第十五局 盤上の女王
インフルエンザにかかりまして、投稿をしていなくて申し訳ございません!
一体どれくらいの時間が経っただろう。数十分、あるいは数時間か。でも、時間なんてどうでもよかった。負けたんだ。文のチェスは、何かに導かれるような、美しいチェス。悠と同世代の少女が、悠を遥かに凌駕する才能を持っているという事実を、受け入れたくなくて、でも受け入れるしかなかった。
薄暗い休憩所の隅で、悠は一人泣いた。光は、自動販売機から漏れる灯りだけだった。
泣いても泣いても、どんどん込み上がってくる文への崇敬と、悔しさ、全ての感情がごちゃ混ぜになったような涙が、悠の頬をつたい、今まで書いてきたチェスノートに落ち、滲んで消えていく。
何度も何度も反芻される文のチェス。なぜあの時気が付かなかったんだ。彼女がクイーンを犠牲にした大きな罠を仕掛けていることに。自分の実力に驕って、全ての罠の可能性を排除したと思っていた。なんて、なんて、恥ずかしいんだ!
文の赤の双眸を思い出す。彼女は悠を見ていなかった。見ていたのは悠の肉体の先にある悠の思考だけ。悠の心の中まで全部暴くような、相手を強制的に無力にする、力強く、狡猾なチェス。
そういえば、悠がチェックされる直前、彼女は笑っていたように見えた。あの赤い唇が、ゆっくりと弧を描いていた。
もう涙も枯れてしまった。戻らなければ。翼か丈はまだ勝ち残っているだろうか。よく観戦しておかなければ。悠が立ちあがろうとしたその時、こつ、こつ、と足音と、シュルシュル、という音が聞こえた。悠は思わず身構え、静止する。
曲がり角から出てきた白い肌の少女は、一条文だった。彼女の右手には、黒のキングが踊っている。ペンを回すように、指から指にクイーンをクルクルと移動させ、弄ぶようにしていた。 彼女は薄く笑うと、ゆっくりと舌なめずりをした。
残酷な、ハンターの表情が、あまりにも妖艶で、美しくて、目が離せなかった。
その時、黒のキングがクルクル、と高く上がった。キングが窓の明かりを反射し、キラキラと輝く。彼女はそれをパシッと捕まえると、さらに口角を引き上げ、キングをポケットに入れる。
悠の視線に気がついた文と目があった。文の口が開く。
「あっれー、さっき私に負けた子じゃん」
文が挑戦的な口調でいう。悠は、かあっ、と顔が赤くなったが何もいえなかった。
「君、びっくりするほど弱いんだね。あんな目先の駒に引っ張られて、バカみたい。チェスはさ、多く駒を取ったら勝ちじゃない。キングを取れなきゃ、意味がないんだよ。今の君は、人参ぶら下げられて走り続ける馬と大差ないよ」
「そうだね・・・・・・」
それしか、いえなかった。どれだけ酷い言葉で罵倒されても、彼女は強かったから。正しかったから。枯れたはずの涙が込み上げてくるのを、必死で抑えようとするが、無理だった。恥ずかしくて、悔しくて、眩しかった。
「大丈夫、泣かないで。君は弱いけど、もう強くなれないわけじゃない」
文の親指が悠の頬にふれ、涙をすっと拭う。さっきまでの狡猾なハンターの表情と今の慈愛に満ちた女神のような表情は、まるで別人だった。
「あ、あの、君は、何に導かれてチェスを指してるの?」
文がふっ、と笑う。
「そうだね、自分の中のデータかな。天啓のようにも見えるけど、それは全部、私の中で培われたものだ」
よくわからなかったけど、きっと彼女にしか見えない世界がある。その一言で、悠と彼女の差の大半は生まれ持った才能なのだと理解した。でも、才能の差を埋める努力をすればいい。たったそれだけだ。
「じゃあね」
もう用はないとでもいいたげに、文は踵を返す。
「あの!」
思わず文の手首を掴んでしまった。文の瞳孔がわずかに広がる。
「僕は、君に負けないくらい、強くなって、いつか、いつか最強になる。だから、待っていてほしい!」
自然と言葉が出てきた。悠はこの少女のチェスに、強い憧れを抱いている。彼女に一歩でも近づいて、超えたい。文のチェスは、それくらい魅力的なものだった。
「そう。期待してる」
文は優しく悠の手を振り払い、背中を翻して去っていく。今までの人生で見てきた中で、一番輝いて、美しく見えた後ろ姿だった。




