第1話 やめて、わたしのために争わないで
六月が近づいてきた。そろそろ梅雨の季節だ。しかし五月はまだあと数日残っているし、天気予報も今年の梅雨入りは少し遅そうだと言っている。今日も空は快晴で、週末も天気が崩れる心配はなさそうだった。
学校の昼休みは、祥子はいつも晃の手作り弁当を持って空き教室に行くようにしていた。そこでは、通常教室に居場所がない生徒たちがひっそりと集まり、陰の者同士うまくやって昼食をとっていた。祥子も別のクラスの友達である美夜、玲奈、古春と合流して、四人でしゃべりながら楽しい昼休みを過ごしていた。
その穏やかな日常を、今日、打ち破らんとする者が現れた。
「藤牙さん!」
教室の前の扉が開いて、息をせき切った小宮山蓮が入ってきたのだ。
教室内がざわついた。なにせサッカー部のエースである蓮は陽キャ代表みたいな男だ。陰キャのサンクチュアリに立ち入っていい人間ではない。
しかしそんな空気をものともせず、彼は祥子たち文芸部メンバーに近づいてきた。祥子たちが机を四つ組み合わせて大きなテーブルを作っていたところに、また別の机から椅子を持ってきて座る。彼のその動作は流れるようで、女子四人の視線を集めることもなんのその、恐れを知らない快活なスポーツ少年のそれだった。
祥子と蓮の目が合う。蓮がはにかんだ笑みを浮かべる。祥子はどこに視線をやったらいいのかわからず、ただただ硬直した状態で蓮の顔を見つめた。
「藤牙さんさ、今度の日曜日何か予定ある?」
「ない」
祥子の休日には予定が入っていた試しがない。せいぜい図書館か本屋に行く程度で、あとはずっと自宅でだらだらと本を読んでいる。晃に「遊びに行きなよ」と言われるレベルである。
蓮が少し緊張した顔をした。
「じゃ、部活の試合見に来てよ」
「部活の……? サッカー部の?」
「そう! 俺、今度スタメンでフォワードに入れることになったんだ」
サッカーの知識がまったくない祥子には、スタメンでフォワードの意味がわからなかった。
文芸部の中では比較的コミュニケーション能力が高い玲奈が、明るい声で「すごいね」と言った。どうやらすごいことらしい。
「インハイ出るの?」
「いや、それはさすがに三年生だけで固めるんだけど。二年生以下で練習試合をやるんだ。来年のインハイの準備のつもりで」
それを聞いて、祥子はようやく事の重大さを理解した。自分たちは一年生だ。そして、サッカー部はかなりの大所帯である。一年生の蓮があまたいる二年生を追い抜いて試合に出るということなのだろう。それはたいへんな大抜擢であり、名誉なことに違いない。
「試合、見に来てよ」
蓮の笑顔がまぶしすぎて、祥子の目は潰れそうだ。
「俺、藤牙さんのためにシュート決めるよ」
少女漫画で鍛えられた祥子には、わかる。それは実質愛の告白である。
顔から火が出るかというほど赤くなってうつむいた祥子に、蓮が「ね、どう?」と詰め寄ってきた。
祥子は、自分の制服のスカートを、ぎゅっと握り締めた。小さな声を喉から振り絞った。
「い……行きます……」
その時だった。
「小宮山、てめえ!」
大事件が勃発した。
周りで見ていたある男子が肩を怒らせて近づいてきて、蓮の胸倉をつかんだのだ。
眼鏡をかけたニキビ面のその男子は、確か水嶋という。下の名前は思い出せない。同じクラスで、将棋部だか競技かるた部だか、だった気がする。口を利いたことは一度もなかった。
水嶋は蓮のシャツの襟を持ち上げるようにして首を絞め始めた。とはいえ蓮は水嶋より背が高いので大きなダメージはなさそうだが、戸惑った顔をしている。
「おい、なんだよ」
「お前さ、お前さ」
水嶋の声がぶるぶると震えている。
「ふ、ふ、藤牙さんはさ、おれたちのもんなんだよ! お前みたいなちゃらちゃらしたやつが触れていい存在じゃねえんだよ!」
祥子は驚愕した。何を言ってるんだこいつは、と蒼ざめた。
水嶋は目を真っ赤にしていた。今にも泣き出しそうだ。
「お前、この前、藤牙さんに怪我させたくせに。どうせあの時顔を見たから好きになったんだろ」
「何言ってんだよ、落ち着けよ」
「おれはなあ、ずっと前から藤牙さんがめちゃくちゃ綺麗なことを知ってたんだ。体育の時に、走ると前髪が揺れて……そういう時にちらりと見える綺麗な顔が大好きなんだ。テニス部とかバスケ部とかのビッチとは違う、おれが見出した天使なんだ!」
「何それ」
蓮は水嶋を軽蔑の目で見た。
「キモ」
水嶋が拳を振り上げた。
突如目の前で始まった乱闘沙汰に、玲奈たち女子は悲鳴を上げて逃げ惑った。けれど男子たちはみんな水嶋に声援を送った。祥子が知らなかっただけで、この空き教室に集う陰キャ男子たちはみんな祥子にあこがれの気持ちを抱いていたのだ。露骨にレベルが高いギャルたちや優等生たちではなく、自分たちが先にその美しさを知ったと思い込んでいる陰キャの祥子を、アイドルのように崇めていたのである。それを、陽キャでモテ男の蓮に奪われると思っている。
蓮や水嶋が机や椅子にぶつかったので、物が倒れて大きな音が響いた。廊下にいた他の生徒たちもそれを聞きつけて野次馬として空き教室に入ってきた。常識的な何人かが「先生を呼べ」と言って出ていったが、多くはおもしろ半分に見つめている。
「やめろ、蓮!」
見覚えのある男子が二人ほど現れた。祥子が怪我をしていた時に蓮とじゃれていた男子たちだ。
「殴ったらお前がレギュラー取り消しだぞ!」
彼らの言葉を聞いて、祥子はさらに血の気が引いていくのを感じた。大事なサッカーの試合が、それも一年生での大抜擢が、自分のせいで台無しになるかもしれない。そう思うと涙があふれて止まらなくなった。
蓮は抵抗するのをやめた。それをいいことに、水嶋が蓮の腹に蹴りを決めた。うずくまる蓮の背中を、水嶋がさらに蹴る。先ほどの運動部男子たちが水嶋を羽交い締めにしようとしたが、本気で怒り狂っている彼を取り押さえるには少し時間がかかった。
自分のせいで蓮が暴力を受けた。
それが悲しくて悲しくてたまらなくて泣いている祥子を、文芸部の三人だけでなく、カースト上位の女の子たちまで心配して「大丈夫? 大丈夫?」と聞いてくれる。でも言葉が出ない。
やっと教師が入ってきた。祥子たちのクラスの担任である数学教師である。数学なのに体格が良く柔道部の顧問をしている彼は、水嶋の胸倉をひっつかんで空き教室から連れ出そうとした。
「おい、小宮山、お前も後で話を聞くからそこで待ってろよ」
蓮が立ち上がりつつ、おもしろくなさそうな顔で「はい」と頷いた。
担任がちらりと祥子を見た。彼は、はあ、と溜息をついてからこう呟いた。
「顔がいいのも大変だな」
祥子はショックを受けた。こんなトラブルが起こるのは、祥子の顔のせいなのか。祥子は整形手術などを受けていない。メイクすら、基礎化粧品と日焼け止めを塗る程度で、基本的にはしていない。ほとんど生まれ持ったそのままの顔なのだ。それなのに、あんまりだ。
「ほら、解散だ、解散」
タイミングよく予鈴が鳴ったこともあり、生徒たちが散り始めた。祥子の周りにいた女の子たちもドアのほうに向かって歩き出した。
そんな中、ぽろっと、誰かの声が聞こえてきた。
「でも、こういうおとなしそうな黒髪ストレートの女のほうがビッチだったりするよね」
あまりの物言いに、祥子は口が利けなくなってしまった。
祥子はそのまま放課後まで無言で過ごした。ひどい悲しみに包まれて、ずっと打ちひしがれたままだった。




