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第七章

 夏の深夜、暗闇に鈴虫の鳴き声がひっそりと響いている。草野家は既に寝息に静まり返っていたが、一恵の部屋のドアの隙間からは仄かな明かりが漏れていた。一恵は洗い立ての髪をドライヤーの風に靡かせ、部屋に女らしい香りを振りまいていた。

 と、不意にドアをノックする音が聞こえた。一恵はドライヤーを止めて

「はあい」

と返事をした。すると部屋の白いドアが音を立てない慎重さで開かれ、暗闇の奥から寝間着を着た公徳が現れた。

「姉ちゃん、まだ起きてるか?」

一恵はきょとんとした顔で怪訝そうな返事をした。

「起きてるわよ。どうしたの?」

公徳は部屋に入るとそっとドアを閉めて、その場に正座した。

「実は、姉ちゃんにお願いがあるんだ」

公徳の只ならぬ緊張の面持ちに、一恵は脳裏に只ならぬ予感を過らせた。予感は当たっていた。

「俺を男にしてくれ。頼む」

公徳はそう言うとその場に土下座した。一恵は手に持ったドライヤーを置く事も忘れて辺りを見回した。どうしよう、と言いたげな表情である。一度に数回の瞬きをして、一恵はやっと口を開いた。

「男にしてくれって、どういう事?」

一恵はやっと口にした言葉があまりにも間抜けなのを恥じたが、それでもこう返さずにはいられなかった。

「決まってるだろ。童貞を捨てさせてほしいんだ」

一恵は催す吐き気を抑えて返す。

「あんた、自分が何言ってんのか分かってんの?」

普段温厚な一恵も、さすがに受け流す余裕がなかった。そんな一恵に、公徳は表情一つ崩さずに滔々と語った。

「ああ、分かってる。でも俺は生まれ変わりたいんだよ。今まで世の中を偏屈な目で見ていた自分から。もっと素直に、普通に、夢ではなく現実世界を生きていきたいんだ。だけど現実は厳しい。今のままいきなり現実に放り出されたら、僕は二度と立ち上がれないまでに打ちのめされるだろう。だから、僕は自信が欲しいんだ。女を知った自信があれば、僕はそれを糧に現実を受け入れられる気がするんだ。その為に僕の不名誉を払拭してほしいんだ。童貞が不名誉だと言っていたのは姉ちゃんじゃないか。お願いだ姉ちゃん。分かってくれ」

そう言うと公徳は堰を切った様に泣き出した。一恵は黙った。速まる鼓動に肩を浮き沈みさせながら。

(理屈は分かった。だけど近親者の私と間違いを起こして、それが自信になるの?そもそも何故私なの?一番手っ取り早い女だから?でもそれは愛のない行為じゃない。そんな初体験で公徳の為になるのかしら?)

そこまで考えて、一恵ははっと気が付いた。脳裏には猫の鋭い目が浮かんでいた。

(違う。元々愛なんかないんだ。私が行為に求めていたのは愛の表象だったんだ。そして今公徳もそれを求めている。だけど私は公徳に自信を持ってほしい。現実を生きてほしい。この気持ちは本当だ。行為から愛という偽りを取り除いた後に残るこの気持ちこそ本当の愛じゃないだろうか。肉欲を超えた愛が本物の愛じゃないだろうか。つまり私は初めて愛の為の行為に及ぶんだ!)

そう考えると、一恵はもはや拒絶する理由を失った。体は拒絶していたかもしれないが、もはや精神は受け入れていたのである。一恵は無言で立ち上がり、部屋の明かりを消し、ベッドの上に仰向けになった。乾ききっていない髪が枕を濡らす。

「しょうがないな、おいで」

一恵は公徳を受け入れた。

 その後暗闇の中、二人は一糸まとわぬ湿った肌を絡ませ、声を殺してベッドを軋ませた。二人の体は実に相性が良く、柔らかな羽毛の中に身を委ねているかの様な安心感があった。弟には姉の体が自分よりも小さい事が不思議に思われた。禁断の行為を犯す背徳感は二人をより恍惚とさせた。そしていつしか息を切らせたまま、公徳は一恵の胸に崩れ落ちた。月明かりを浴びた青白い瞳を潤ませ、一恵は細い腕で公徳の頭を抱いた。いつの間にか猫が物陰から二人の様子を伺っていた。

 こうして姉は愛の行為を知り、弟は夢を諦め現実に生きた。


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