第2話 ぶん殴らせろ
祥子が保健室で手当てを受けている間に、生徒たちが自主的に職員室と情報共有をして担任の数学教師につないでくれていたらしい。そしてその数学教師が晃に電話したそうなのである。
五時間目が終わって、チャイムが鳴った。時刻は午後二時、普段なら晃は仕事中である。妖魔と戦っていたらすぐに来られないのではないか。晃は強そうだから簡単に倒していそうな気もするが、現場仕事なのでどこで妖魔退治をしているかわからない。常磐線沿いに松戸や柏に行くこともあるらしい。
額はまだじくじくと痛むが、耐えられないほどでもない。それに六時間目は大好きな古典の授業なので出たかった。けれど、周りに引き止められた。
「頭部なんだから、病院で検査してもらったほうがいい。意識がクリアだから救急車は呼ばなかったけど、お父さんと病院に行って、ひと晩様子を見てもらいなさい。途中で意識がなくなるかもしれないんだから、絶対に一人になっちゃだめ」
養護教諭に真剣な顔で諭された。祥子は「そんな大袈裟な」と言いつつも、ちょっと怖くなってきた。
「でも……お父さん働いてるし……すぐには来れないかもしれないし……六時間目……」
「お母さんは?」
一緒に待機している蓮が言う。
「藤牙さんのお母さんは何してるの? ていうかこういう時、まずお母さんに連絡しない?」
祥子はうつむいた。
「うち、お父さんしかいないの……。お父さんと二人暮らしなの。お母さん、わたしが小さい時に死んじゃって……」
蓮が「あ……」と呟く。
「なんか、ごめん」
養護教諭が溜息をつき、蓮をたしなめる。
「そういう偏見、よくないわよ。どの家だってそれぞれ事情があるんだから。小宮山くんのおうちみたいに、お父さん、お母さん、兄妹、という家庭が普通なわけじゃないの」
「すみません……」
蓮が視線を逸らす。
「でも、うちのお父さんを待ってたら放課後になっちゃうかも。仕事であちこち点々としてて、今日どこが現場なのかわからないんですよね」
「放課後になっちゃってもいいのよ、藤牙さんを一人にしないことが大事なんだから。先生、藤牙さんのお父さんに会えるまでここで待つ」
なんと立派な教師なのだろう。祥子は彼女を尊敬の眼差しで見た。
それにしても、大事件になってしまった。祥子の怪我はなんでもない擦り傷なのに大騒ぎだ。
とはいえ、眼鏡がだめになってしまった。眼鏡がないと何もできない。そう思うと、晃に来てもらったほうがいいのかもしれない。手でもつないでもらわないと、危なっかしくて外を歩けない。
六時間目のチャイムが鳴ってすぐ、保健室のドアが開いた。そちらを向くと、晃と数学教師の二人が息を切らしてこちらに入ってくるところだった。椅子に座っていた養護教諭、蓮、それから祥子も立ち上がった。
「祥子」
晃が大股で祥子のほうに近づいてきた。
そして、滑らかな動きで腕を伸ばしてきた。
ぎゅ、と、強く抱き締められる。蓮や教師たちが見ていると思うと恥ずかしいが、ちょっと安心もする。
「びっくりしたな」
「そんなことないよ」
「お父さんはびっくりした」
「大丈夫だよ」
体を離す。眼鏡がないのでわかりにくいが、なんとなく、晃の顔が泣きそうにゆがんでいる気がした。
「お父さん、仕事は?」
「そんなものどうでもいい。……まあ、一応言っておくと、龍平を叩き起こして引き継いできた」
「そっか。龍平さんに悪いことしちゃったね」
「祥子が気にすることじゃない」
今、祥子の前髪は玲奈提供のヘアクリップで留められている。眼鏡を失い、前髪をすべて上げたことで、顔面のほぼすべてが外気にさらされている。晃の顔を見て、今きっと同じ顔をしているのだろう、などと考える。担任は入学式後に一度晃と会っているはずなのでだいたいの事情を知っていると思うが、養護教諭と蓮は驚いているかもしれない。
晃は祥子の頬をちょっと揉んで「顔色は悪くないな」と確認した後、蓮のほうを向いた。
「てめえか、うちの祥子に怪我をさせたやつ」
その声はいつになく低くて、怒りのあまりか震えている。祥子もぞっとするほどの、めったに聞かない声である。
蓮は腰が直角になるほど深く頭を下げた。
「すみませんでした。申し訳ありません。俺がクラスメートとふざけていたせいで、ぶつかって突き飛ばす形になってしまいました」
真面目な少年だ。謝罪も理由の説明も、祥子が聞いた時と一緒だった。
けれど、晃の怒りは収まらないらしい。
「ぶん殴らせてくれ」
数学の担当のわりには背が高く体幹がしっかりしている担任が、「まあまあ、落ち着いて」と言って晃の肩をつかむ。
「娘が怪我をさせられて落ち着いていられるか」
「お気持ちはわかりますが、ここで小宮山を怪我させると、藤牙のお父さんのほうが傷害で訴えられかねませんから。相手は高校生の子供ですからね」
蓮が「うちの親はそんなことしません」と声を張り上げた。
「悪いのは俺なんです。それで藤牙さんのお父さんが納得するなら、俺は殴られます」
その態度を見て、心が動かされるところがあったのだろうか。晃は細く深く息を吐いた。
「とりあえず、娘さんを病院に連れていってください」
養護教諭が言う。
「本人の意識がはっきりしているのでたぶん大丈夫だと思いますが、念のためCTなどを取ってもらってください。そしてひと晩お父さんがついて様子を見てあげてくださいませんか」
晃が頷いた。
「診断書があれば、学校の保険も利きますし、その……、あまり考えたくないことではありますが、最悪被害届を出すことも可能ですからね」
蓮の顔色が少し悪くなった気がした。祥子は慌てて「いりません」と主張したが、担任に「まあまあ、保険のためだし、僕の始末書の記入に協力すると思って」と言われれば頷くしかない。
「わかりました。診断書。はい、そうします」
晃は教師二人の話を聞いているうちに少しずつ落ち着いてきたようだ。祥子は胸を撫で下ろした。
「わたし、早退しなきゃいけないんですか? あと、漢文と英文読解なのに……せっかく昨日予習したのに」
「勉強が好きなのはとてもいいことなんだけど、藤牙さんの体が一番だからねえ」
晃が「帰るぞ」と言う。祥子はしぶしぶ頷いた。
「荷物は藤牙さんの部活のお友達に頼んで持ってきてもらったので……これです」
養護教諭が差し出したリュックサックを、晃が肩に掛けた。
「歩けるか?」
「歩けるけど、眼鏡がないから怖い」
「じゃ、手をつなぐか」
晃が差し出した手を握る。刀を振るう晃の手はごつごつしている。けれど祥子は安心した。自分はこの手に育てられたのだ。
二人で保健室を出た。
ふと後ろを振り返ると、蓮がずっと頭を下げていた。なぜか祥子のほうが申し訳なくなってきてしまって、胸がぎゅっと苦しくなった。




