第十七章
その後の家族の行く先に付いては、わざわざここに記述するまでもない程に、凡庸である。三人の子供達は皆大学を出て就職し、結婚し、それぞれの家庭を築いた。元々草野家が住んでいた家は唯一地元に残った俊平が継いだ。一恵も公徳も、家を出てからたまに訪れる事はあっても、そこに住まう事はついぞなくなったのである。
一樹、公子の二人は俊平とともに終生家に住み続けた。息子に迷惑はかけまいと、一樹、公子の老夫婦は施設行きを望んだが、俊平はそんな両親の気持ちを忖度し、なるべく家で面倒を見た。もっともこれは俊平の思いやりというよりも、公子が老人二人の介護する場面を見ていればそれが当然と思われた結果である。
老人と言えば、かつてこの家で介護されていた老人達は実に長生きした。二人が示し合わせた様に世を去ったのは俊平が働きだして三年程経ってからの事であったから、公子の介護は前述の物語の時期から実に十年は続いていた事になる。
一恵も公徳も、俊平だけに親の面倒を押し付ける事はさすがに心苦しく、時たまこの家を訪れては俊平や俊平の妻の手伝い等をしていたが、やがてはそれぞれの子供が大きくなると自分の家の事で手一杯になり、自ずとこの家から疎遠になった。そのため両親の最期を看取ったのはやはり俊平であった。
そんな俊平の子供達は皆独立し家を出て、妻は病気の為に俊平よりも早く亡くなった。遂にこの家には俊平一人が残されたのである。
結局草野一家はこれといって極度に幸福でも不幸でもない、何の変哲もない、ごく普通の家族であった。今となってはその時の事を誰が覚えていようか。増して家族生活のほんの一部を彩ったに過ぎない小さな命を。家族の視線を憚って、押し入れの奥で静かに眠りについた柔らかな鼓動の終息を。彼は幸福だったろうか?人間を知る事で、人間の中に生きる事で、彼自身の一生を主観的に見て幸福足らしめる事が出来たであろうか?これは俊平の一生のうちで数少ない哲学的難解さを持つ疑問であったが、かつこれほどに解答を拒んでいる疑問はなかった。なぜなら年老いた俊平は、己の一生もまた幸不幸の判断がつかぬままに終わろうとしていたからであった。
(幸不幸など人間の作り出した幻想的概念に過ぎん)
それは真の幸不幸の意味など死に至るまで誰にも分からぬであろう事を悟った俊平の出した、強いて言えば結論らしい結論であった。第一、幸不幸などと言う青臭い議論にいちいち結論を見出すには、俊平はあまりにも年を取り過ぎていた。生を貪り続けた者が今更その生について評価する事の滑稽さは俊平のあまりにも知悉するところであり、とうに諦めのついているものであった。
春のうららかな日差しを背に、俊平は瞼の裏に暖かくちらつく影を感じて、暫く閉じていた目をそっと開いた。




