第十六章
久子 こうしてのんびり生きていられるのも後何年かしらね。今のうちにこの世の空気をたっぷり吸っておかなくちゃね。
史郎 そんなに死ぬのが怖いかね?
久子 そりゃあんたはいいわよ。文無しで寄る辺もない、毎日公子さんにいじめられてばっかのあんたに未練なんてないでしょうよ。
史郎 そりゃひでえ誤解だ。確かにわしには金も家もないが、その分自由があった。わしは自分の人生にかけちゃあ、これでもこれっぽっちも後悔してねえつもりだ。何処かの箱入り娘さんの人生が可哀想でならんくらいだ。
久子 言ってくれるわね。今の自分の姿を見ても同じ事が言えるのかしら?自分の娘に召使いの様にこき使われてる爺さんのどこが自由だって言うのよ。
史郎 それを言っちゃああんただって一緒だ。あんたが稼いだ金は息子さんに管理されてて、あんたの自由になる金なんざ今やどこにもねえ。要するに今となっちゃお互い何も残っちゃいない訳さ。
久子 ああ、悲しい事だわね。若い頃には持て余した財産も時間も、歳を取ると全て無くなってしまうんだわ。ただでさえ美しさも能力も奪われているのに!
史郎 そのうち記憶もなくなるだろうさ。認知症だからな。歳をとるってのは蚊取り線香みたいなもんだな。渦の外側から徐々に消えて無くなっていって、最後は真ん中の命もろとも全てが灰になるんだ。
久子 あなたそれちっとも詩的な例えじゃないわね。灰になるだなんて夢もないし。
史郎 本当に灰になっちまうんだからしょうがない。それに蚊取り線香は燃えている間はちゃんと役割があるからまだいい。わしらは何の為に生きたのかついぞ分からんまま死んでいくんじゃないかね。
久子 何の為って、次の時代に命を紡ぐ為じゃないの?私たちだってそれだけは果たしたわ。
史郎 しかし次の命も同じ様に、全て失った挙げ句に何の為に生きたか分からずに死んでいくんだ。その繰り返しさ。そう思うと命を紡ぐ事も無意味に思えてきやしないかね?
久子 まあ、何てニヒルな!それなら生きるのに意味なんてなくって結構。無に還る事に意味があるんだわ。
史郎 そのとおり。金も時間もあの世には持っていけねえが、そんな詰まらんものが必要なくなるくらいに、無になる事は素晴らしい事に違いねえ。多分。
久子 随分知った様な事を言うのね。そこまで言うならお先に逝っておしまいなさいな。




