第七局 日向舞の決意
昔から、自分がやりたいことをやりたいと、欲しいものを欲しいと、言えなかった。自分の意見をちゃんと言いましょう、なんて、自分には無理なんだ。そう思っていた。
日向舞は、友人の愛菜と莉音とともに、チェス部の活動場所の多目的室に向かう階段を降りていた。友人なんて言ったって、入学式でたまたま席が近かっただけの三人だ。それだけで、これから卒業まで一緒にいましょうね、となるのは何故だろう。
そんなことを考えていると、下にあるはずの階段がない。つるっ、という感覚のあと、体が浮き上がる。心臓がふわっと浮かび、背中がひんやりする。舞は階段から転げ落ちた。
幸い手をつけて、打ちどころも悪くなかったのでそこまで痛みは感じなかったが、視線を上げると、愛菜と莉音が振り返り、舞を見ている。一見表情は心配そうに見えるが、その奥底の感情に、転んだ舞への心配などなく、わずかに、ほんのわずかに嘲笑があるのを、舞は感じ取ってしまった。
「えっ、舞ちゃん大丈夫?」
「痛くない?」
「うん、痛くないよ、大丈夫」
舞は笑顔を作る。愛菜と莉音はほっとしたような表情で歩き出す。
「ていうか、放課後も翼先生に会えるの最高じゃーん!」
「それなー」
心底どうでもよかった。先に階段を降りる愛菜と莉音の後ろ姿を眺める。新学期が始まって四日くらい経ってから、三人で歩くときいつも自分が後ろにいるのに気付いた。小学校の時もそうだったな、と舞は思い出したくもない忌々しい記憶を思い出す。
明確にいじめられていたわけじゃない。むしろ、側から見れば友人にも恵まれ、幸せな子だろう。しかし、人の気持ちを察するのがうま過ぎた舞は、小学校高学年の頃から彼らも無意識の内に舞を見下し、「一番仲の良い子たち」から外しているのがわかった。
どうして自分はいつもこうなのだろう。性格や雰囲気が暗いからか。何度か明るく振る舞うことを試してみたこともあったけど、その度に作り笑いで塗り固めた自分の顔が気持ち悪くて、吐いてしまった。
多少の作り笑いでは吐かなくなってきた今でも、三人組の後ろにいるとき、「二人一組になってください」と言われてなんの相談もなく一人になったとき、そんなときでも気にしていないような顔を作るとき、喉の奥からせり上げる熱いものを必死に我慢している。
また、同じことを、六年間繰り返すのか。中学に行ったら変われるかも、と抱いた微かな希望も砕け散った。
でも、チェスに出会えた。愛菜と莉音についていって体験しただけのつもりだったけど、すごく、すごく、楽しかった!
舞は小さい頃から自分の考えを言うのが苦手だった。でも、チェスなら、言葉を発さずに楽しめる。チェスなら、どんどん自分を表現できる。まだ一度体験しただけだけど、舞はすっかりチェスが好きになっていった。チェスができれば、判を押したような学校生活も、どんどん華やぐ気がする。
愛菜と莉音の背中をおいながら物思いに耽っていると、教室のドアの前で二人が立ち尽くしていた。二人の隙間から背伸びをして除くと、入学式の姿からは想像もできない翼先生の醜態が映っていた。
羨ましい!あんなに自信を持って自分だけの世界に入って、自分の好きなものを、こんなにも堂々と語ることができる翼先生が!こんなにも光り輝いている人は初めてみた!この人みたいになりたい!
愛菜と莉音は、先輩が翼先生を叱りつけているのを幻滅した目で見る。少しして、愛菜が口を開いた。
「莉音、舞、行こう」
「そだねー」
「なんか幻滅しちゃったー。翼先生変態じゃん」
「あんな部活やってらんないよね」
え・・・・・・?舞は二人の言葉が理解できなかった。この子たちは本気で言っているのか。あんなに輝いている人を、変態っていうの?
他にも体験に来ていた女子がゾロゾロと帰っていくのをみながら、舞は立ち尽くすことしかできなかった。
「舞?行くよ?」
ああ、何度も見た。「あなたも私の仲間だよね?」と語りかける目。もう格下扱いされているのか。どうしよう。これに答えて仕舞えば、もうチェス部には入れないかもしれない。そんなことになったら、私は・・・・・・。
「う・・・・・・うん」
やってしまった。また、言えなかった。やりたいことを、今度こそ、言おうと思ったのに。
舞は帰ったあと、今までの人生の十二年間で、一番激しく泣いた。込み上げそうな嗚咽を、なんとか抑え込みながら、布団を被って泣いた。
結局一睡もできず朝を迎え、ダラダラと六時間の授業を終えた。
そのとき、一人の男子が舞に向かって話しかけてきた。
「あ、あの、日向さん。僕の名前、覚えてる?吉野丈。一緒にチェス部の体験行った。えっと、その、多目的室まで一緒に行かない?」
「ごめん、今日から友達に誘われて吹奏楽部の体験に行くの」
愛菜と莉音は完全にチェス部に興味を失ったらしい。明日はダンス部の体験に行く予定だ。
「そ、そっか・・・・・・」
丈が遠ざかる。遠くから、丈と、丈といつも一緒にいる男子の、「どうだった?」「ダメだった」という会話が聞こえた。チェス部、部員少なくて困ってるのかな。正直吹奏楽部に興味なんてない。チェス部、入りたいな。
「舞、音楽室行くよー」
「う、うん!」
音楽室に向かう二人の背中を眺めながら、ふと思った。このままでいいのかな。いつまでも二人の後ろで、ずっと誰かに道を作ってもらう人生で。そう思った瞬間、舞の口が動いた。
「ごめん、私、チェス部に入りたい。だから、だから、このまま、チェス部行ってくる!」
二人の反応も見ずに廊下を駆け抜けていく。チェスがやりたい!縦八マス、横八マスの盤上で、自分を表現したい!息を切らしながら、舞は人生で一番速く走った。
引き戸をバンッと開ける。丈が顔をぱあああっと明るくさせているのが視界の隅に見えた。
「はあ、はあ、あ、あの、チェスがやりたいんです!チェス部に、入らせてください!」
翼の口角がすっと上がった。
「ようこそ、チェス部へ!」




