姫君と下僕と雨の休日
ある男が彼に囁いた。
“貴方の奥様は貴方の留守中に他の男と逢引きしていますよ。貴方は騙されているんですよ”
「知ってるよ」
笑って答える彼に男は心外そうに続けた。
“不愉快ではないのですか。浮気をされているのに”
「彼女が教えてくれるんだ。聞いてもないのに、今日はどこの誰と会ってどんなことをしたかってね」
“それって貴方のことをなんとも思っていない証拠ですよね?”
「俺が彼女を好きで、彼女が俺を嫌いにならなければ十分だよ。楽しんでるならそれで良いんだ。最終的に俺の……いや、ツァイト家にちゃんと帰ってきてくれるんなら」
男はつまらなそうに去っていった。
ある男が彼女に囁いた。
“貴女の夫は貴女のわがままに辟易していますよ”
「まあ、そうなの」
彼女は社交的に微笑んだ。
“休みの日は外出ばかりでほとんど邸に寄りつかないそうじゃないですか”
「確かに、そうね」
彼女は親しみをこめて微笑んだ。
“きっと外出先で自分の身の丈にあった意中の女性と会っているんですよ”
「あら、そうかもしれないわね」
彼女は愛らしく小首を傾げて微笑んだ。見る者をはっとさせる魅惑的な仕草だ。
男は戸惑いながら去っていった。
そして彼女は扇の下で、鋭く目を光らせる。
……。
朝から大雨が降っている。窓にはとめどなく水滴が流れ落ち、外の景色が歪んで見える有様だった。
「ねえダスト様」
「んー?」
わざわざ連休まで取ったのに、仲間とつるんで遊びに出かける予定が中止になってしまった。やることもなく寝室で惰眠を貪っていたところにミゼルがやってくる。
「最近ね、ハスニカ家とツァイト家の友好関係を崩そうとする動きがあるみたい。ダスト様も気をつけてね?」
なにげない世間話でもするかのようにさらっと言われて、「ダスト様も気をつけてね?」を聞くまで俺の頭は半分寝ていた。
「……えっ、そうなの!? 大変じゃないか。気をつけるって……どうやって?」
がばっと起き上がる俺を手で制したミゼルは寝台の脇に腰かけた。右手になにか小道具を持っている。
「ねえダスト様、手を貸して? 指先を整えてあげる」
爪磨きか。いきなりなんなんだ。
「伸びてないよ」
「整えてあげる」
ミゼルの可愛い笑顔を見て、これは逆らってはいけないやつだなと瞬時に判断する。俺は枕に背を預けて上半身だけ身体を起こすと素直に差し出した。
「この前ね、キリアに磨いてもらったの。その時にふと思ったのよね」
弟に爪磨きやらせてるの?
「ダスト様の爪が伸びてたら、私の胸を揉んだ時に爪が食いこんで痛いでしょ?」
「揉まないよ!」
「胸、触りたくないの?」
赤面して答えられないでいるとミゼルはくすくす笑った。
「冗談よ」
その間にも手際良く磨いていく。たぶん彼女自身は使用人とか(弟とか)にやらせているんだろうけど、それにしては慣れた手つきだ。もともと器用なんだろうな。俺は大人しくされるがままになっていた。手を握られるのってちょっとどきどきするなあ、自分から握るのとはまた違う。
「それとね。今日はお菓子を作ったからお昼は控えめにしましょう」
「うん? 作ったって、君が?」
珍しいな。もっとも俺は、彼女が普段一人の時はなにをしているのか知らないんだけど。
「林檎をまるごと使った包み焼き。お茶の時間に合わせて後は焼くだけだから」
「あっ!」
突然大声を出した俺に反応してミゼルが動きを止めた。きらきらの綺麗な瞳と目が合う。
「君さ、兄上の花嫁選びに参加してた時も焼き菓子作ってくれたよね」
「……覚えていてくれたの?」
「覚えてるよ。すごく美味しかった!」
だいぶ前の記憶を俺にしてはぱっと掘り起こしたのは食べた当時の感動を覚えていたからだ。焼きたてのお菓子を食べたのは初めてで、焼きたてがあんなに美味しいなんて知らなかった。肝心の兄上は不在だったけど、彼女は家族全員に振る舞ってくれたんだ。
「あれがまた食べれるのかあ」
楽しみで口の中に唾が満ちてきた。お昼はいつもより少なめで良いかな。それでお茶の時間を早めよう。
「あれじゃないわよ。今日は林檎の包み焼き。材料が余ってたら明日作ってあげる」
すごく呆れた顔をされてしまった。でも明日も作ってもらえるのかと思うと胃袋は完全に服従態勢だ。
「ダスト様が甘いものお好きで良かった」
「好きだよ。大好きだよ!」
また作ってもらおうという魂胆で全力の笑顔で答えた。焼き菓子に逃げられないように、握られた手をぎゅっと握り返す。だけど俺はすぐ我に返った。ミゼルが。
「……」
な、なんで無言なの!? 黙ったまま「ただいま対応を検討中」みたいな顔をされるとすごく怖いんだけど!
「あっ、手」
慌てて謝ろうとするとミゼルが先に口を開いた。放そうとした手は逆に掴まれてそのままだ。
「ダスト様がお休みの日に、邸にいらっしゃるなら作ってあげるわ……」
目を反らしてぽつりと零された言葉。俺の返答なんか求めてないといった様子でミゼルは爪磨きを再開する。
お、怒ってない……よね?
言葉の内容と態度がちぐはぐで俺はちょっと怯えた。
「えっと……それで、さっきの話って?」
無言に耐えられなかったので話題を元に戻す。
「さっきの話?」
「ツァイト家とハスニカ家の仲が引き裂かれる話、だっけ」
「大丈夫よ」
ミゼルの視線は俺の指先から離れない。声音はいつもの調子に戻っていて、さっきの出来事なんてまるでなかったみたいだ。
「そうなの?」
「そうよ、底の浅い策を弄する人がいるなって思っただけ」
「ふーん」
じゃあなんでわざわざ俺に言ってきたんだろう? 思うところがあったんじゃないだろうか。
「ダスト様の反応を見たらね、ばかばかしいって思ったの」
「そういうもの?」
「そういうものよ」
曖昧な答えだなあと思ったけど、ミゼルの態度がどこまでも落ち着いているので勝手に納得した。難しいことを考えるのは俺の役目じゃない。俺が両家のために出来ることは、彼女と仲良く暮らすことくらいだ。
「雨、早くやんでくれないかなあ。三日も休み取っちゃったんだけど」
三日目も降ってたらまたお菓子作ってもらえるのかな。それも捨てがたいな。
「そうね。ダスト様は邸の中でじっとしていられない性分ですものね。でも、たまには私のこともどこかに連れて行ってね?」
丁寧に爪を整えながらミゼルは優しい笑みを浮かべていた。
【終】