姫君と下僕と風邪の日~二日目
ミゼルが風邪を引いて二日目。
「あ」
薬の時間になって、ミゼルが突然なにかを思い出して固まった。自分のうかつさを悔いるような表情だ。小卓と椅子を寝台の側に持ってきて一緒に朝食をすませた俺が「どうしたの?」と声をかけると彼女は恥ずかしそうに告白した。
「私、粉薬がとっても苦手なの。でもダスト様が口移しで飲ませて下さるなら……きっと飲めるわ」
「……別に構わないけど」
昨日は普通に飲んでたよね? もちろん余計なことは言わない。
この言葉を聞いて真っ先に思ったのは、
“あ、これは本格的に風邪を移しにかかってきたな”だった。
「ダスト様は風邪薬を飲んだことがないのよね?」
「病気になったことないからね。たぶん飲んでも効かないだろうけど」
薬包紙を開きながら答える。毒に対してある程度の耐性がある俺は、薬の効果にも当然期待してはいけない。
見え透いた嘘にみすみす騙される男の心境ってどんなだろう。俺のことか。うーん、ミゼルって本当に俺のことが好きなんだろうか、ちょっと疑いたくなってきた。昨日添い寝しても移らなかったので新たな作戦に移行したと思われる。口移しって、上手くやれるかなあ……。
ごくり。
「ダスト様? やだ、まさか飲んじゃったの?」
……考えごとをしていたら水を含みすぎて飲み干してしまった。薬の苦味だけが口内に残って損した気分だ。
「ばかね」
ミゼルは呆れながらも、俺ならそれくらいやってもおかしくないと思っているのか笑って許してくれる。彼女は俺のことをいつも馬鹿にするけど、その言いぐさがあまりにも可愛らしいから言われるのは嫌いじゃない……。
「ねえ、新しい薬を取ってこないと」
「……っあ、そうだね」
笑顔に見惚れていた俺は慌てて立ち上がった。そうだ、ミゼルが俺のことそんなに好きじゃなくても大した問題じゃない、俺がミゼルを好きで、ミゼルがそれを受け入れてくれるってはっきり分かったんだから十分じゃないか。
「どれだけ失敗するつもりなのよ」
「いや、念のため……」
一転してミゼルが不機嫌になった。なにがあったかというと。
クランに事情を話したら快く頷いてすごい量の薬を渡された。きっとあいつなりに気を遣って、戻る前に予行練習していけって意味なんだろうけど……一人で練習とか虚しすぎるし薬がもったいないので寝室に直行してしまった。
さすがのミゼルも呆れを通り越して気分を害したようだ。俺も馬鹿正直にもらったのを全部広げるから……卓上に出すのは二つくらいまでにしておけば良かった。
失敗したら……この雰囲気だと、たぶんまずい。
妙に緊張しながら包みを開く。結婚生活ってこんなに緊張が走るものなんだろうか。もしかして俺の心、弱すぎ? ああああ。どうなんだろう。世間のみなさんは奥さんに対してどうなんだろう!
「ねえ、早くして?」
「はい」
気を取り直したのかミゼルの催促は可愛かったけど、一寸先は闇かと思うと可愛さを堪能している余裕はなかった。普段は休眠していることが多い俺の頭脳は彼女を相手にすると叩き起こさずにはいられない。ない知恵を振り絞って、ってやつだ。頑張って考えよう。
……えっと。さっきは薬を先に口に入れちゃったから水の量を加減出来なかったんだろうな。水を入れすぎた場合は薬を入れる前なら飲んで減らせば良いわけだし、よし、水が先だな。容器に口をつけたところではたと気がつく。むしろ水ってそんなに必要ないかな? やってみないことには分からないけど飲ます側も飲まされる側も量が多いと大変かもしれない。で、薬。混ざりやすいようにちょっとだけ水を足して、と。
必死になっていて気づかなかったけどミゼルはじっと見守っていたらしく、準備が整った俺と目が合うと進んでまぶたを下ろした。要求するだけあって、ちゃんとやりやすい状況は作ってくれるんだよなあ。
ミゼルと唇を重ねる行為に対して気恥ずかしさといった抵抗感は俺にはなかった。だってミゼルの方からして欲しいって言ってきてくれるし。お許しが出ているのに恥ずかしいからって遠慮してたらいつやるんだよって話だ。そりゃ誰かに見られてたらちょっと嫌だなとは思うけど、それでもご要望に押されて使用人の目の前でしたことはある。そしたら周りが気を遣ってどこかへ行ったりとか見ないふりをしてくれたので、邸内ならとりあえず気にしなくて良いんだなという結論に至った。
「……っ」
やばっ。水、ちょっと多かったかな。受け止めきれなかったのか角度が悪かったのか、ミゼルの口端からわずかにあふれるのを感じた。とっさに唇をずらして間に合わなかった分を舌で舐め取る。まだ俺の口内に薬は残っていたから固定させるために片手であごを捕まえた。零したらめちゃくちゃ怒られそうだ。薬の苦さに辟易しながらも、ミゼルの機嫌を損ねないように、漏らさず飲ませるために口もとに全神経を集中させた。舌に絡みついてるやつもちゃんと飲ませてあげないといけない。かつてないほど激しい行為になってるけど俺は必死だ。思うんだけど、これ、三分の一くらい俺が飲んでしまってないだろうか。薬って決められた量をちゃんと飲まないと駄目なんじゃないの? あ、そうか。ミゼルの目的は俺に風邪を移すことなんだから、無事に遂行出来れば薬の効果は関係ないよね……。
俺が病気になったら、君は心配してくれるのかな。きっと心配してくれるんだろうけど、心配の方向性がちょっと不安だ。
ようやく唇を離したところでぎょっとした。ミゼル、ふらふらなんだけど!? 熱があるのに元気すぎるとは思っていたんだ。
「すごい熱だよ! そんなに顔真っ赤になるまで我慢してたの!?」
「……だって。だって、だって」
口ごもって単調な言葉しか言わなくなってるのがすでに頭が働いてない証拠だ。自分を支えきれなくなったのかそのまま俺の胸に倒れこんで息切れを起こしている。こんな状態だったら簡単に言い負かせそうだ。
「だって……」
顔を赤くしたまま懸命に言葉を紡ごうとする姿に待ってあげようかなという迷いが一瞬生じたけど、話を聞くのは熱が下がってからでも遅くないと思い直して強引に彼女を寝かせた。横になると少し落ち着いたのか、ミゼルは涙ぐんでいた瞳を拭ってこちらを見上げた。
「大人しくしているから、一つだけお願い聞いて」
前言撤回。やっぱりどんな状態であろうとミゼルを言い負かすのは不可能だ。決意を反転させて耳を傾ける。
「昼食と、夕食後の薬もダスト様が飲ませてね」
……分かった。うん、分かったから。俺に風邪が移るまでちゃんとつき合うよ。
普通に治した方が早いんじゃない? と思いつつ、布団の上から左手でぽんと了承の意を伝えるとミゼルは満足して両目を閉じた。
【終】




