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第十五章

 いつにも増して寒い春が来た。家族は皆少しずつ薄着になっていくが、僕はまだ冬の毛皮がそのまま残っている。年がら年中毛並みの事ばかり気にしているのもどうかと思われるかもしれないが、猫は大抵洒落者なのだ。家族に椿事があったとすれば、公徳が東京で一人暮らしを始めた事であろう。無事東京の大学に進学が決まって、公徳は家を出たのだ。春は出会いと別れの季節らしい。家族は皆公徳の進学を喜んでいた。中でも一恵は一際驚喜して、公徳が大学の合格発表を見て帰って来た時

「あんたは偉い!」

と叫んで人目も憚らず公徳の頬に口付けした。しかし公徳が

「姉ちゃん、ありがとう」

と言うと、自室に駆け込んで暫くいなくなってしまった。

 公徳が巣立った後、両親は茫漠とした寂しさを表情に表していた。こうして一人また一人とこの家を去って行く事の実感が湧いたのであろう。俊平が同じ様に進学するか、一恵が何処かへ嫁ぐか、あるいは年寄りか僕が死んでしまうか…。いずれもそう遠くない未来の様に思える。人間にとって離別は辛いものであるらしい。それも喜ばしいが故に辛いものであるらしい。辛いだけなら単に引き止めれば良いだけの話である。そう出来ない喜ばしさが離別を強制しているとも言える。僕はこの悲喜の入り交じった感情を人間特有の物と思う。なぜなら猫界には別れに際して悲しかないからである。にもかかわらず猫には別れを引き止める力がないのである。

 人間の年寄りが幸福だとは思えない。この家の二人の年寄りはいずれも死別を喜ぶ様子が見当たらないからである。辛いだけの死別か、喜ばしいが故に引き止めてはならない死別か、二通りあるとすれば、間違いなく人間の年寄りは前者に当たるであろう。それはまるで猫が新たな飼い主に連れられて家族と離別するときの様な別れである。死を喜べないのは死への無知から来る恐れ故であろう。それは誠に当然の事の様に思える。生という飼い主から死という飼い主に引き渡されて、不安であろう事は猫にも想像がつく。しかし人間はある意味これほど喜ばしい門出の日を祝う気にはなれないのだろうか。新たな飼い主が見つかったことは、今振り返ってみれば喜ばしい事である。生が持て余しつつある自分を、死が受け入れてくれていると考えれば、誠に歓迎すべき邂逅ではないか。然るに、人間の年寄りはいつまでも生に執着し、生きながらえようとする。そこには死に対する悲観しかない。これは死に対する冒涜ではないか!僕は未来の飼い主を愛する。きっと大事にしてくれると信じる。例え僕という固有の存在が無の海に溶け入ってしまっても。僕の存在を知る者もみんな死んで、僕がこの世に存在した事実すら無になってしまってもだ。


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