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第九章

 私は先日、生まれて初めて浮気というものをした。相手は同じ職場の若い女性社員で、笑顔が可愛く、まっすぐに通った鼻筋が清潔な感じのする女性だった。その頃から家族に邪険にされ、私は孤独だった。彼女がその孤独を癒してくれていたのだ。それは真冬の雪が吹き荒ぶ日の火燵のように暖かく私を包み、冷たく縮こまった心を解し、いつしか私を捕らえて離さないものになっていた。しかしながら私にも理性はあった。私は次第に彼女に溺れていく自分に気が付き、ともするとふらふらと彼女に心を奪われて全てを捨てかねない自分を律した。私には家族がいるのだ。私はここ三十年というもの、自分の全てをかけて家族を守って来たはずだ。こんなところで自分の欲望の為にそれをふいにしてしまってはいけないと。その為に私は彼女とたまに食事をしたりはしたものの、過ちを犯す様な事はなかった。それで十分私は満たされていたのだ。

 ある晩、彼女との食事を終えてから帰宅してみると、いつもの様に妻の機嫌が悪い。その頃は家に帰るといつもそうであったので、私は甘美な夢から目覚めてしまったあの寂しさで、延々と妻の愚痴を聞いていた。妻は老人二人の介護にほとほと疲れきっているらしい。それは私も申し訳なく思っていた。これから死にゆく者の介護などという非生産的労働は考えただけでも辛い。しかも老人は二人である。妻の不満は推して知るべしだ。私も仕事で疲れきってはいたが、妻の精神的負担が少しでも軽くなればと、老人の話題に続く一恵がまた男を連れて来たようだだの、公徳の成績が悪いだの、俊平が近頃ぐれ始めているだのといった愚痴まで、私は黙って聞いていたのだ。

 その晩やっとの事で床についた私は、疲れきって声も出なかった。一恵の部屋で何か不穏な物音がしたが、そんな事は気にする余裕すらもなかった。私は深い眠りについた。

 そしてその夜、私は夢を見たのだ。夢の中で、私は風呂に入っていた。仄暗い浴室で、湯の面がオーロラの様に揺れていた。と、私が浸かっている湯船の脇に裸の女が立っていた。それは例の職場の女性だった。この歳になってそんな思春期のような夢を見ているのが恥ずかしいのだが、私はその時の靄に包まれた情景を夢とは思えぬ程はっきりと思い出す事が出来る。彼女は乳白色の微笑を浮かべたまま湯船に入って、私と対座した。しかし彼女は肩まで浸かったその湯の中に首、顔、頭と徐々に沈んでいき、ついにぶくぶくと湯に潜ってしまった。私は慌てて彼女を引き上げようとするのだが、うまくいかない。そこで私も湯の中に潜ったのだが、何故か煙る湯の中に彼女の姿はなかった。そればかりか、今度は自分が溺れてしまい、水面に上がる事が出来ない。次第に息が苦しくなり、意識が遠のいたところで目が覚めた。

 私は次の日に、彼女を夕食に誘った。妻には会社の飲み会で遅くなる、夕飯は要らないとメールを送った。男の上司が女性の部下を食事に誘うとセクハラになるらしいが、彼女はそういう時いつも嫌な顔一つせず、むしろ喜んで付いて来たので誘いやすかった。

「悪いねNちゃん、いつも付き合わせて」

私はとあるレストランの食卓で言った。

「とんでもない。私の方こそいつも美味しいものを御馳走になって、何だか申し訳ないです」

「私は君の喜ぶ顔が見たいんだ。その為なら何だってするさ」

「そう言われると余計に申し訳ないわ。草野さんにはご家族もいらっしゃるのに」

「なに、家族の事なら心配要らない。奴らは私などいない方がのびのびと暮らせるのさ」

「草野さんたら、随分寂しい事を仰るのね」

そう言った彼女の微笑は罪悪感を帯びた寂しさが籠っていて、一層美しかった。

 食事を終えた後、私と彼女は近くの公園を散歩した。静かな公園を散歩していると、自分達が周りのカップルと同じ様に映っている気がして、気恥ずかしかった。公園の中に流れる小川のせせらぎが微かに沈黙を占めていたので、私たちはそこに架かる橋の欄干に立ち止まった。橙色の柿の実が外灯に照らされて暖かな色彩を水面に揺らしていた。それを見ていた私は幾ばくかの悲しみを抱いた。

(家に帰りたくない)

私はこの時程そう思った事はなかった。隣にいる彼女の白い顔が闇夜に浮かんで、その凛々しさが唯一その場の風雅を戒めていた。私はその瞬間をずっと泳いでいたかった。温かで優しい波の中をたゆとうていたかった。ともするとそれは溺れかけた遭難者の様に危険な状態であったかも知れない。だが私は溺れても結構だった。例えこの瞬間に溺れ死んでも、何の悔いもないであろうと感じた。しかし私は彼女から引き上げられた。

「草野さん、もう帰らなきゃ」

昨夜の夢は正夢ではなかった。彼女は私を引き上げ助けてくれた。私は溺れずに済んだのだった。私は素直に彼女の優しさを受け取った。

 これが私の浮気だ。浮気と聞いただけで肉体関係を決めつけた者もあったろうが、何も浮気にははっきりした境界がある訳ではない。むしろ浮気とは書いて字の如く気持ちの問題であるから、私がそういう気持ちを起こした時点でそれは浮気だったのだ。現に私は彼女の一言がなければどこまで溺れていたかも分からないのだ。

 私はその後忘我自失の思いで帰宅した。帰った家は相変わらず妻の愚痴や、よそよそしい態度の子供達、足を引きずって徘徊する老人、猫の鳴き声で満ちあふれていて、そこはうんざりする様な日常であった。しかしその時私は安堵したものだ。溺れずに救助されて無事生還した者の安堵だ。私にはこの家庭にしか居場所がない事を悟った。それが例え私にとって孤独な環境であっても。私はその日安らかに眠る事が出来た。


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