第18話(最終回):ハロー・ワールド、バグだらけの空の下で
あの日から、一年が過ぎた。
かつて「電気街」と呼ばれた秋葉原は、今や「電子の森」と呼ぶに相応しい姿に変貌していた。ビルの外壁を覆う銀色の蔦は、琥珀色の光を放ちながら穏やかに脈動し、街全体にパッチワークのような模様を描き出している。
理久は、かつての拠点のあった地下防空壕の入り口に座り、ハンダごてを握っていた。作業台の上にあるのは、第一話で彼が拾い上げた、あの「半分溶けたガラケー」だ。
「よし……これで導通は通るはずだ」
理久がスイッチを入れると、液晶画面がチカチカと瞬き、不格好なフォントでメニュー画面を表示した。本来ならネットワークなどどこにも繋がっていないはずの死んだ端末だが、今の世界では、空気中を巡るデジタル植物の微弱なパルスが、自由な「共有Wi-Fi」のように機能している。
「りくさーん! お昼だよ! 今日は浅草から届いた『水耕栽培の特製おにぎり』!」
陽気な声と共に、リリカが階段を駆け下りてきた。彼女は一年前の派手なインフルエンサー衣装ではなく、動きやすいサロペットを身に着けている。背後には、以前よりも顔色の良くなったタカシが、自作のタブレット端末を抱えて続いていた。
「お、リリカ。ちょうどいい。こいつが直ったところだ」 「えっ、あのもじゃもじゃだったスマホ? まだ直してたの?」 「エンジニアの意地だよ。……ほら、タカシ、お前の方の『環境OS』の調子はどうだ?」
タカシは慣れた手つきで、壁の蔦に手を触れた。彼の指先を通じて、街のバイタルデータがホログラムとなって空中に浮かび上がる。 「順調だよ。浅草の『棟梁』お登勢さんのところの水車発電とも、うまく同期できてる。植物たちの『リソース分配』も最適化されてるし、もう暴走の兆候はない」
あの日、スカイツリーで起動した「新OS」は、世界を元通りにする魔法ではなかった。 依然として、かつてのような大規模なインフラはない。便利なデジタル社会は崩壊したままだ。しかし、人々は「植物」を介して互いの意志を緩やかに共有し、アナログな労働とデジタルの知恵を組み合わせた、新しい暮らしを築き始めていた。
「ねえ、りくさん。お父さんの声、最近聞こえた?」
リリカの問いに、理久は空を見上げた。スカイツリーの頂上は、今も琥珀色の光を放ち、空を優しく見守っている。 「いや……。でも、この風の音や、蔦の揺れ方の中に、アイツのコード(癖)を感じるよ。アイツは今、この世界そのものを『メンテナンス』してるんだ。俺たちのためにさ」
理久は修理の終わったガラケーをポケットに突っ込み、おにぎりを頬張った。 バグが消えたわけじゃない。 不便なことも、予測不能なトラブルも、この世界にはまだ山ほどある。 だが、不完全なもの、ノイズのあるものこそが、生きていくということなのだと、今の理久は知っている。
「さて、午後からは浅草の蒸気バイクの点検だ。リリカ、タカシ、行くぞ」
「了解! 今日のライブ配信は『新時代の交通安全』で行くからね!」 「理久、僕も新しいパッチのテストをしたいんだ。……また無茶な運転はしないでよ?」
三人は笑い合いながら、緑に包まれた秋葉原の街へと歩き出した。 理久の腰で、トランシーバーがかすかなノイズを立てる。 それはかつての恐怖の音ではなく、明日の修理箇所を知らせる、新しい世界からのハロー・ワールドだった。
(『デジタル・バグ・ガーデナー』 完)




