第1話 あ、誕生日留守です
その日、祥子が学校から帰宅すると、晃はダイニングテーブルについて哀愁を漂わせていた。いつもは台所で料理をしているかソファにふんぞり返ってテレビを見ている時間帯なのに驚いた。しかも、表情が心なしか硬い。
「ただいま……」
おそるおそる声を掛けると、晃が「おかえり」と言ってから溜息をついた。
「何かあったの?」
晃が立ち上がった。そして、テーブルに両手をついた。軽く頭を下げる。
「ごめん、祥子」
祥子は動揺した。謝られるようなことがあった記憶がないからだ。先週晃が入院してからというもの、祥子は彼を少しだけ丁寧に扱うようになったので、喧嘩などは一切していなかった。もちろん晃から嫌なことをされたおぼえもない。通学用のリュックを床におろして、小走りでダイニングテーブルに近づいた。
「どうしたの? 何があったの?」
おろおろと話し掛ける祥子に、晃が言う。
「ケーキ」
「ケーキ?」
「祥子の誕生日ケーキ、いつもの苺のやつ、注文できなかった……」
祥子は「あっ」と呟いた。
言われてみれば、祥子の十六歳の誕生日まですでに一週間を切っている。晃はきっと今日の日中に馴染みのケーキ屋に行って、祥子の誕生日のためにホールケーキを注文しようとしたのだ。
「今年、去年の台風で契約農家さんのビニールハウスが壊れて、苺の調達に支障が出ているらしくって。もっと早く注文してくれれば確保したんですがね、って言われちゃった……」
祥子の脳内に苺のケーキが思い浮かぶ。ベースはショートケーキだが、全面に薄くスライスされた苺を張りつけてあるやつである。上部にも山盛りの苺が乗せられていて、カットする時に包丁を握る晃が邪魔だの潰れるだのと文句を垂れるのが毎年の恒例行事になっていた。
「ごめんな、俺が入院なんかしていたばっかりに……」
晃がうなだれた。心底悪いと思っているらしい。
「ケーキなんて、そんなに深刻な話? 私の誕生日は毎年来るけど、お父さんが生死の境をさまようのはわたしにとって人生で初めてのことだったんだから、衝撃度というか重要度というかが違うよ」
「誕生日は毎年来るけど、十六歳の誕生日は人生で一回しかない。あとほんの数日で十五歳の祥子はいなくなって、十六歳の祥子になっちゃう」
なんて面倒な親だ。確かに理屈はそうなのだが、そこまで深刻になる必要があるだろうか。世の中にはケーキどころか誕生日を祝福する言葉さえない子供もいるというのに、うちの父親はケーキに乗せる苺の数に一喜一憂している。なんだか恥ずかしい。
「で、今年のケーキなんだけどさ」
晃がテーブルの端に置いてあったチラシを手に取った。
「三日前までならホールケーキも受け付けてくれるらしくて。ショートかチョコしか選べないんだけど、どっちがいい? もしくは、今年はホールケーキじゃなくてカットケーキにして、当日苺のタルトと他に何かその場で気になったものを買う?」
チラシをすっと差し出された。六個ほどのホールケーキの写真が掲載されており、うち四個にバツ印がつけられている。
「ていうか」
祥子は眉間にしわを寄せた。
「わたし、言わなかったっけ?」
「何を?」
「誕生日当日、高校の友達がパーティしてくれるから、家にいないよ、って」
晃が目を真ん丸に見開いた。
「あれ、言ったと思ってた。病院にいた時に、病室で」
「え……記憶にない。お父さん、それ、いいって言った……?」
「言ったよ。決まってすぐ報告しようと思って、退院する前に行ったよ」
「ヤバ。えっ、俺記憶飛ぶほど弱ってたってこと?」
「そうだよ、死にかけたんだよ!」
事の重大さをわかっていないのは本人ばかりなのだ。
「でも、早く言わないとお父さん準備を始めちゃうと思って……もしかしたら病院のロビーとかでケーキ屋さんに電話しちゃうかもと思って……」
祥子がそう言うと、晃は押し黙った。何か思うところがあるらしい。
「わかった。もうちょっと詳しく教えてくれる? お友達とどういう約束になってるのか」
祥子は頷いた。
「誕生日当日に、学校からそのまま秋葉原に行くことになってるの。玲奈がね、持ち込み可のカラオケを見つけてきて。そこで、三人が割り勘でケーキを買ってきてくれて、その場でカットして食べようってことになってて。あ、この三人ってこの前家に連れてきた文芸部の三人ね」
「あ、そう……」
彼はもう少し何かを考えてから、「わかった」と言った。その声がどうも小さかったので、祥子はちょっと不安になった。何か気に入らない点があるのだろうか。
「だめ?」
「いや、いい。祥子ももう高校生なんだから、今後はそういうことも増えていくんだよなあ」
そこまで言ってから、苦笑する。
「もう、親とずっと一緒っていう年齢じゃなくなっちゃうんだな……」
その台詞の響きにほんのりさみしさや切なさを感じ取ったため、祥子は少しだけ悪い気がしてきた。我が家はずっと父一人子一人でやってきて、誕生日は毎年二人でホールケーキを分け合ってきたのだ。祥子の物心がついてからの十年と少し、それが我が家の伝統だったのだ。
しかし、晃も言ったとおり、祥子ももう高校生である。祥子には祥子の付き合いがある。
オタクの友達と騒げるのは楽しい。利用時間の終了時刻ぎりぎりまで流行りのアニメのテーマソングやソシャゲのアイドルグループの歌を歌える時間はきっとかけがえのないものだろう。いくら家族と言っても、趣味が違う晃とではその時間は代替できない。
「補導されないように、二十二時までには帰ってくるんだぞ」
そう言って晃が微笑んだので、祥子はほっと胸を撫で下ろした。
「じゃあ、うちでの祥子の誕生日パーティは週末にしよう。ケーキは金曜か土曜の夜にしよう」
「やったー、そうして」
「どっちにしてもケーキは頼もうか。俺も食べたいし。当日じゃない日に受け取りで予約すればいいや」
祥子が大きく頷き、笑顔を浮かべる。
「せっかくだから、お父さんも出掛けなよ。夕飯、作らなくてもいいんだから。ぱーっと飲み会とかしなよ」
娘のそんな提案に、晃はまた動揺した顔を見せた。
「仕事とか家事とかばっかりしてちゃだめだよ。お父さんも友達と遊んだほうがいいよ」
「お父さん、友達いない……。中学高校とぼっちだったし、卒業後はずっと仕事と育児しかしてない……」
祥子は、うっ、と喉の奥を詰まらせた。確かに、晃からは学生時代の友達の話を聞いたことがない。慌てて取り繕って「いないことないでしょ」と言ってみたが、彼の日常生活を振り返って考えてみるに、本当にいなさそうである。
「龍平さんとか美咲さんとかは友達にカウントされてないの?」
「あいつらは仕事の同僚だもん……まあ二十年くらいの付き合いと言えばそうなんだけどさ」
「まあとにかく、お父さんも息抜きに出掛けてね! 妖魔退治なんて行かなくていいから」
その場から逃げたくなって、祥子は「荷物置いて着替えてくる」と言って床の上のリュックを手に取った。身を翻して子供部屋に向かう。そんな祥子の背中を、晃はずっと見つめていた。




