前口上、踊る文字
僕の好きな女の子は、いつも難しそうな本を読んでいる。彼女の目を文字に走らせ、時折眉間に皺を寄せながら。僕が最も好きなのは、白く美しい彼女の手だ。その傷ひとつない手が本のページを繰る仕草は、きっと僕の記憶の中では1番優雅な動きだろう。僕が彼女を好きになったきっかけは、それはそれは些細なことだ。それは心の奥の宝物箱にしまっておかないと消えていってしまうんじゃないかと心配になるほど儚い。
その日、僕はたまたま大学の講堂前を通った。それがどのくらいの偶然かというと、いつもはしっかり提出期限を守る僕が、20年生きてきて初めてインフルエンザにかかり、1年に1度提出のゼミの志望理由書を入学式以来訪れていなかった学生教務部に提出しに行った帰り、つまり大学生活で1度あるかないかの出来事だったのだ。この出来事が珍しいから奇跡にしたいのではなく、奇跡が奇跡を呼ぶのだと、僕は考えている。僕が通りかかった大講堂は、元々はスピーチ用に造られたのだけれど、1台のグランドピアノが置いてあり、コンサートが行われるなんて説明が大学のパンフレットに載っていた記憶がある。その講堂から、何かを確認しているような音が聴こえてきた。どういうことかというと、僕がまだ小さい頃、調律に来ていたおじさんが、なんだかあまり気持の良くない和音によってピアノを調律していた記憶があったからだ。普段なら通り過ぎるだろうその音に、なぜ脚を止めたのかといわれたら、それこそ奇跡としか言いようがない。だって世界に起こる恋愛事に奇跡が関わらないことなどないのだから。とにかく僕は、講堂に脚を踏み入れ、引き寄せられるようにピアノの前に座る彼女を、見つけた。