第十二章
新年を迎えた。新年と言っても、昨日までと何も変わらないものをありがたがっている人間が不思議だ。心を新たにするとか、神様にお参りするとかいうのであれば普段からそうしておけばよいのだ。無理して新年あけましておめでとう等と心にもないことを言うのは苦痛ではないのか。現についこの間まで年賀状書きに追われてひいひい言っていたではないか。
人間はこんな阿呆な習性を何となしに自覚していながらも、それでもこの季節にははしゃぎたくなる性分らしい。春にはまだ遠いが、迎春の二文字を見るだけで振り袖を着て混雑する神社に並ぶし、家には挨拶と称して人が沢山尋ねてくるし、テレビはがちゃがちゃと五月蝿いし、何か白くて硬い粘土の様な物ばかり食べているし、もうやってられん。やかましくて寝られんし刺身も出てこないのだ。
この家でも俊平程こういう阿呆さを曝け出している奴はいない。新年になるや否やバイクで走り回って「新年組」等と抜かしておる。お祭り好きなのはいいが、家族の恥を晒しながら僕の眠りを妨げないでほしい。家族はもう俊平を諦めているから良いが、僕は眠りを諦められん。
ある道端に雪の残る晴れの日、雪解け水をまき散らしながらしどけない格好で俊平がバイクで走り去っていくのが見えた。何やらブンブンとけたたましい音が遠くでまだ鳴っている。奴はとにかく目立ちたいのだろうか?自己顕示欲とは何か大きな権力に追従することで満たすのが普通であるが、彼はそれを大きな音を立てることで満たしているのだろうか。まあよい。それは何か自分の強さを誇示する為に行う威嚇の様なものであろう。それなら猫にも分からんことはない。猫もシャーシャーと蛇の様な声を出して威嚇することがある。男にはそんなことをしたくなるときもある。
ところが、一時間程後、家々の向こうから数多くのバイクの音が響いてやってくるのが聞こえた。最初はミツバチの大群の羽音に聞こえた音も、近づいてくるに連れて地表に轟く様な爆音に変わった。僕が眠りから飛び起きて恐る恐る窓から外を見てみると、厳ついバイクに乗った愚連隊の様な連中が僕の目の前をわらわらと通り過ぎていった。街の皆は驚き、目を合わせない様に身を翻し、耳を塞ぎ、多くは家の中に退避する。僕は何かイライラした気持ちが湧き上がって、「止まれ!」と吠えて窓ガラスに張り付いたが、家の中だったので無力だった。そして僕はその中に紛れもない俊平の姿を見つけたのだ。奴は偽悪という物を利用して主張していた。反体制という体制の権力を!俊平は学校での成績もよくスポーツだって良くできる。だが何故だ?何故それで満足できないのだ?それは更に大きな権力を手にする為だ。「悪」という権力を。しかし悪というのはそんな物生易しい物ではない。悪とはもっと悲惨だ。社会から差別され、排斥されて生きる道だ。それを奴らは格好だけ真似て、自分の「善」の弱さを否定しているのだろう。「善」の弱さは権力に追従することから生ずる。そうであれば正に奴らは「善」そのものではないか。「悪」の権力を纏って、それに追従して、弱さをまき散らして走る矛盾の塊ではないか!
猫の世界に「善悪」の概念はない。「善悪」の概念は人間の道徳心から生まれた先入観に過ぎぬ。人間の言う「悪」にはそれ自身の持つ恐ろしい矛盾がある。「善」が既成の道徳観の権力に従う弱さであれば、「悪」は反道徳という新たな権力に従う弱さなのだ。つまりその世界では「悪」は「善」に他ならないのだ。「善」も「悪」も弱いことには変わりない。本物の悪はそのどちらにも属さない、本当に強い存在だ。そしてその存在の強さは善に転化することはない。存在本来の悪だからだ。どんな差別にも排斥にも嫉妬にも軽蔑にも嘲笑にも負けない強さは更なる悪として認識される。それはその強さをして悲惨で堪え難いものだ。俊平!お前にその覚悟があるのか?お前は「善」になりたいだけではないか?それならばそれを自覚して生きた方がよい。なぜならば「善」になりたいがために「悪」を装っている人間はそのうちに本物の悪になってしまうからだ。道を誤るな俊平。悪に生きる術はないぞ!
路傍に捨てられた野良猫を見よ!彼らは病気で視力を失い、痩せこけて力もなく、毛並みはぼろぼろで埃にまみれ猫の美しさをもはや持っていない。あれこそが悪だ。悪の生き様だ!彼らの精神の強さを見よ。それでも彼らは生きていかねばならないのだ。しかもその強さが故に彼らは悪に身を窶すのだ。
俊平、「悪」の振りをした「善」を目指すより、「善」の振りをした悪になるがいい。見た目は何の変哲もない常識人、しかし心では世の中を醒めた目で見ることに徹する非常識人。その方がよほど面白みもあろうというものだ。




