハラすれすれの言動を女性教師陣へ飽きずに繰り返す生徒指導の安村先生、責任ある立場の両先生にもこのときばかりは毅然とした態度で加害側の生徒たちやその保護者に対応していただいた。好きにはなれなくとも深く感謝している。まあ、文句はこれまでと変わらず言わせてもらうが。
私はただ、手探りな距離感で島ノ内くんのそばにいただけにすぎなかった。
中学校までソフトボールをやっていたこともあり、野球についてのトークならそこいらの男性たちよりよほど自信がある。というより、彼と私の間にある共通の話題なんてそれくらいしかなかったのだ。
短い空き時間を見つけてはふらっと彼の家にお邪魔し、二人でお茶をすすりながら野球の話に興じるのがいつしか定例のようになっていった。ブラッド・ピット主演の映画『マネーボール』を観ての感想を互いに言い合ったのも懐かしい思い出だ。
彼が保健室へは登校するようになったのもあって、信頼なのか丸投げなのか、島ノ内くんの件に関しては周りの先生方からも「間宮に任せた」と言われることが多くなり、フリーハンドで動ける状況ができあがっていく。
そこで私は、どうにか三年生へと進級できた彼へのお祝いと称して最初の野球観戦へと連れてきたのだ。ちょうど一年前の四月だったから、時が経つのはやはり早い。
一年、区切りをつけるなら今日をおいて他にない。
先ほど買ってきたフライドポテトを二人でつまみつつ、努めて何気ないふうを装い私は切り出した。
「高校生ともなれば、私みたいな年の離れた教師となんかとじゃなく友達とわいわい観戦する方がきっと楽しいでしょ。さっきの女子高生みたいにあまりルールをわかってなさそうな子とだって、島ノ内くんがいろいろと解説してあげればいいわけでさ」
しかし彼の反応はまったく芳しくない。
「面倒くさいよ、そんなの。ぼくは先生と一緒に球場へ来るのが楽しいんだし」
「まあまあ、そう言いなさんな。友達でも単なるクラスメートでも、何だったらカノジョとだっていいじゃない。そうだ、これを私からの宿題にしようか。高校生になったら誰か他の同年代の子と観戦しにくること」
私としてはあくまで冗談めかしての提案だったつもりだが、島ノ内くんの様子はみるみる不機嫌になっていく。
「今日の先生はいつになくしつこいなあ。なんなの? らしくないけどもしかして酔ってるの?」
あれしきの量で酔うもんかい、と思っても実際にそのまま口には出さない。
代わりに「まさかでしょ」と彼の目を見てにっこり笑って返す。
それでも島ノ内くんはまだ納得がいかないらしい。
「ねえ、この話はもうおしまいにしようよ。さっきも言ったけど、ぼくは先生とこうやって野球を観ている時間がいちばん楽しいんだ。もしかして先生はそうじゃなかったの?」
表情にも声色にも不安をにじませて私を見つめてくる。
「楽しいよ。たしかに楽しかった」
だけどね、と私は静かに頭を振った。
「今日が最後だよ。君と私がこうやって野球を並んで観るのは、今日で最後にするつもりだから」