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第一章

 ある昼下がりの日差しの翳る軒下に、一人の老人が煙草を吸っていた。季節は春。いつにも増して暖かな微風が心地よい日和である。薄目を開けながら煙草と風の香りを楽しんでいる老人は、何やら遠い日の感傷に浸っているらしかった。

 かつて賑やかだったこの家にも、今やこの老人一人しか住んでいない。老人は草野俊平と言い、齢は七十を超えている。昔は大柄で筋骨の逞しかった肉体は今では見る影もなく、腰が曲がってやせ細っている。俊平の見つめる庭先には芝生が一面に生い茂っており、奥の方に煉瓦に囲われた花壇がひっそりと乾いた土を盛り上げて一定の面積を占めている。庭の隅には一本の杉の木が植わっており、豊かな緑葉を纏って庭に丸い影を落としている。俊平の微かな視線はその杉の木の隣に立ててある墓石に注がれていた。土埃で色褪せた黒い墓石には、

「愛猫ビビの墓」

と彫られている。

 俊平老人は思い出していた。かつてこの家で暮らし、今は散り散りになった家族の事を。ある者はとうにこの世から旅立ち、またある者はこの世のどこかで今も暮らしている。

(皆どうしているだろう…)

俊平は空に漂う一切れの雲を見つめて、この世ともあの世とも知れぬ場所に思いを馳せた。同時に老人らしく懐古の念を抱いた。この家に家族が住んでいた頃、それはまだ俊平が少年の頃の話だが、家族全員が一つの電燈の下で食卓を囲んでいた。必ずしも家庭円満という訳ではなかった。家族のそれぞれが人生の迷いを抱え、その苦しみを胸中に宿しながら、それでも何とか家族の体裁を保っていたと言っても過言ではない。しかし各々の苦しみを包含したこの家が却って家族を家族的なもの足らしめていたとしたら、家族とはちょうど苦汁を加えた豆腐の様に、一滴の苦しみによって凝固されるものかも知れなかった。

 白く柔らかな煙を立ち上らせ、俊平は思い描いた。家族を包む温かな明かりの隅っこで、人知れずそれを見守っていた存在を。その鋭い眼光でこの家の守護神の役割を全うし、それでいて誰よりも早くこの世を去った瞬息の命を。思い起こせば昨日の事の様に俊平の心に蘇ってくる彼の思い出、白く柔らかな体、宝石の様な緑光の眼差し。彼を抱き寄せた時の恍惚をありありと思い出しながら、俊平は目を閉じ、暫し記憶の闇の中を彷徨った。


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