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第十章

 冬だ。体中が毛深くなって、もうモコモコだ。しかしそれでも四六時中裸でいる身には寒さはこたえる。僕は火燵に潜って一日を過ごす。たまにこの空間が真っ赤に染まった時は暖かくてよい。誰かの足に蹴られる事もあるが、それしきの事では立ち退かない。

 しかしそんな時に限って「火燵布団の洗濯だ」とか言って、火燵を丸裸にしてしまう奴がいる。母の公子だ。家族全員迷惑そうな顔をしつつも、誰も逆らえない。一度だけ試みに剥ぎ取られた火燵布団に食いついた事があるが、見事に振り払われた。しかもあろう事か公子はその後「空気の入れ替えだ」とか言って家中の窓を開け放ったのだ。もう寒くてたまらんので、公徳の布団にもぐってそのままふて寝した。とまあこんな風に家族の迷惑も顧みず自己の義務を全うする程の生真面目さが公子の性格であろう。もっともこの義務感のお陰で、僕は毎日餌にありつけるし、綺麗な便所を使えるのだ。むしろ公子には感謝せねばならないだろう。

 しかしこんな強靭な精神の持ち主にも悩みはあるらしい。生真面目というのはそれだけこの世の中の見えないしきたりに背いているという事であり、そういう人間は報われない思いをするのであろう。公子は家に一人でいると大抵は電話で離れて暮らしている妹との無駄話に興じている。それが単なる世間話に終始すればよいのであるが、家の愚痴をふんだんに盛っているから始末が悪い。日頃の生真面目さのはけ口であろう。例えばある日の公子の電話口での会話である。

「うちなんか年寄りが多くて大変よ。二人とも要介護なんだもの。休んだりできないわよ。病院の送り迎えして、二人の食事を作って、汚れたもの洗って、それが子供の世話ならまだ良いけど、年寄りなんてこれから死んでいく人の世話だからね。徒労感しかないわよ。介護鬱になる人の気持ちも分かるわね。大体年寄りって可愛くないのよ。人の言う事は聞かないし、物はすぐ忘れるし、耳は遠いし、おまけにお義母さんなんか自分の娘のところに行く度に私の事悪く言ってるらしいのよ。それなら娘に面倒見てもらえば良いのよ。うちの旦那は何言っても頷くばっかりで何もしてくれないしね。そうそう旦那と言えばね、この間旦那のスーツのポケットから私が行った事もない高級レストランのショップカードが出て来てさ。これどうしたの?って問いつめたんだけど、会社の付き合いで行ったって言うのよ。接待だってそんな高級レストランに行く訳ないじゃないの。増して営業職でもないんだから。あれは怪しいわね。どこの女に貢いでんのか突き止めてやらないと。ああ、このままじゃ私子供が独立しても旅行にだって行けやしないわ。そうそう、子供と言えばね、この間夜中に一恵の部屋で物音がするから、耳をそばだてて聞いていたのよ。公徳と二人で何か話してたらしいんだけど、その後ね、何かがたがた物が揺れる様な音がしたの。私は怖くなってそのまま寝てしまったんだけど、どう思うこれ?それからと言うもの一恵は男を連れてこなくなったし、公徳は勉強に励む様になったんだけど、逆に気味が悪いわよ。あの二人いつもべたべた一緒にいて、何か危ないわ。俊平?ああ元気よ。元気すぎて困ってるわ。友達とバイクで出かけてばかりいるのよ。あの子は馬鹿ね。猫?猫は食って寝る以外何もしてないわよ。デブになったから、今度見にいらっしゃい」

 これで全部ではないが、大体こんなところである。ひとしきり愚痴を言い終わると、公子は受話器を置く。正直聞いているこっちが疲れる程の情報量である。しかし家族という物は大変だ。これだけの愚痴のやり取りをしていてよくネタが尽きないものだ。猫界では家族という概念がない。父親は生まれたときからいないし、母親や兄弟とも大抵はすぐに離ればなれになる。よって猫にとって肉親は幼い頃の頼りない記憶の中に生きるのみである。それは寂しい事ではあるが、忘れ難い思い出として生涯心の中に大切にしまっておけるものだ。ところが人間界の家族とは皮肉なもので、生まれてから良い大人になるまで一緒にいるもんだから、いい加減飽き飽きしてお互いの欠点にしか目がいかなくなる。家族という美名もこれでは台無しだ。家族とは元来一緒にいるべきではないのだ。離ればなれになってこそ家族にも価値があろうというものだ。しかしながら人間界、殊に日本ではそう簡単にもいかぬらしい。子供は一人では育たぬという迷信の下に、親が子供の教育において全責任を負うシステムになっておる。しかし一人で育った経験のない人間程歳を取ってから一人で何も出来なくなる。独立心が育たぬからである。二人の老人を見よ。今や猫以上に何も出来ぬ存在ではないか。家族など足かせに過ぎぬ。それも時限爆弾付きの!早く抜け出さない事には無能力者になってしまうのである。

 この僕を見よ!猫一匹で立派に生きておる。勿論草野家に養われている訳であるが、では何故この家は僕を捨てないのか。それは単に運がよかったという事もあろうが、もう一つにはきちんと役に立っているからと言える。猫稼業は見た目の美しさだけでは勤まるものではない。鋭い人間観察力と決して家族を飽きさせぬ駆け引きが求められるのである。保健所で殺処分にされる犬猫の数を知っているだろうか?無責任な飼い主が手前勝手な理由で捨てていく犬猫の大半が殺処分にされるのだ。僕だってそうならないとは限らないし、もしかすると僕の兄弟は既にそうなっているかも知れぬ。しかし不平を言っても始まらぬ。僕らはそれも運命だと受け入れるしかないのである。与えられた状況を与えられた能力で精一杯に生きる。そして自身の運命を愚痴らずに受け入れる。それが一人で生きていく力というものだ。人間は殺処分される事はない。ならば一刻も早く独立すべきだ。


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