第四章
私はあの日、ヒロ君に振られた。初めての失恋だったんだ。ショックだった。あんなに仲が良かったのに。原因は私じゃなくヒロ君の方にある。彼は私を欺き続けていたんだ。一人暮らしのはずの彼の部屋で長い髪の毛を見つけたしたのは少し前の事で、その時はちょっと前に遊びに来た母親のものだと言い逃れをされたけど、若い女物の香水の匂いを微かに嗅いだ私は即座に彼の嘘を感じた。あの日は丁度私の誕生日で、彼の車で夕食を食べに出かけてたんだ。彼の車の助手席に乗ると、煙草の匂いが微かに残ってた。彼は煙草を吸う人だったから、私は彼の吸った煙草の残り香だろうと思って、何気なく灰皿にあった吸い殻を片付けてあげようと、灰皿に手を伸ばした。そこでふと気が付いた。吸い殻のうちの一本の吸い口にどぎついピンクの口紅が付いているのを。私は迷った。彼は間違いなく他の女を車に乗せている。それは間違いない。だけどそれを証拠付きで咎めてしまったら、私は彼を失う事になる。それは私にとって死ぬよりも辛い。だけど私が片手間にしか愛されていない事を黙認しているのはもっと辛い。私は悩んだあげく、黙っている事にした。もしかしたらあの吸い殻だって母親のものかも知れない。その可能性は決して大きくはないけれど、最後の最後まで彼を信じてやりたいと思ったんだ。勿論彼を失いたくなかった自分への言い訳かもしれない。だけど何があってもこの愛を守り抜く義務が私にはある様に思ったんだ。真実を暴いたところで、私には何が残るだろう?そう思った。だから私は黙っていた。食事の味も殆ど覚えていないくらいに私は動揺していたけど、私はその疑いをこの胸に秘めておこうと誓っていたんだ。ところがその日の帰りの車の中で、彼は私にこう言った。
「実は俺と別れてほしいんだ」
彼にそう言われた時、私は錯乱して何も言えなかった。押し黙る私に、彼はこう続けた。
「他に好きな人が出来たんだ。もうお前に嘘はつきたくないんだよ」
そう言った時の彼は誠実だった。彼は嘘をつき続けるつもりなんかなかったんだ。彼は私に守られる事なんか必要としていなかったんだ。それなのに、私は自分に嘘をついてまでそれを頑なに守ろうとしていたんだ!私は悔しかった。私の犠牲も欺瞞も顧みずに別れを口にして、ただ自分の誠実さだけを守り通した彼が憎らしかった。私は傷心の余り、最後まで何も言えなかった。彼の別れの提案には何とも返事をしなかったけど、もう彼に会う事はないと思う。
それからの事だ。私には男友達が数多くいるのだけど、その中で私とヒロ君の共通の友人がいて、私たちの破局を知ってる人がいたんだ。彼はマサ君というんだけど、彼は私に優しく接してくれた。私にはそれが唯一の救いだった。私はあの日から、生きる事に何の意味も感じられない虚しい生活を送っていた。もう私は誰からも愛されないんじゃないかと思っていた。悲劇のヒロインを演じる事でひたすら自分を慰めていたんだ。それはとても寂しい事だった。寂しいけど、もう誰も信用するまいと誓って、一人でいる事を決心していた。化粧もしなかったし、服にも無頓着になった。そんな凍り付いた私の心をマサ君が次第に溶かしていった。私は結局一人で生きられなかったみたい。それくらい彼は私に優しかった。と言っても彼が特別何かしてくれた訳じゃないけど、何も言わずにずっと側にいてくれたんだ。私はそんな優しさに飢えていた。それだけで二人が関係を持つのには十分だった。私はマサ君と寝た。私は何もやましい事をしていた訳じゃないんだけど、うちの飼い猫にその姿を見られた時には何故か一瞬考えてしまった。私は彼を愛してはいない。自分の寂しさを埋める為に彼にこうして寄り添っている。でも寂しさを忘れるだけなら、何も彼と寝なくたってよかったはずだ。一緒に映画を見に行ったり、食事をしたりしていればよかったはずだ。なのに何故寝たのだろう。思うに、私は誰かと一緒にいる事の肩書きが欲しかったんだ。優しいとか愛しているとか、そんな抽象的な言葉よりも肉体関係というのは確実なものだったんだ。それはヒロ君の場合にも言えた。私の育んできた肩書き。私の時間と、労力と、何よりも私の存在そのものを賭して育んできた肩書きが失われた事に、私は悲しんだんだ。私の欲しいものは愛というものの表象だったんだ!あの時私が猫の緑色の眼差しからそれを読み取ったと言ったら笑われるかもしれない。だけど私には何も口にせずに冷静にこっちを見る猫が私に語りかけている様にしか思えなかった。そんなものは欺瞞でしかないってね。私はまだマサ君と付き合っている。腕を組んで街を歩いている時に、時々あの時の事を思い出すんだ。隣にいる存在が愛の表象であって、それを群衆に見せつけながら歩いている自分に気付くんだ。罪悪感なんか感じない。人間はそうする事でしか愛を証明できない。一夫一妻制の下で差別されない為には、そうするしかないんだ。寂しさという被差別者の孤独を拭う手立てはそれしかないんだ。でも私は時々自分のしている事の無意味さに気付く。




