第3話 祥子のためだったら、俺の傷をほじくり返すことぐらい 1
翌朝、祥子はすっきり起きた。
晃の布団はすでに片づけられていた。どこに行ったのかと思ったら、卓の上に昨夜は内線電話の近くにあったメモ帳が置かれていて、一言「温泉入ってきます 父より」と書かれていた。もう起きて大浴場に行ったらしい。祥子も温泉に入ろうと決意して、布団をたたんでフロントに向かった。新しいタオルを貸してもらうためだ。
露天風呂に浸かって、体を温める。天気予報アプリによると、今日は梅雨の中休みだそうである。雲が完全になくなっているわけではなかったが、空は比較的明るく、太陽がすでにそこそこの高さまで昇っていた。晃が晴れ男だというのは本当かもしれない。傘をなくさないようにしなければ、と思いながら風呂から上がる。
部屋に戻ると、晃が服にアイロンをかけていた。バッグに入れていたせいでしわがついたのだろう。こういう大きな旅館になるとアイロンも貸し出してもらえるのか。
晃の作業はすぐに終わり、そう時間を置かずに二人で食堂に向かった。朝食は部屋ではなく食堂に集まるシステムらしい。運んでもらいたいという気持ちもなくもなかったけれど、それだと早起きしないといけなくなる。好きな時間に起きて好きな時間に食べるには、客にとっても従業員にとってもこれでいいのだ。
朝ご飯は、焼いた干物とほうれん草のおひたし、漬け物、温泉卵、味噌汁、納豆ご飯に味付け海苔だった。日本の理想の朝食だ。晃と祥子は舌鼓を打ちながら食べた。
「ひとに作ってもらうご飯、サイコーすぎる」
晃のその発言には、祥子は少し、うっ、となった。祥子もいい加減晃にご飯を作ってあげるべきか。明日からはもうちょっとがんばろう、と思った。とはいえこれはたぶん明日には忘れている。
食べ終わって食堂スタッフに食器を片づけてもらったら、いよいよ身支度を整えてチェックアウトだ。
実は、ここからが本番なのだ。
祥子は晃が買ってきた服に着替えた。亀有のアリオではなく、上野の松坂屋で買った、高価なワンピースだ。通気性は良いが少し厚みのある上質な生地の水色のワンピースで、白い襟がついている。後ろのホックを留め、チャックを上げると、丈は膝下くらいだった。ちゃんとしたところに行くための服だ。長くてまっすぐの黒髪が、背中や肩をさらさらと流れる。姿見を覗き込んだら、清楚なご令嬢が映っていた。前髪が短すぎて眉毛が全部出てしまうのだけが少し恥ずかしかった。
晃も、スラックスとワイシャツにジャケット、というちゃんとした恰好をした。こんな恰好は入学式や卒業式といった式典でしか見たことがない。仕事もジーパンにパーカーで行くような男がジャケットを羽織っていると、いろんな意味でどきどきする。髪形も少しハードめのジェルで整えて前髪を上げた。まるでどこぞの若社長といった風情だ。
「よし、行くぞ」
いったいどんなところに連れていかれて誰に会うのか、祥子はまだ聞かされていなかった。こんなにちゃんとした恰好でないと行けないところなのか。心臓が爆発しそうになる。しかし、自分の霊力をコントロールするために必要なことなのだ。祥子は服装に合いそうな静かな態度で頷いた。
二人はまず伊東線で熱海駅に戻った。コインロッカーに大きな荷物を預けて、これもまたよそ行きの小さなショルダーバッグに持ち替える。
タクシー乗り場で、タクシーを拾った。晃は運転手にピンポイントで住所を伝えた。運転手は「承知しました」と言って車を走らせ始めた。タクシーが坂道を登り始める。どんどん山の中に入っていく。
「お客さんの別荘ですか」
運転手がバックミラーをちらちらと見ながら訊いてきた。どうやら行き先は別荘地らしい。
晃は「いえ、違います」とだけ答えた。
「知り合いが住んでるんです」
「へえ、ずいぶんお金持ちのお知り合いだら。お客さんっちも芸能人ですか?」
「違います」
「そうですよね、お二人ともテレビで見てたら忘れない顔してますもん」
運転手が明るい声で笑う。よくしゃべる男だ。
「熱海はまめに来るんですか?」
「いや、この子が産まれてからは初めてです」
「熱海はいいところですよ。東京から近いもんで、いい企業に勤めてる人は新幹線通勤してます。海もあって、山もあって、空気も食べ物もいい。電車でちょっと西の沼津に行けば高校もいっぱいあるから、妹さんにちょうどいいんじゃないですか」
「そうですか」
「バブルがはじけたばかりの頃は観光客がさあっと潮が引いたようにいなくなって、一回さびれちゃったんですけどね。私もあの頃はホテルを経営してたんですが、廃業しました。暗い時代でした。同業者が首をくくってね」
「そう」
口数の少ない晃から緊張が伝わってくるようで、怖い。
運転手のおしゃべりを聞いているうちに、目的地についた。
山の中にある、竹垣に囲まれた屋敷だった。竹垣の向こう側ではあるが、黒い屋根瓦が見える。どうやらかなり大きな和風建築の屋敷のようだ。
タクシーをおりて、正面玄関に向かう。黒い鉄の門扉に防犯会社のステッカーが貼られていて、防犯カメラがついていた。
晃がインターホンを押した。間を置かず、電子機器越しの「はい」という女性の声が聞こえてきた。
「晃です」
向こう側にいる女性が、わずかな時間、沈黙した。
『すぐお迎えにあがりますね』
そう言って、接続を切った。
緊張がさらに高まる。晃も何も言わずに硬い顔をしている。
扉が真ん中から開いた。自動式なのだろうか、一定の速度で左右にゆっくりスライドして開いた。
扉の向こう側には、整えられた石庭があった。さらにその向こう側に全貌がわからないほど大きな屋敷があり、石畳で門とつながっている。
石畳の上に、背は低く少しぽっちゃりした女性が立っていた。だいたい六十歳くらいだろうか、ファンデーションを塗っただけのつやつやした顔にくっきりとしわが刻まれているが、背筋はぴんとしている。
彼女はこちらに向かって深々と頭を下げた。ゆっくり顔を上げて、目元を押さえる。
「ようこそ、よくおいでになりました」
「お久しぶりです、清恵さん」
「ご立派になって……。すっかり大人の男性ですね」
「清恵さんはまだうちで働いてくれてたんですね」
「ええ、ええ。我が扇家は先祖代々お仕えしてきた家ですから、ちょっとやそっと何かあったくらいでは離れませんよ」
清恵、と呼ばれた女性が、微笑みながら祥子のほうを見た。
「こんにちは、お嬢さん。祥子さんですね」
祥子は慌てて頷いた。
「こちらは扇清恵さん。お父さんのこと、子供の頃からお世話してくれてた人。乳母みたいなもんかな。祥子が赤ちゃんの時にも、こっそり食事を差し入れてくれたりしたことがあるんだけど」
な、なんて? と聞き返したかったが、祥子は涼しい顔をした令嬢でいなければいけない気がしたので、黙って「はい」と適当な返事をした。
「おぼえてらっしゃらないわよね、最後に会った時、祥子さんはまだ三歳でしたもの」
「子供はそんなものかもしれませんね」
清恵が「ささ」と言って玄関のほうへ二人を導こうとする。
「晃さんをお待ちになっていますよ」
誰が、と聞きたくて、聞けない。
彼女は、一回玄関のほうに向かったが、玄関を開けることはなかった。向かって左のほうに二人を案内した。松が続く道を進む。やがて広い玉砂利の庭に出た。
庭には大きな池があって、鯉が泳いでいた。その鯉に餌をやっている人の姿があった。黒く長い髪をまとめ髪にした、薄紫色の着物を着た女性だった。
彼女はこちらを見なかった。玉砂利を踏む音でひとが近づいていることぐらいわかっているだろうに、あえて無視をしているようだった。
清恵が彼女に話し掛けた。
「奥様、晃さんと祥子さんですよ」
彼女がようやくこちらを向いた。
肌は抜けるように白く、どんな手入れをして何を塗っているのか、しみもしわも一切見当たらなかった。黒々とした瞳も長い睫毛に守られており、薄紅色の唇にもしわが入っていないように見える。まったく年齢のわからない女性だった。
祥子は、思わず声を漏らしそうになった。
彼女の顔が、晃に、そして祥子に似ている。
「祥子さん」
清恵が優しい声で言った。
「あなたのおばあさま、晃さんのお母様の、藤牙瞳さんですよ」




