姫君と下僕と雪降る朝
ここ数日、寒い朝が続くと思ったらついに雪だ。確か、昨夜から降っていた。
「今夜はすごく冷えるわ。一人で眠るなんて寒くて耐えられない」
「そうだね。明日、きっと積もっているね」
寝る前にミゼルと話をした。いつもなら寝台の中で縮こまっているところだけど今朝は違う。冷気は感じるのに耐えられないほどの寒さではない。寝具の中はとても温かく、心地良かった。まどろみながら目を開けた俺は、そして硬直する。
ミゼルがいた。俺の腕の中に。
三秒くらい瞬きをした。
……えーと? いや? 待てよ? ちょっと? あれ? どういうこと?
疑問符を華やかに踊らせつつ、俺を振り回す気ままな彼女の習性を思い起こす。寝る前にやって来て、好き放題に俺をいじった後で部屋の主を追い出して熟睡するミゼル。俺が眠っている間に忍びこんだのか、目覚めたらいきなり隣で寝ているミゼル。あ、これか。朝起きたらいきなり目の前にいるやつだ。
!?
そこに考えが至ったところで、寝ぼけていた俺の脳はようやく覚醒し、急速回転を始めた。朝起きたら彼女がいてびっくりした経験は過去に一度や二度じゃない。初めての時は悲鳴を上げて使用人に仰天され、二回目と三回目は驚きの声を上げたのちミゼルを叩き起こして文句を言い、五回目以降になると「またか……」と起きる時間じゃなければ二度寝を優先して、寝台の隅っこに所在なげに転がっていた。そうだ、いつもなら寝台の半分以上を彼女に占領されている。しかし、これは。
一体、どういうこと!?
腕の中にミゼルがいる。俺は彼女の腰に右腕を回していて、対面する格好で抱き合っている。ミゼルも嫌がる様子もなく(眠っているから当たり前なんだけど)身を寄せている。寒いから? お互いに暖を求めた結果?? 眠っている間の無意識の行動なんか分かるわけない。この寒さで汗などかくはずがないのに大量の冷や汗がどっと流れる感覚に襲われた。どかないと! 真っ先に脳が警鐘を鳴らすのに硬直した身体が反抗期に突入して言うことを聞かない。下手に身動ぎして変なところを触ったら問題だ。俺、責任取れないよ。待てよ? 結婚してるからすでに責任は取ってるよな。いや、そうじゃなくて! ミゼルは俺の反応を見て面白がってるだけなんだから、実際こんな状況になってたら頬をぶたれるくらいじゃ済まされない。やばい。まずい。ひどい。というか、ちょっと無警戒すぎない?
「どういうことなの……」
ミゼルにはノエンナ貴族を中心にたくさんの恋人がいて、俺は夫婦という関係上、扱いを優遇されることはあってもあくまでその中の一人くらいな位置づけだ。恋愛相手としての優先順位は限りなく低い。むしろ恋愛相手ですらない。ご主人様がお気に入りの飼い犬を可愛がる、たぶんそんな感じ。ん? だからなのか? 恋愛対象じゃないから平気で人の寝室に潜りこんで、反応を見て楽しむという迷惑な遊びを思いついちゃったの??
……自分勝手だよなあ。
だけど、この程度の戯れで気が滅入っていてはミゼルのお相手など務まらないのは今までの経験で身にしみている。この程度。至近距離にある寝顔が目に入ってどきりとした。無防備な表情。この状況をこの程度と思ってしまっている時点で、最初の頃と比べたら随分と飼い馴らされてしまっている気がする。やっぱり犬だ、人ですらない。
俺はこれでも君のことが好きなんだけど。
というか、彼女にここまでされて好きにならない男なんて、兄上みたいにすでに特別な誰かが存在する場合くらいだ。わがままで、気まぐれで、はた迷惑で、だからミゼルはとても可愛い。この矛盾。彼女を知らない者が俺の話を聞いたら、ちょっと頭が可哀想なやつだと思われるに違いない。でも理屈じゃないんだ。可愛いだけじゃない。女の子らしく細いし、柔らかいし、甘い匂いがするし、温かい……し、駄目だ! やっぱりこの状況はまずい。早くなんとかしないと。ミゼルが目を覚ます前に! しがみつかれたりはしてないから俺がどけば簡単に離れられる。腕。どかすだけ。身体、起こすだけ。
……目が覚めてからすでに十分は経っただろうか。俺は相変わらず動けていなかった。昨夜から雪が降ってて寒いのが悪い。純粋にこの状態は温かくて、とても居心地が良かった。そうだ、離れたらミゼルが寒さで風邪を引いてしまうかもしれない。さっき自分のやばさに気づいて早く離れるべきだと決意したばかりなのに矛盾だらけの思考だ。不毛な言い訳をぐるぐる巡らせながら、もう少し、いやまずい、でもあともう少しだけと不可抗力を大義名分に今の状況にしがみついていた。ここまでくっついてしまってると、なんかもう、うん。ばれたらとんでもないことになるんだけど。早くなんとかするべきだという焦りと、もう少しこのままでも大丈夫という未練が相反する力でせめぎあって、そろそろ緊張しまくった腕が痺れてくる頃じゃないだろうか。
扉の音が俺を現実に引き戻した。あ、いつの間にか執事が起こしにくる時間だ。目覚めにぴったりの熱い茶を用意して。ちょうど扉側に身体を向ける格好になっている俺は、物音を立てながら入ってくる執事の姿を認めると意図的に目を合わせて「しーっ」と声を上げずに人差し指を口に当てて指図した。彼は俺の左手の人差し指から視線を下にずらし、奥様の後頭部を確認すると納得したように頷いた。
「……お楽しみのところ失礼しました」
「違う!」
慌てて自分の口を手で押さえる。おそるおそるミゼルの様子を確認するとまだ目を覚ます気配はなかった。肩で大きく安堵の息を吐いて、それから俺は彼に一応……感謝した。
一応というのは、叫んだ拍子に若干半身を起こしたからだ。こうなるともう俺は完全にミゼルから離れることに成功した。感謝すべきなのだ、恨んではいけない。
後ろめたさから、ミゼルを起こして一緒に目覚ましの茶を淹れてもらおうという気分になれなかったので執事を促して寝室を出ることにした。寝ている彼女を一人残していなくなったら後で冷たいと怒られるだろうか。でもそっちの方がよっぽどましだ。さっきの所業がばれるよりは。
部屋の主がいなくなった寝室で。
「……いくじなし」
小さく笑みを浮かべた奥様がぽつりと寝言を呟いた。
【終】