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第三章

 猫は日がな一日眠い。餌を食っている時以外は眠くてたまらん。一旦目を閉じると寸刻後にはもう眠っている。食う事と寝る事で如何に人間を癒すかが猫稼業に就く者の腕の見せ所なのだが、とは言え食うのも寝るのも本来の欲求に従って行っている事なので、寝ているときは本当に眠いのである。つまり猫にとっては自己の欲求を満たす事が仕事なのである。「猫にとって」とは言ったが、人間も本来は幸福になる為に生まれてくるのであろうから、そこは猫と変わらないはずである。しかし人間というものは食う、寝る以外の欲求を多岐に渡って持っているらしく、何かと苦労して忙しない。幸福の為なら不幸にでもなる何とも滑稽な種族である。

 この一家においてその傾向が最も顕著なのが長女の一恵であろう。自己の欲求を満たす事より大切な何かを追って生きているらしい。一恵は男好きなのか寂しがりやなのか、ひっきりなしに新しい男を家に連れてくる。猫にとってこれは不可解である。雌猫の場合雄猫と一緒にいるときは生殖行為が前提になっている事は前にも述べたが、それが故に雌猫はこれと決めた雄猫一匹いれば事足りるのである。これは人間であってもそう変わらぬはずで、女は生殖行為の機会が少ない訳であるから、男が一人いれば事足りるはずなのである。ところが一恵はいろんな男を連れてくる。しかもそれらの男の一人として一恵を孕ませる事はないのである。それでは何の為に男女が一緒にいるのか分からぬではないか。僕は今もって一恵の行動が不可解でならない。

 一恵は今日も今日とて家に帰ってこない。両親はもう慣れっこになっていていちいち小言も言わなくなったが、軽率な俊平などが

「姉ちゃん今日は帰ってこないの?」

等と言って家族の間にあった暗黙の了解を破ってしまう。もっともこんな事もよくある事なので、誰もが知らぬ振りをしてやり過ごしている。こういう時暫し流れる不穏な空気も、猫としては静かに眠れて却ってありがたいくらいである。

 僕が夕飯を食い、クッションの上でエアコンの温風に煽られながらうとうとしていると、急に玄関のドアの開閉する音が聞こえた。それっきり「ただいま」とも何とも言わないので、番猫としては居たたまれなくなってすぐに玄関に向かった。すると玄関のドアの前に、一恵が一人立ち尽くしていた。目から滴を流して頬を濡らしている。我々が鳴くのとは違う、泣くという行為だろう。一恵は何やら酷く気落ちしている様なので、足元に絡み付いてやってゴロゴロ言っていたら、一恵がいきなり走り出したので踵で脇腹を蹴られた。一恵が二階の自室に駆け上がる間、僕は玄関のタイルの上に仰向けに転がって傷心を癒した。母親の公子が

「一恵、帰って来たの?お夕飯はどうするの?」

と呼びかける。

「要らない」

と一恵は返事して自室のドアを閉めてしまった。一恵も僕も今はそっとしておいて欲しいのだ。

 僕は傷心が癒えると、一恵の部屋の前まで行って聞き耳を立てた。シクシクと泣きじゃくる音が聞こえてくる。その声がだんだんと嗚咽に変わり、部屋の外までよく聞こえる様になってきた。何故泣いているのか?猫心にも気になって仕方がない。特に僕は猫一倍好奇心の強い猫なのである。僕は一恵の部屋のドアを開け、中に入った。一恵は長い茶色の髪を体に敷く様にしてベッドに仰向けに横たわり、一枚の写真を眼前に掲げていた。一恵は一瞬僕の方を見たが、特に気にするでもなく再び写真に目を向けた。僕はベッドの脇から写真を見上げた。写真には一恵と一人の男が写っていた。

「ヒロ君…」

一恵は呟くと、その目尻から髪にかけて一筋の涙をこぼした。これで僕にも何となく状況が掴めた。この写真のヒロ君なる男と、一恵は喧嘩でもしたか、別れでもしたのであろう。全く阿呆な話である。生殖行為もせずに恋愛などというままごとに現を抜かしているからこういう事になるのである。猫界では雄猫は交尾をした後に雌猫の元を去っていくのが当然になっているから、別れるなどという概念はそもそも存在しない。人間も猫界に倣って男女関係を一瞬の出来事と捉えてしまえば、何もべたべたと一緒にいる必要もなければ別れて悲しむ必要もないのである。

 そう思っていた矢先である。思わぬ事件が訪れた。ある日の昼間、家の者が出払い、僕が一匹で留守番をしていた最中である。一恵はまた新しい男を連れて家に来たのである。

「いきなりお邪魔しちゃって大丈夫なの?」

男が遠慮がちにこう言うと、

「大丈夫。今日はうち誰もいないし」

と一恵が言う。誰もいない事はなかろうと思うのだが、どうやら一恵の勘定には猫の存在までは入っていないらしい。二人は腕を組んだまま二階に上がり、一恵の部屋に入っていった。僕は人見知りをするので、知らない男がこの家の敷居を跨ぐ事が不愉快であったが、なるべく男のいる方へは行かずに難を逃れようと決めた。

 ところが、一階の居間で僕が眠っていると、二階が何やら騒がしい。地震がきた様にギシギシと音がして、けたたましい獣の叫び声がする。僕はびっくりしてその場に立ちすくんだが、例の好奇心がむくむくと膨らんで、恐る恐る階段を上っていった。チロチロと鳴る鈴の音が煩わしかったが、近づくに連れてそれすらかき消される程の絶叫が耳をつんざいた。その度にピクリと身を縮めながら、やっとの事で一恵の部屋の前に辿り着いた。部屋のドアの向こうでは、何やら赤とも黄色とも表現できぬ甘い悲鳴が聞こえた。悲鳴に合わせて軋む様な音のリズムが床を伝って僕の足元に届く。何か只ならぬ事が起こっているに違いないと、思い切ってそのドアを開けた。遮光カーテンが閉まっていて部屋は薄暗い。その中にはベッドの上で絡み付く二人の一糸まとわぬ姿があった。僕は呆然と立ちすくんだ。思わずグルニャン!と叫んだ。

「あれれ、誰かと思ったら、お猫様のお出ましか」

男は余裕の表情で馴れ馴れしい一言を口にした。

「こら、ビビ。向こう行ってなさい」

一恵が恍惚醒めやらぬ表情で僕に言いつけた。僕が人間の交尾というものを目にしたのはこれが初めてだ。とんだ事になるぞと思った。一恵はまだ大学生だ。子供など身ごもってしまったら、この先どうするのだ。しかもヒロ君とやらはどうした?出産の機会はそう何度もない。そんな希有な機会をお手軽なナンバー2の男に託して良いものか?人間の女はこれほどまでに生殖機会を粗末にするものであるのかと、その神経を疑わざるを得なかった。

 しかしである。よく見ると男の陰茎の先に何かゴムの袋の様な物が被せてあるではないか。僕はその時全てを悟った。僕は恐らく、猫界では考えられぬおぞましい物を目にしたのだ。何と精子が子宮に入ってしまわぬ様、ゴムの袋で受け止めていたのだ!そして生殖行為という本来この上ない慎重さで臨むべき儀式の快楽の上澄みだけを召し上げていたのだ!すなわち、これは生殖行為ではない。生殖行為を玩具として弄ぶ何とも罰当たりな遊戯であったのだ!猫にも性欲はある。だが性欲を満たす為だけに行為に及ぶ事はない。行為に及ぶには猫にもそれなりの覚悟が必要なのである。すなわち雄猫は自分の遺伝子がこの世に遺る事を覚悟しなければならない。自分に絶対の自信を持たねばならないのである。雄猫はその絶対の自信を持つ為に生きていると言って良い。一生を戦い抜き、ようやく手に入れた揺るぎない自信を手に行為に臨むのだ。雌猫は雌猫で子供を産む苦しみを覚悟して行為に臨まなければならない。だが人間はどうだ?何の覚悟をも持つ事なく、生殖ごっこに明け暮れているではないか!人間のよく口にする愛とはつまりこれの事だったのか!しかし現実にそこに流れているのは愛などではなく、不信の念ばかりではないか。お互いに相手を信用できない。故にお互いの子供を作る勇気など持てない。責任も持てない。そういう不信の念が二人の間に鉄格子の様に立ちふさがっているのだ。だが性欲は満たしたい。一人になりたくない。そこでその鉄格子ごと抱き合うのだ。それをあたかも無いものの様に振る舞い、見て見ぬ振りをして!それは欺瞞だ。男の甘い囁きも、一恵の淫靡な喘ぎも、全て欺瞞だ!一生を賭けない交尾など要らぬ。

 僕はそそくさと部屋を出た。欺瞞の満ちた薄暗い部屋を。愛など目にすると眠たくなるものだ。

 ちなみに僕は数年前に去勢手術を受けている。愛など知る事の出来ない体になっている訳だ。猫には元々愛などないのであるが、僕は汚らわしいものがなくなった自分の体をその時大層誇らしく思ったものだ。


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